相手を赦せば自分が「下」になるから決して赦しません。
「当然、自分にあるべきものを奪われた」の「当然」の基準は誰が決めたのか?
気になるところです。
法律などちゃんとした基準によるものならわかりますが、もし「自分自身の基準」によるものなら、大問題です。
自分が不幸な理由は、奪われただけではなく、自分自身に原因がある可能性だってあるのですが、そういう見方が欠けているからです。
そんなのは、ただの被害者意識です。
「慰安婦」や「セウォル号」などのニュースを見た方なら、「被害者を自称しながら、なんであんなに偉そうに上からの目線なんだろう」と思われたことがあると思います。
被害者は邪悪な何かによって権利を剥奪された人たちだから、すなわち「正」で、「上」だ。
韓国には、そういう妙な「連帯感」が出来ています。
上になれなかった人たちが自分自身のために残した最後の予防線、“私は悪くない。私は正しい。だから、本当は私が上なのだ“。
その感覚の副作用であると言えるでしょう。
これが「恨(ハン)」の正体です。
「悪」を設定することで、自分が「善」になれます。
「歪(下)」を設定することで、自分が「正(上)」になれます。
逆に、相手を赦せば、自分の格が下がります。
だから赦しません。
恨(ハン)は、永遠に赦せないから終わらないのではなく、赦そうとしないから終わらないのです。