新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

蛙は何匹いたか

2016年01月10日 | 日記

 まえに紹介した「新モラエス案内」のなかの「モラエスとハイカイ(俳諧)」の章について、著者あてに書いた私のコメントを再録します。
 俳句を鑑賞するときのヨーロッパ人の基本姿勢が日本人のそれと異なることが、いいかえれば時間と空間のとらえ方が日本人と違うことが、句の正しい鑑賞を妨げていると私は考えています。

 古池や蛙飛びこむ水の音

 蛙の数は1匹か複数か、は言い古されてきた議論のようです(モラエスのポルトガル語訳、ラフカディオ・ハーンとチェンバレンの英語訳が載せてあるが、省略します。いずれの訳でも蛙は複数形になっています)。チェンバレンの英語訳でもfrogsになっています。もちろん私は1匹であると思っています。ここで私が考えているのは時間にたいする感覚がヨーロッパ人と日本人とで異なるのではないか、ということです。私たちは1匹の蛙が飛び込んだ瞬間をとらえて静寂、侘びさびを感じるのにたいして、ヨーロッパ人は2分とか3分といったタイムスパンでみて、蛙が1匹だけではないから複数形をあてはめてしまうのではないかと思うのです。

 身にしみる風や障子に指のあと

 障子には複数の穴があいているでしょうが、母なる人はそのなかのひとつだけの穴に着目し、ありし日の息子を偲んでいる、と解釈できなくありません。そのほうが日本的ではないでしょうか。多くの穴をみて「これらの穴は・・」と息子を偲ぶより、ひとつだけを見て「この穴はあの子が・・」と思い出す方がずっと詩的です。この場合、ヨーロッパ人は障子全体を広く見て穴の数がひとつではないととらえるのでしょうが、私たちはその中でもひとつの穴に着目してありし人を偲ぶ傾向がある、といえるのではないでしょうか。

 蝶々に去年死したる妻恋し

 蝶々も私には1羽が飛んでいれば十分です。たとえ3分ぐらいの間に2羽、3羽が飛来しても、1羽が寂しそうに飛んでいるのをとらえて句を作ると思います。全体のなかの一点をとらえ、一瞬をとらえてその感慨を詠むのが俳句だと思うのですが、モラエスもチェンバレンもハーンも一点や一瞬より広い空間を、より長い時間をとらえているような気がしてなりません。だからこそ日本人の句作の境地に達することができないのでしょう。

 さて、みなさんは蛙は何匹、蝶々は何羽いた、障子の穴はいくつあったと思いますか?






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