【写真はクリックすると拡大します】
8月1日(土)
青森も最終日になった。帰る日だが、私のメーンイベントの日。
朝食は青森駅舎隣りラビナ内「VIE DE FRANCE」が7時半に開くのを待って、サンドイッチのモーニングに野菜サラダを付けて食べる。朝から身体が野菜を欲している。
朝食後は、三度目の椅子テーブルで海を眺める。早朝から鳩さんたちは仲睦まじい。
ここで発見。この港湾は釣り禁止の表示。昨日の釣り人が返事しなかったはずだ。釣り禁止のところで「釣れます。」などと返事できないよなぁ。青森人の無愛想ではなかった。
海を眺めていたら、スターとの時間に遅れそうになったので、急いでメーン会場へ。そしたら、スタートが始まっていました。
えぇ、9時スタートではなかったの。慌てて後ろについて行ったら、スタートのスタンプを押して貰ってませんでした。引き返していたら、後部からついてこられていた係りの方が、「貰ってきますので行ってください。」と親切に対応してくれました。急いで列の後方に追い付いてからは、沖舘川沿いを歩きます。しばらく行くと、川沿いから外れるところに橋がありました。「相野橋」です。名前から二つの川の合流地点と思ったら、そのとおりでした。佐賀県の相知町には「であい橋」という橋があり、そこも二つの川が合流しています。
(相野橋)
川沿いから外れて、津軽線、奥羽本線の線路を跨ぐ橋を渡ります。
その後は、また、沖舘川沿いを鳥や花を撮りながら歩きます。
沖舘川多目的遊水地で青森のウォーカーの方に声をかけていただき、ねぶたや八代のウォーキングのお話しなどしながら歩きます。遊水地を出るころに失礼して先を急ぐことにしました。間もなく「三内丸山遺跡」の給水とチェックポイントに着きました。
(給水とチェックポイント)
ウォーキングの係りの方に「見学してきていいですか?」と聞いたら「帰りは自己責任でお願いします。」と言われました。右も左も分からないところで自己責任なんて殺生な、今日は飛行機で帰る日で迷子になるわけにもいけない、と思いましたが、三内丸山遺跡が目的でこのツーデーマーチに参加したのだから、とにかく入ることにしました。中に入って、直ぐのところでボランティアガイドの方の説明が始まっていました。十数名が聞き入っていましたが、半分ほどはウォーカーの方々です。安心して、そのガイドの方について行くことにしました。ラッキーです。
(ボランティアガイドの案内が始まっていた)
世界史的には農耕の始まりが定住の始まりとされています。しかし、日本では農耕なしに定住が始まりました。可能にしたのは土器の発明です。大地に育った草花や木の実を土器で煮炊きすることで定住が始まりました。日本列島では世界史でも特有の文化が花開きました。世界文化遺産に登録する運動には、そのような背景があります。
縄文時代については文献がまったくありません。ガイドの方が言われていました、「土から上はすべて想像です。」と。再現されている竪穴住居もいろんな作りがあります。想像されるものをあれもこれもと作られているようです。住まいと住まいの間隔は当時のものと同じにしてあるということです。
大人や子供の墓も発掘されています。子どもの墓が多いのは、縄文時代は子供が育つのが大変だったことを物語っています。
三内丸山遺跡は、1,500年程継続して定住生活が営まれていました。この間に廃棄されたものが「盛土」として残っており、石器や土器などさまざまなものが出土しています。
低湿地帯はゴミ捨て場になっていました。海の方に流れていくのも計算されていたと思います。
海に向かった道路もあります。富山県の糸魚川周辺のヒスイも発掘されています。北海道、長野県など各地の黒曜石も発掘されています。舟で交流していたと思われます。
まだまだ発掘調査が続けられています。
三内丸山遺跡で特徴的な建造物が、大型掘立柱建物と大型竪穴住居です。
大型掘立柱建物の柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2mあり、中に直径約1mのクリの木柱が入っていました。残っていた木柱にかかっていた重さを測定し、約15mの柱が6本建っていたのではないかと想像されて復元されています。
(大型掘立柱建物)
(発見された柱穴)
大型竪穴住居は、何十人もの人が一堂に集まれる広さです。
大型掘立柱建物も大型竪穴住居も何のための建造物化は、諸説ありますが、想像するしかないので確定的なものはありません。
(大型竪穴住居)
(大型竪穴住居内部)
(大型竪穴住居別角度から)
青森に行く前に本を読んだり、1日目に青森県立郷土館で縄文時代の展示をみたり、三内丸山遺跡に立って、私は、縄文時代に私たちの祖先は定住生活を始めました。定住生活ではさまざまな協働作業が始まりました。その過程で意思を通じ合うための言葉も生まれたと思います。共働作業も最初は小さなものから、段々と大きなものを創れるようになっていきます。生活の便利さも向上していきます。皆で一致協力しあうことに自信を深めていったと思います。他のムラとの競争もあったかも知れません。大きいものを創れば、他のムラから尊敬されたと思います。縄文時代は、共同そして共働生活することに人々が大きな喜びを見いだした時代だと思います。大型掘立柱建物や大型竪穴住が完成した時の喜びは凄かったと思います。皆で協力してどのムラにもない大きいものを造ろう、そういう“情熱”が造ったと思います。
縄文時代は大陸からの文化に影響された時代でなく、日本列島に住む先祖が一から自分たちで協力しあって生活を創っていった時代です。ガイドさんの説明が終った後も、そんな時代の雰囲気に、も少し浸っていたかったのですが、自己責任の言葉が頭から離れず、一緒にガイドさんの説明を聞いていた人たちの流れに乗って、ゴールを目指すことにしました。
三内丸山遺跡は野球場の建設地でした。建設工事が始まって、さまざまな遺跡が出てきて保存運動が起こり、建設は中止され、保存されることになりました。佐賀県の吉野ケ里遺跡は、工業団地として整備される予定が中止になって保存されることになりました。大きな開発があり、そこに遺跡があれば広く保存されますが、そうでない場合もあります。三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡のような大きな集落はまだまだ埋もれている可能性はあると思います。
新たに建てられた野球場は、三内丸山遺跡の直ぐ近くにありました。
(野球場)
(交番)
自衛隊の前を過ぎると、ほぼ直進でした。途中JRの踏切がありましたが、そのすぐ先にも踏切がありました。行くときに陸橋の上からも見えましたが、青森は線路が集中しているようです。
(1つ目の踏切)
(2つ目の踏切)
お昼過ぎにゴールし、頼んでいたお弁当を食べ、ツーデーマーチを終えました。
日本ウォーキング協会が主催する催しには、八代、久留米、北九州しか参加したことはなく、地元以外は初めてでした。お世話になりありがとうございました。
「オール・ジャパン ウォーキングカップパスポート」をいただきました。これから各地でお会いする機会がありましたら、よろしくお願いします。
1つだけ提案があります。それは、三内丸山遺跡コースは、見学して遅れるのは自己責任ということではなく、遺跡内を巡るコース設定にして欲しいということです。
三内丸山遺跡は世界遺産登録へ向けた運動がなされています。そこに遺跡があるという事だけでなく、内容を多くの人に知ってもらうことも運動の一つとして重要かと思います。世界遺産登録運動中の三内丸山遺跡内を巡ります、ということで全国の皆さんの関心も深まると思います。
昨年春、JR九州ウォーキングでは吉野ヶ里遺跡内がコースに設定され、自由散策でなく、矢印と旗で歩くコース決めてありました。ほぼ全域を歩きました。吉野ヶ里遺跡は有料ですが、ウォーキング参加者は無料でした。三内丸山遺跡は無料ですので、入場料の問題は起きないと思います。
その時の写真集はこちらを見てください。
■2014.04.06 JR九州ウォーキング吉野ヶ里公園駅
■当日の地図です。
昼食後、八甲田丸の見学がまだだったので行くこと。ウォーキング参加者は入場料が半額だった。入って驚いた。当時を再現させるのに使われていた人形が本物そっくりなのだ。何度も、人がいる、とびっくりした。写真は列車が収納されているところを多く撮った。
見学後、預けていたスーツケースを受けとり、ワ・ラッセの方へ行くと、出店があり、ビールも販売していた。キリン一番搾り400円であった。4泊5日青森旅行の打ち上げで飲む。
その後、ねぶた祭り前夜祭が行われているあおい海公園へ行く。明日からの出番を待っている山車が展示してあった。写真を撮ってまわる。
ここにも多くの出店がある。サッポロ黒ラベルがあったので、買って海を見ながら飲むことにした。500円。
空港行のバスの時間までは、まだあるのでさらにぶらぶらしていると、アサヒスーパードライの文字が目に留まる。よし、もう一杯と買って、また海岸へ出て飲む。450円。
各店値段がバラバラなのが面白い。こういうお祭りの出店では値段は一致していることの方が多いのだが。後一杯サントリーもと思ったが、飲みすぎるといけないので我慢した。酔っぱらって爆買いしても困る。前夜祭会場を引き上げて青森駅で買い物し、空港行のバスに乗った。
(青森駅へ向う途中)
(青森駅前で)
(青森駅前からバスで空港へ)
暑かったけど、いろんな“情熱”に出会った北国青森の旅だった。
8月1日(土)
青森も最終日になった。帰る日だが、私のメーンイベントの日。
朝食は青森駅舎隣りラビナ内「VIE DE FRANCE」が7時半に開くのを待って、サンドイッチのモーニングに野菜サラダを付けて食べる。朝から身体が野菜を欲している。
朝食後は、三度目の椅子テーブルで海を眺める。早朝から鳩さんたちは仲睦まじい。
ここで発見。この港湾は釣り禁止の表示。昨日の釣り人が返事しなかったはずだ。釣り禁止のところで「釣れます。」などと返事できないよなぁ。青森人の無愛想ではなかった。
海を眺めていたら、スターとの時間に遅れそうになったので、急いでメーン会場へ。そしたら、スタートが始まっていました。
えぇ、9時スタートではなかったの。慌てて後ろについて行ったら、スタートのスタンプを押して貰ってませんでした。引き返していたら、後部からついてこられていた係りの方が、「貰ってきますので行ってください。」と親切に対応してくれました。急いで列の後方に追い付いてからは、沖舘川沿いを歩きます。しばらく行くと、川沿いから外れるところに橋がありました。「相野橋」です。名前から二つの川の合流地点と思ったら、そのとおりでした。佐賀県の相知町には「であい橋」という橋があり、そこも二つの川が合流しています。
(相野橋)
川沿いから外れて、津軽線、奥羽本線の線路を跨ぐ橋を渡ります。
その後は、また、沖舘川沿いを鳥や花を撮りながら歩きます。
沖舘川多目的遊水地で青森のウォーカーの方に声をかけていただき、ねぶたや八代のウォーキングのお話しなどしながら歩きます。遊水地を出るころに失礼して先を急ぐことにしました。間もなく「三内丸山遺跡」の給水とチェックポイントに着きました。
(給水とチェックポイント)
ウォーキングの係りの方に「見学してきていいですか?」と聞いたら「帰りは自己責任でお願いします。」と言われました。右も左も分からないところで自己責任なんて殺生な、今日は飛行機で帰る日で迷子になるわけにもいけない、と思いましたが、三内丸山遺跡が目的でこのツーデーマーチに参加したのだから、とにかく入ることにしました。中に入って、直ぐのところでボランティアガイドの方の説明が始まっていました。十数名が聞き入っていましたが、半分ほどはウォーカーの方々です。安心して、そのガイドの方について行くことにしました。ラッキーです。
(ボランティアガイドの案内が始まっていた)
世界史的には農耕の始まりが定住の始まりとされています。しかし、日本では農耕なしに定住が始まりました。可能にしたのは土器の発明です。大地に育った草花や木の実を土器で煮炊きすることで定住が始まりました。日本列島では世界史でも特有の文化が花開きました。世界文化遺産に登録する運動には、そのような背景があります。
縄文時代については文献がまったくありません。ガイドの方が言われていました、「土から上はすべて想像です。」と。再現されている竪穴住居もいろんな作りがあります。想像されるものをあれもこれもと作られているようです。住まいと住まいの間隔は当時のものと同じにしてあるということです。
大人や子供の墓も発掘されています。子どもの墓が多いのは、縄文時代は子供が育つのが大変だったことを物語っています。
三内丸山遺跡は、1,500年程継続して定住生活が営まれていました。この間に廃棄されたものが「盛土」として残っており、石器や土器などさまざまなものが出土しています。
低湿地帯はゴミ捨て場になっていました。海の方に流れていくのも計算されていたと思います。
海に向かった道路もあります。富山県の糸魚川周辺のヒスイも発掘されています。北海道、長野県など各地の黒曜石も発掘されています。舟で交流していたと思われます。
まだまだ発掘調査が続けられています。
三内丸山遺跡で特徴的な建造物が、大型掘立柱建物と大型竪穴住居です。
大型掘立柱建物の柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2mあり、中に直径約1mのクリの木柱が入っていました。残っていた木柱にかかっていた重さを測定し、約15mの柱が6本建っていたのではないかと想像されて復元されています。
(大型掘立柱建物)
(発見された柱穴)
大型竪穴住居は、何十人もの人が一堂に集まれる広さです。
大型掘立柱建物も大型竪穴住居も何のための建造物化は、諸説ありますが、想像するしかないので確定的なものはありません。
(大型竪穴住居)
(大型竪穴住居内部)
(大型竪穴住居別角度から)
青森に行く前に本を読んだり、1日目に青森県立郷土館で縄文時代の展示をみたり、三内丸山遺跡に立って、私は、縄文時代に私たちの祖先は定住生活を始めました。定住生活ではさまざまな協働作業が始まりました。その過程で意思を通じ合うための言葉も生まれたと思います。共働作業も最初は小さなものから、段々と大きなものを創れるようになっていきます。生活の便利さも向上していきます。皆で一致協力しあうことに自信を深めていったと思います。他のムラとの競争もあったかも知れません。大きいものを創れば、他のムラから尊敬されたと思います。縄文時代は、共同そして共働生活することに人々が大きな喜びを見いだした時代だと思います。大型掘立柱建物や大型竪穴住が完成した時の喜びは凄かったと思います。皆で協力してどのムラにもない大きいものを造ろう、そういう“情熱”が造ったと思います。
縄文時代は大陸からの文化に影響された時代でなく、日本列島に住む先祖が一から自分たちで協力しあって生活を創っていった時代です。ガイドさんの説明が終った後も、そんな時代の雰囲気に、も少し浸っていたかったのですが、自己責任の言葉が頭から離れず、一緒にガイドさんの説明を聞いていた人たちの流れに乗って、ゴールを目指すことにしました。
三内丸山遺跡は野球場の建設地でした。建設工事が始まって、さまざまな遺跡が出てきて保存運動が起こり、建設は中止され、保存されることになりました。佐賀県の吉野ケ里遺跡は、工業団地として整備される予定が中止になって保存されることになりました。大きな開発があり、そこに遺跡があれば広く保存されますが、そうでない場合もあります。三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡のような大きな集落はまだまだ埋もれている可能性はあると思います。
新たに建てられた野球場は、三内丸山遺跡の直ぐ近くにありました。
(野球場)
(交番)
自衛隊の前を過ぎると、ほぼ直進でした。途中JRの踏切がありましたが、そのすぐ先にも踏切がありました。行くときに陸橋の上からも見えましたが、青森は線路が集中しているようです。
(1つ目の踏切)
(2つ目の踏切)
お昼過ぎにゴールし、頼んでいたお弁当を食べ、ツーデーマーチを終えました。
日本ウォーキング協会が主催する催しには、八代、久留米、北九州しか参加したことはなく、地元以外は初めてでした。お世話になりありがとうございました。
「オール・ジャパン ウォーキングカップパスポート」をいただきました。これから各地でお会いする機会がありましたら、よろしくお願いします。
1つだけ提案があります。それは、三内丸山遺跡コースは、見学して遅れるのは自己責任ということではなく、遺跡内を巡るコース設定にして欲しいということです。
三内丸山遺跡は世界遺産登録へ向けた運動がなされています。そこに遺跡があるという事だけでなく、内容を多くの人に知ってもらうことも運動の一つとして重要かと思います。世界遺産登録運動中の三内丸山遺跡内を巡ります、ということで全国の皆さんの関心も深まると思います。
昨年春、JR九州ウォーキングでは吉野ヶ里遺跡内がコースに設定され、自由散策でなく、矢印と旗で歩くコース決めてありました。ほぼ全域を歩きました。吉野ヶ里遺跡は有料ですが、ウォーキング参加者は無料でした。三内丸山遺跡は無料ですので、入場料の問題は起きないと思います。
その時の写真集はこちらを見てください。
■2014.04.06 JR九州ウォーキング吉野ヶ里公園駅
■当日の地図です。
昼食後、八甲田丸の見学がまだだったので行くこと。ウォーキング参加者は入場料が半額だった。入って驚いた。当時を再現させるのに使われていた人形が本物そっくりなのだ。何度も、人がいる、とびっくりした。写真は列車が収納されているところを多く撮った。
見学後、預けていたスーツケースを受けとり、ワ・ラッセの方へ行くと、出店があり、ビールも販売していた。キリン一番搾り400円であった。4泊5日青森旅行の打ち上げで飲む。
その後、ねぶた祭り前夜祭が行われているあおい海公園へ行く。明日からの出番を待っている山車が展示してあった。写真を撮ってまわる。
ここにも多くの出店がある。サッポロ黒ラベルがあったので、買って海を見ながら飲むことにした。500円。
空港行のバスの時間までは、まだあるのでさらにぶらぶらしていると、アサヒスーパードライの文字が目に留まる。よし、もう一杯と買って、また海岸へ出て飲む。450円。
各店値段がバラバラなのが面白い。こういうお祭りの出店では値段は一致していることの方が多いのだが。後一杯サントリーもと思ったが、飲みすぎるといけないので我慢した。酔っぱらって爆買いしても困る。前夜祭会場を引き上げて青森駅で買い物し、空港行のバスに乗った。
(青森駅へ向う途中)
(青森駅前で)
(青森駅前からバスで空港へ)
暑かったけど、いろんな“情熱”に出会った北国青森の旅だった。