新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

1968年民主党大会(その1)

2020年07月16日 | 日記

 マイク・ロイコ「ボス/シカゴ市長リチャード・デイリー」から、68年民主党大会の混乱ぶりを3回に分けて抜粋する。

 1968年8月26日から29日にかけてシカゴで民主党大会が開かれた。シカゴは、当時のジョンソン大統領に次いで民主党ナンバー2の権力者リチャード・デイリーが率いるシカゴだった。ときはまさにベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が盛んだった時期で、全米から5千人の反戦運動家が集まった。それに対してデイリーは警察官1万2千、州兵5千、機動隊6千、保安官6千、それに最大規模の秘密警察を配した。反戦運動のリーダーたちは一人残らず監視下に置かれ、その行動を尾行された。党大会の結果はハンフリー副大統領が大統領候補に任命され、最終的に共和党ニクソン候補に敗れたことは周知のとおりだ。メディアは連日、地方からの党の代表団、候補者たちのようすよりも、もっぱら反戦運動家たちと守備隊との小競り合いを追いかけていた。
 初日の日曜日、アンフィシアターに集まったイリノイ州代表団は次々にデイリーをもちあげる演説をし、その後デイリーを議長に選んだ。それからハンフリー、マッカーシー、マクガバンという大統領候補者たちに演説させ、ジョージア州知事レスター・マドックスが演説している最中、デイリーはそばに置いたコートを取り上げていった。「マドックス知事、そろそろ切り上げてくれないか。奥方たちがディナー・パーティーを待ちわびているんでね」。デイリーの一存でハンフリーを民主党代表候補に選ぶための投票を水曜に延期してしまった。じつはデイリーは、ハンフリーよりもエドワード・ケネディー上院議員の大統領選出馬を模索していた。




シカゴ警察の汚職の数々

2020年07月04日 | 日記

「シカゴの警察は全米でもっとも腐敗した組織だ」とライフ誌が書きたてたのは1957年だった。1976年まで6期にわたって市長を務めたチャールズ・デイリーの1期目が1955年から59年だった。デイリーにとっては何もかもが思いどおりに運び、わが世の春を謳歌していたときだった。警察の腐敗、汚職の一端を書いておく。
 酒場の営業時間は午前2時までと決められていた。それを午前4時までに延長するには許可をとる必要がある。許可をとるには多額のお金と労力がかかるし、多くは売春の斡旋やドラッグ販売などの違法行為をしているから店はそれを隠しておきたい。午前2時になると店に偵察員が来る。その偵察員にそっとお金を握らせれば、労せずして午前4時まで営業できる。偵察員はその賄賂の一部を自分の懐へ収め、残りは巡査部長にわたす。これを拒否した店主は、翌日の昼間に踏み込まれ、摘発されることになる。それを避けたウィンウィンの関係を店主たちは選んでいる。
 大通りでスピード違反のバイクを見つける。パトカーは赤色灯をともしながら追いかけ、捕まえる。バイクに乗った若者は路肩に寄せて停車し、自分の免許証を10ドル札にくるんで警察官に手渡す。警察官はスピード違反を注意しながら免許証のみを若者に返す。もし若者がシャイだったり鈍感だったりすると、警察官はしばらくああやこうやいいながら時間を稼ぎ、それとなく賄賂を促すが、効果がなければ仕方なく切符を切る。若者にとって切符を切られるほうが損失を大きくするので、たいていの若者は悪弊に従う。
 富裕層が多く住む平和な住宅地の警察に、強盗の容疑者が連れ込まれた。静かで平和であるべき地域に強盗事件が起きるとあっては警察のメンツに関わる。警察の奥の部屋へ容疑者を連れ込み、38口径のピストルを眉間に突きつける。留め金を外し、「この地区で強盗するな。やるなら他の地区でやれ。こんど捕まえたら、ぶっ放すぞ」と脅す。強盗は二度と現れなくなる。警察にとって富裕層はだいせつな存在だった。彼らは政治的影響力をもち、彼らを怒らせると自分たちのクビが危ない。だから警察はいつも富裕層にこびへつらいながら仕事をしていた。
 バー、賭博場、売春宿がひしめく地域は、平和な住宅地に比べ、警察にとっては実入りが多い。賄賂をたらふくせしめることができる。だから警察官はみなそのような飲み屋街を抱える地域への人事異動を望む。定年を2年後に控えた巡査部長が上司から、そのような地域への異動を告げられた。巡査部長は涙を流して喜び、「これで老後の生活が保障された」と漏らしたという。
 さてシカゴ市長デイリーは、このような警察の汚職を津々浦々まで知りながら黙認していた。ところが再選に成功した1959年、とつぜん警察の汚職が激しい市民運動の対象になる。180度身を翻した市長デイリーは、自ら改革派を名乗り、警察改革に乗り出す。デイリーのこのしたたかさについては、別の機会に譲る。



自動車教習所が老人学校になった?

2020年07月03日 | 日記

 久しぶりに近くの自動車教習所へ出向いた。運転免許証の更新に先だって高齢者講習を受けるためだった。70歳の誕生日が免許証更新期日にあたっている。講習は、実地運転、視野度、動体視力測定などの目の検査、講話の3本からなり、2時間で終了した。高齢者講習終了証をもって、免許更新を県の公安委員会に申請する。面倒なことだ。
 この教習所は40年ほどまえに教習を受けたところだ。建物も実地コースも変わっていないような気がする。大きく変わったことは、受講する人の年齢層だろう。若い人が免許取得のために通っているが、その人数がとても少ない。多くは私のような老人で、高齢者講習を受けに来ている。
 指定された午後3時に教習所受付へ行った。受付前のソファには、すでに5,6人が座っていた。みな私と同じくらいの年齢だ。どうやらこの人たちと一緒に講習を受けることになるらしい。受付を終えて、30分ほど待った。待っている間、受付奥ではひっきりなしに電話が入っている。「講習料はいくらになっていますか」「9月19日の午後1時半からならご案内できます」という声が聞こえる。すべて高齢者講習の予約申し込みのための電話のようだ。通知はがきに記載されている講習料の金額をたずねることで、どの種類の講習申し込みかが特定できる。そしていまなら9月19日以後しか予約がとれないことを告げている。受付近くで待っている30分間、電話はこればかりだった。いかに高齢者講習の需要が多いかがうかがえる。
 講話のなかでは、今後は75歳以上になって交通違反をすると実技試験のやり直し、場合によっては学科試験の受け直しをして、合格しなければ運転免許証が更新されなくなる、という新しい情報も伝えられた。ますます高齢者に厳しい社会になっていく。