新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ポーランドは半端ないぞ

2018年06月27日 | 日記

 明日はポーランド戦か。この3月からポーランドの歴史を読んできたものとして、ひとこと書いておきたい。
 ポーランドは歴史に蹂躙され尽くしてきた。第二次大戦中はナチ・ドイツに抑圧された。ナチはポーランド国内に住むユダヤ人を大量虐殺し、農業、工業生産の役目を終えたポーランド人を同様に皆殺しにするつもりだった。ポーランド人たちのなかには、ロシアが自分たちをナチから救ってくれることを期待する人がいた。
 ポーランドは強力な王権国家として存在したことがなかった。土地所有する一部の貴族が農奴をも所有していた。一般人民たちは生まれながらの階級制に甘んじていた。国として強力な王を望まなかったのは、土地を所有する貴族たちが自分たちの不利になる改革を好まなかったからにほかならない。ポーランドが歴史の舞台に登場した1200年代からずっとその傾向は変わらなかった。貴族階級たちは改革に走るより、リトアニアやドイツ、ロシアとでも手を組んで、自分たちの利益を喪失しないことを選んだ。だから歴史上、何度もポーランドという国名が地図から消えた。地図から消えた時期、貴族たちはロンドンに亡命したり、ウィーンから自分たちの資産を管理していた。いつかまたポーランドが国として復活することを信じていた。事実そうなってきたから不思議だ。
 ポーランドはヨーロッパのなかでも最貧国のひとつだった。ワレサ議長が連帯を率いて立ち上がったのは1980年前後だったと思うが、それは工場労働者の労働条件を改善することを第一の目標にしていた。港湾都市グダニスクを拠点にしていた。それに対して農業従事者の生活を改善しようと尽力していた人がいた。だが時代は東西冷戦のさなかであり、東欧に君臨する旧ソ連からの目に見えない圧力がかかっていた。
 私がポーランド航空に乗ってワルシャワに降り立ったのは、このような1980年の夏だったはずだが、なにしろそれほど社会意識、政治意識、歴史意識が高くなかったので、あまりよく記憶していないし、調査もしなかった。ワルシャワのホテルの女性従業員たちがとてもフランクで、のんびり勤務していたこと、町中を走る2両編成のトラムのスピードが、東京の都電にくらべてとても速かったことが印象に残っている。
 旧ソ連ではそのころブレジネフ書記長が強権をふるい、革新的勢力の芽がある東欧の地域に戦車を送り込み、力でねじ伏せていた。
 ポーランド国内の親ソ連派は、共産主義こそ農業従事者の生活を豊かにすると信じて疑わないし、西洋やアメリカの繁栄ぶりをみてきた革新派は、どうにか革新的考えを広めようと努力していた。旧ソ連のブレジネフ書記長はそのようなポーランド国内の動きを注視していたようだ。

 つぎのような逸話がまことしやかに語られていた。
 ブレジネフが散髪の必要を感じ、クレムリン1階にある床屋へ入った。床屋は書記長には何も語りかけてはいけないことになっていた。ところが、床屋が語りかけた。
「ブレジネフ同志、ポーランドをどうなさるおつもりですか」
 返事はなかった。その数分後、
「ブレジネフ同志、ポーランドはどうなんですか」
 おなじく返事なし。間髪を入れず、
「ブレジネフ同志、ポーランドをどうにかしなくちゃいけませんよ」
 烈火のようにブレジネフがシーツを押しのけ、椅子から跳びあがった。
「ポーランドがいったいどうしたというんだ」
「自分の仕事をしやすくしてくれます」
「なんだと?」
「ポーランドというたびに、同志の髪の毛が逆立つんでさあ」

 このような歴史を背負ったポーランドの、サッカー選手たちのハングリー精神は「半端ない」はずだ。