新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

熱気球の原型

2022年06月25日 | 日記

 1783年6月4日、パリから遠くないアノネー村の空き地で、湿った藁やウールの古布が燃やされた。その煙を直径10メートルの巨大な袋に閉じ込め、発射台にくくりつけていた紐をほどいた。袋は優雅な曲線を描いて1.8キロほど上空へ舞い上がり、8キロほど先の畑へ落ちた。畑仕事をしていた農夫は落ちてきたその袋を、干し草を突き刺すピッチフォークでめった刺しにした。悪魔の贈物で、その後、爆弾が天から落ちてきてその界隈が焼け野原のなってしまうことを恐れたからだった。ムリもない。これが人類最初のバルーンだった。
 その数か月まえ、40代半ばのジョゼフ・ミシェル・モンゴルフィエは夕方、居間のファイアプレースまえに腰を下ろし、立ち上る火花や煙が煙突へと吸い上げられるのを見つめていた。煙が空へ上るのなら、それを掴まえて袋に詰め込めば、それといっしょに人やモノを空中へ上げられるのではないかと考えた。モンゴルフィエ家は紙製造業者として成功し、資産を蓄えていた。学者肌の弟エティエンヌとともに実験に乗り出すことになる。
 6月4日の実験に成功したモンゴルフィエ兄弟は、同年9月、バルーンにくくりつけた籠に羊、雄鶏、アヒルを乗せ、ベルサイユ宮殿の庭から打ち上げた。成功した。そして3匹の生きものがぶじに地上に戻ってきたことから、上空には有毒ガスが存在しないことが分かった。
 そこへ若手化学者ジャン・フランソワ・ピラートル・ド・ロジエが現れる。彼はモンゴルフィエ兄弟の実験を熱狂的に支持し、自分がそのバルーンに乗って空を飛びたいと申し出る。彼はバルーンを作ることより、それに乗って空へ舞い上がることに興味があった。
 1783年11月21日、ジャン・フランソワ・ピラートル・ド・ロジエはその夢を叶えた。午後1時54分、ブーローニュの森の王宮の庭園から7階建てのビルにも並ぶバルーンがフランス王の紋章をつけて堂々と舞い上がり、木の頂上、教会の尖塔を超え、8キロ先のセーヌ川の先へ落ちた。
 モンゴルフィエ兄弟はその後、長生きし、安全な地上で死んだ。生涯バルーンに乗ることはなかった。ひたすら空中を飛びたがったロジエは、1785年イギリス海峡を西から東へ横断する偉業に挑戦し、バルーンが燃えて海中に墜落死した。だがその子孫は、フランス最初のパイロットの一人になった。

「人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」。タイトルのユニークさで話題になったロバート・フルガムの処女作に収められた一編のエッセーを紹介した。
 熱気球にいちどだけ乗せてもらった。炭焼き仲間だったKNさんが熱気球のグループに所属していた。同じく炭焼き仲間のBMさんといっしょに、渡良瀬遊水池の上空を1時間ほど遊覧した。あれは2003年ごろだったか。懐かしい。KNさんとはいまも交流がある。


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