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ネルケ無方 法話 般若心経について

2019-06-15 18:01:03 | 仏教
日本仏教鑽仰会(にほんぶっきょうさんごうかい)の主宰。
中野サンプラザ8階研修室にて。

ネルケ僧侶の動画を見ていたら、東京に来て講演があるというので
出かけていった。

テーマ:わたくしを手放すコツ-心のレシピとして読む般若心経

1000円の入場料。60人ほどの聴衆。
ネルケ僧侶は、曹洞宗の安泰寺の住職でドイツ人。
見た目、youtubeで見るとおりの顔立ち。長身で、袈裟の姿。

昨年の同じ講演では、自力と他力というテーマで話があったらしい。
今回は、般若心経の解説についてであった。

漢字をたまに書きながら説明。・・・漢字は写さなかった。
真宗や真言宗の考えも少し比較のため話す。・・・
他の宗派も勉強している。真宗にしか使わない門徒という
言葉もでた。
ところどころ、話がそれ気味かなと思ったときはあったが、
それは計算ずくだった。
話につながりがあった。
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禅宗は、ダルマによってインドから中国に伝わり
その後日本へ伝えられた。
曹洞宗の開祖、道元禅師は中国に渡り、手ぶらで日本に帰ってきた。
禅宗は、書物を重視しない教えがある。
書物よりも生活の中に教えがある。

とある古い話。生まれてものごころついたときから
頼る人も無く、その日暮らしで、
盗みもするホームレスの男。とあるりっぱな建物に目が入り、
この建物に盗みに入ったらさぞ金目のものがあるだろうと
思った。しかし、怪しまれたためその場を去ろうとした。
ところが、逆に呼び止められた。今人手が足りないから
住み込みで働いてみないか。働くことに。長い間働いて、
その後、その家の主人に死が近づく、するとなんと
その家の息子だった。この教訓は、仏の家に生まれていたのに
仏性のある自分に気づいていなかった。ということ。

この物語は、臨済宗の白隠禅師座禅和賛にも出ている。
衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、
衆生の外に仏なし、衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。
たとえば水の中にいて、渇を叫ぶがごとくなり。
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず・・・


禅宗は、お経をそれほどは読まないが、それでも、般若心経をはじめ
いくつかのお経は読む。お釈迦様も悟りを開くための処方箋として、
多少は自分が書きとめたお経(教え)をとなえただろうと想像される。

安泰寺では、4,5月が一年で一番食料が不足する。そんなとき
山菜を食べる。山菜は悪抜きが必要で、最初はそれを知らずに
師匠に怒られた。悪抜きというレシピ(作り方)が必要だった。

お経には、生きるためのレシピが書いてあっても、
それを自分で実践しなければ意味が無い。
(それ以前にレシピを書いてくれる人が少ない。)

日本には何万(何十万?)というお寺という受け皿がありながら、
お寺としての機能をはたしていない。
(レシピを書いて説明してくれる僧侶が少ない)


般若心経は、観音と一番弟子(舎利子)が登場し、一番弟子が
説教される内容。
観音は実在するとされる存在ではない。

観音は、例えば、親鸞聖人にとって妻のえしんは、
観音様だったのではないだろうか。

かつて、安泰寺の弟子の時代、安泰寺と少し距離をおき、
大阪城でホームレスをしながら座禅会をしていた。当時33歳。
そのとき24歳の彼女ができた。
そんなとき、安泰寺の師匠が事故で亡くなったことを知る。
葬式が終わる。
安泰寺の他の弟子たちは、檀家を持っているお寺の息子ばかり。
安泰寺を継ぐ人間がいない。安泰寺を継ぐ。
当時の彼女にプロポーズ。安泰寺に来てくれ、結婚してくれた。
そんな奥さんは、まさに観音様だった。

しかし、今となっては奥さんは、観音様でなく仁王様になった。
(ここでおおうけ。ネルケ僧侶の鉄板ネタ。)

般若心経の中の観音を自分に置き換えても良い。舎利子に
自分を置き換えても良い。

般若波羅蜜は、自分を手放すこと。
自分が存在していると考えているだけ。
自分が思うように生きていると勘違いしている。

(ないないずくしの内容になっているが、)
無いと理解するより、無限という言葉で、肯定的にとらえる。
苦しみから解放される道は無限にある。・・・

(レジメがあったので、余力があれば書き写したいと思いますが、
 当面は書く予定はありません)

般若心経のぎゃーてーが出てくる部分。
この部分には違和感があった。
自分を手放すという話で終わっても良いのに、
だらに(呪文)で終わらなくてもと思う。
でも、だらにを強調する真言宗の人には
怒られるかもしれないが。

だらに(呪文)の部分は、さあ、いこう。
涅槃に向かってみんなで行こう。とでも
訳せばよいのにと思ったりする。
 

もともとはベジタリアンだった。
ところが、安泰寺では食料そのものが不足。
駆除された鹿や、いのししを村の人から提供されるし
今は、肉は好きになった。

そんな村の人の運動会に呼ばれたりする。
綱引きがある。
村人は、じいさん、ばあさんばかり、こちらは
自分よりもまだ体の大きな弟子もいる。

しかし、綱引きで負ける。
じいさん、ばあさんは、掛け声を掛け合って綱を引く。
いっぽう、こちらは文化も違うし、息があわない。

みんなで、息を合わせて、みんなで涅槃に行こうではないか。
それがぎゃーてーの訳でもよいと思う。

************************
想像通りのよいお話だった。
途中の般若心経の解釈の時間は、細部にあたっては
それほど頭に入らなかったが。

般若心経の解釈も必要だが、それを大部分解釈できたところで、
実践できばければ意味がないと思う。
学問的にそうなんだで終わるのでなく、日ごろから
理解した上での生活、それについて考える。
時には、座禅、瞑想で、より実感できるはずと思うが、
まだ、自分には先かなと思う。



スケジュールなどは、以下のページにでているようです。
https://antaiji.org/ja/

いつか、BSテレ東の「ワタシが日本に住む理由」に
出演することを期待する。


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