禅堂に入り、私の位置に腰を下ろすと、
同時に6時の梵鐘の音。
坊守さんの撞かれる時報の鐘の音。
老師から、着座の「坐蒲(ザブ)」の位置、
座布団から後ろにはみ出すくらい下げ、
前位置に余裕を作る方が座りやすいと、の案内。
小鐘3つでスタートです。
当地の起床5時は、外は真っ暗、それでも6時になるとほぼ明けきっています、
早朝の堂内は静寂に包まれ、仲間の出し入れする息のねが微かに聞こえる時も、
暁家のカラスの声、虫の合奏が音のすべての時間。
35分位い無言の時間が過ぎ、老師の座中のお話が始まる。
「皆さまがこうして座っている時の思いは、
それぞれ別別のことが浮かんでいるのでしょう。」
無言のまま、ただ座るこの価値は、
「自分はこんな事して、私は何者なのだろう」次々と過去の思い出などが巡る中、
坐禅経過の中では、その思いが薄れたり、消えゆく時間がある、
そんなことが出来るのも坐禅。
「無我」という状態、それに導いてくれるのが坐禅です。
喜び・苦しみ・楽しみ・期待などが無い世界、「正身端坐での坐禅」です。
この教えは、お釈迦様が考え悟られた手法が、
道元禅師様もより深く求められた。
そんな事あんな事野雑念が消えゆく世界、仏法では、これ「解脱の世界」といわれている。
今一つ、今迄気がつかなかった私という命、「これを包んでくれる涼しい風」、
命という風です。
この風を感じて日常生活に生かせ、喜びを感ずる時、
大きな「慈悲の心」にふれ両手を合わせて感謝していく
自分を育んでほしい。
世界中が本物の平和を呼びかけるのも坐禅の効用。
この集いはそのような事も含みます。
ここで小鐘1つ、坐禅の終わりです。
なぜか今朝の一炷(イッチュウ)は52分の長さでした。
座後のお茶の振る舞いを頂き、みそ煎餅のもてなし、嬉しいひと時。
来月も元気で出会いましょうで解散。
勝山義宣寺寸描