たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その25(1)

2022年09月23日 17時17分20秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


「燧岳から燧裏林道」

かれこれ25年前1997年(平成9年)10月5日~7日に、妻と二人で、燧岳から燧裏林道を訪ねたことが有った。もちろん、初めての燧岳で、不安と期待いっぱいの山旅だったと思うが、結果は、天候に恵まれ、絶景、紅葉を堪能出来、最高の山旅の一つだったと思っている。
それまで、尾瀬ヶ原や尾瀬沼から仰ぎ見ていただけの燧岳、東北地方の最高峰、やはり一度は登ってみたい山と思いながらも、なかなか機会が無かったものだったが、「その内いつか・・」等と言ってられない歳になり、思い切っって訪れたものだった。いろいろな山行コースが考えられたが、かなり強行に、福島県檜枝岐村の尾瀬御池を基点に、燧岳、見晴十字路、そして、「紅葉が見事・・」と聞いていた燧裏林道を巡る、周回コースを選んだのだった。
「ブログ内検索」してみたら、5年前にも、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んでいたことが分かったが、なんとなく懐かしくなってしまい、改めて、コピペ・リメイクしてみた。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、後年になって、アルバムに貼って有った紙焼き写真をスキャナーで取り込んだ写真が外付けHDに残っており、改めて引っ張り出してみた。記憶はどんどん曖昧になってきているが、写真や、当時の記録・メモ等を見ると、あの日、あの場所の情景までが蘇ってくるから不思議なことだと思う。


深田久弥著 「日本百名山」
   「燧岳(ひうちがたけ)」
(一部抜粋)

広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳(ひうちがたけ)と至仏山(しぶつさん)。燧の颯爽として威厳のある形を厳父とすれば、至仏の悠揚とした軟らかのある姿は、慈母にたとえられようか。原の中央に立ってかれを仰ぎ、これを眺めると、対照の妙を得た造化に感嘆せざるを得ない。
尾瀬沼から燧岳をなくしたら、山中の平凡な一小湖に化してしまうだろう。昔、関東と奥州をつなぐ道の一つがこの沼のふちを通っていた。沼田街道と呼ばれるもので、上州の戸倉を最後として、会津の檜枝岐に出るまで、全くの深い山の中の道であった。その心細い山道の途中で、山と沼と両々映発した美しい風景にめぐりあった旅人の心持は、いかばかりであっただろう。
(中略)
尾瀬という名の由来については、木暮理太郎氏の委しい考証がある。寛文六年(1666年)に編纂された「会津風土記」に小瀬沼とあるのが文献の最初だそうである。それより約二十年前の正保図には、「さかひ沼」と記されていたという。
尾瀬沼は、会津と上州の国境線が湖上を通過しているので「さかひ沼」の称があったのであろうが、燧岳は、全く会津領内にある。福島県南会津郡檜枝岐村の地籍で、地理的に言えば、那須火山脈日光火山群の一峰である。頂上は二峰に分かれ、三角点のある方を俎嵒(まないたぐら)と呼び、他を柴安嵒(しばやすくら)と呼ぶ。後者が二十メートルあまり高い。クラは、岩の意で、マナイタグラは、俎のような岩の形によるものであるが、シバヤスクラのシバヤスは何かまだわからない。
燧という名前は、そのマナイタグラの東北面に鍛冶鋏の形した残雪が現れるからだという。鍛冶すなわち火打である。
(中略)
この山を開いたのは、檜枝岐村の平野長蔵氏で、二十歳の明治二十二年(1888年)八月二十九日、燧岳に登り、さらに九月二十四日頂上に石祠を建設した。その後沼畔に長蔵小屋を建て、尾瀬沼山人と名乗って、その一生を尾瀬の開発と擁護に捧げた。
(中略)
戦前私は数回尾瀬へ行った。十月半ば雪に降られながら三平峠を越えたこともあれば、初夏の富士見峠を越えたこともあった。この峠の近くのアヤメ平から、広い原の向こうの果てに、遮るものもなく燧岳の全容を望んだ時は、天下一品という気がした。おそらく燧の示す最も美しい姿だろう。
(中略)
燧に登った日は快晴に恵まれて、四周の山々を残りなく見渡すことが出来た。
(中略)
長蔵翁のあとは、御子息の長英さんが継ぎ、尾瀬のために尽くしている。長英さん夫婦は短歌をよくし、左のような作がある。
    この朝も 燧の高嶺 雪降りぬ 
        いよいよみ冬 近づきにけり       平野長英
    燧岳の 祭を客も うべなひて 
        赤の飯を食す(おす) けさの安けさ   平野靖子
尾瀬が日光国立公園に入れられてから、非常に賑わうようになった。尾瀬沼のほとりに真っ白な水芭蕉の咲き充つ頃が一番のシーズンで、尾瀬のすべての小屋が満員になるそうである。


山行コース・歩程等

(1日目)尾瀬御池駐車場→広沢田代→熊沢田代→燧岳・俎嵒山頂(標高2,346m)→
     燧岳・柴安嵒山頂(標高2,356m)→(見晴新道)→
     下田代十字路(見晴十字路)・尾瀬小屋 (泊)
     (標準歩行所要時間=約6時間30分)
(2日目)下田代十字路(見晴十字路)・尾瀬小屋→温泉小屋→平滑ノ滝→
     三条ノ滝→兎田代→(燧裏林道)→天神田代→西田代→横田代→
     上田代→田代坂→ノメリ田代→御池田代→尾瀬御池駐車場
     (標準歩行所要時間=約4時間15分)

(朝日新聞社の「週刊・日本百名山」から拝借)


前日の10月5日、14時30分頃には、福島県檜枝岐村の尾瀬御池に到着したようだ。当時はまだ、東北自動車道に入るまでの一般道の渋滞も心配だったが、予想した程でもなく、西那須野塩原ICから国道400号、国道121号、国道352号、国道353号、檜枝岐村も、快走、予定時刻よりかなり早く到着したようだ。宿泊先の檜枝岐村営国民宿舎・尾瀬御池ロッジには、特別早目にチェックインさせてもらい、周辺でゆっくり、のんびり、長距離ドライブの疲れを癒やしたような気がする。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その25
(1)登山靴泥んこの記憶


車を、尾瀬御池ロッジ前の無料駐車場に移動し、
午前7時30分頃、駐車場西端の「燧裏林道入口」から出発している。
程無く、左に、「燧岳登山口」が有る。
「燧岳登山口」を入ると直ぐ、樹林帯の中、前日までの雨で泥濘んで、ズブズブ、
滑りやすい急登が数か所。登山靴も泥んこになり、悪戦苦戦・・。
8時30分頃、木道の有る「広沢田代」に出て、やれやれ・・・。
木道歩き。
濃いガスの覆われでいたが、時々、途切れ池塘風景が見え隠れ・・、

広沢田代から熊沢田代への登山道も泥濘んでいたが、
色付いたナナカマド等を目の保養にし・・・、

 

高度を上げると、ダケカンバと、歩いて来た広沢田代が、眼下に・・、

ガスが消え、展望も良くなり・・、ラッキー!

9時30分頃、「熊沢田代」に到着。
広々、爽快な湿原、どうやら、天気は回復の兆し・・、

小休憩、しばし、池塘風景、堪能

草紅葉の池塘の、見飽きない風景

 

振り返り見る「熊沢田代」

行く手には、「燧岳・俎嵒山頂」の姿が見え始める。

9時45分頃、「熊沢田代」を通過し、
いよいよ、樹林帯から、山頂直下の岩礫帯の急登に取り付く・・・、

(つづく)

 


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