たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

藤沢周平著 「三屋清左衛門残日録」(再)

2022年11月29日 14時09分58秒 | 読書記

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、もう6年も前に書き込んでいた記事、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・・、早速、コピペ、リメイクしてみた。
それは、それまで、まるで読書の習慣等は無く、図書館通いする暮らしになるなんて、全く想像もしていなかった頃の爺さんが、相互フォロワー登録していたある方から、藤沢周平作品をすすめられ、何の予備知識もなく手を伸ばした書、「三屋清左衛門残日録」の読書記だった。ブログ・カテゴリー「読書記」を設けて、それ以後、少-しずつ読書の習慣が身に付いてきたような気がしているが、そのきっかけになった、爺さんにとっては、記念すべき読書だったと言って良い。
「そうか、それが、6年前だったか・・・」
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


振り返り記事
6年前、2016年11月21日
「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」
コピペ、リメイク

先日、相互フォロワー登録しているある方のブログの「自己紹介欄」に、目が止まった。

「古希過ギタリト謂エドモ残日ヲ数エズ我カッテ夢見シ創造ノ世界ヲ気ママニ逍遥セリ。「残日録とは 日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」ノ意ナリ。

まさに名分・・。数年前にブログを始めばかりの後期高齢者であるが、なんとなく、日日の暮らしや、過去の足跡(あしあと)をブログに書き込んでいるその心境を、言い当ててくれているような気がして、そのまま拝借したい位の、なんだかうれしい気分になってしまったのだ。
それがまた、それまでまるで読書の習慣等無かった爺さんが、相互フォロワー登録していたある方からすすめられて、何の予備知識もなく手を伸ばし、たまたま、初めて読んだ、藤沢周平著「三屋清左衛門残日録」の中の一節を引用されたものだと分かって、一層強いインパクトが有ったのだと思う。「三屋清左衛門残日録」は、仲代達矢主演で、テレビドラマ化されたりしていたようだが、しっかり見た記憶は無く、もちろん、原作を読む等、全く初めてのことで、余計感動が大きかったのだろう。

藤沢周平著 「三屋清左衛門残日録」 (文春文庫)

(目次)

「醜女」「高札場」「零落」「白い顔」「梅雨ぐもり」「川の音」「平八の汗」「梅咲くころ」「ならず者」「草いきれ」「霧の夜」「夢」「立会い人」「闇の談合」「早春の光」


(本文中から引用)

3年前に愛妻喜和を病気で亡くし、先代藩主が死去した時、
藩主の信頼を得ていた用人三屋清左衛門はまだ49歳だったが 
隠居を決意した。
ところが隠居した後、
思い描いていた悠々自適、開放感とは逆に
世間から隔てられた寂寥感、
老いの身を襲う悔恨に駆られる日日となり、
気を使う嫁の里江が 
清左衛門の机の「残日録」に目を止めて
「お日記でございますか」
「ぼんやりしておっても仕方がないからの。
日記でも書こうかと思い立った」
「でも 残日録というのはいかがでしょうね」
「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。
残る日を数えようというわけではない」


「三屋清左衛門残日録」とは、東北の小藩の用人だった、三屋清左衛門が家督を長男に譲り、隠居の身分になってからの日記という意味合いの題名になるが、現役を退いた後の寂寥感や、引退しても尚頼られる充実感、老いた身を襲う悔恨、少年時代の友人や同じ道場に通った先輩後輩、元の同僚等々同年輩との関わり、さらに、藩の派閥争いに巻き込まれ、痛快に処していくといった内容の 連作短編時代小説である。
高齢化社会の現代の定年退職後の生き方にも通じるような文章が随所に見られ、味わい深いものがある。


因みに、2016年(平成28年)以降、北大路欣也主演でテレビドラマ化された「三屋清左衛門残日録」は、最近になって、再放送等で、欠かさず見ている。


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