高野裕次著
『中国経済 小康社会への鍵 ~物権法の確立とバランスの取れた発展~』③
<3.中華人民共和国成立から現在までの歴史>
1.中国の成立
まず、最初に中国がどのような過程を経て、改革・解放政策、WTO加盟、今日へ至ったのかを概観しておく。1949年に中華人民共和国(中国)が成立してから現在に至るまで、まさに激動の時代を乗り越えてきた。
中国共産党の支持基盤は、農村で農業を営む農民である。しかし、共産党はもともとプロレタリアート(都市労働者)を基盤とする政党である。それでは、なぜ中国共産党の支持基盤は農民なのか。以下、その経緯を毛沢東らによる建国から高成長を続ける現在までの歴史過程について説明する。
ロシアに社会主義を打ち立てたレーニンらは第二次大戦後の1919年にコミンテルン(共産主義インターナショナル)を結成し、中国に対して共産党の創立を指導し、1921年に上海で共産党が設立された。このとき、後の建国者となる共産党トップ毛沢東は湖南代表として創立大会に出席し、国共合作下の国民党幹部として活躍していた。
1931年11月には中華ソヴィエト臨時中央政府が樹立、その後、国民党蒋介石軍との内戦で毛沢東らは敗走を重ね、時期にして約一年、距離にして一万キロに上る長征を経験する。10万の兵が国民党との戦いで2万~3万になってしまったころの1935年、遵義会議において毛沢東は党内主導権を確立する。陝西省の延安に根拠地を形成し、解放区をつくり、そして毛沢東思想を確立させた。延安整風運動や農村改変運動である(中嶋嶺雄『中国』)。農村出身者だった毛沢東にとっての革命は、農民の農民による農民のための革命だったのである。すでにこのころには、都市労働者を主体として革命を掲げるソ連・コミンテルンの指導とは一線を画していた。
そして1943年に毛沢東は共産党主席となり、1945年に中国共産党は17年ぶりに党大会を開き、毛沢東体制を固めた。新しい党規約には、「中国共産党はマルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を統一した思想である毛沢東思想をもって、党のすべての活動の指針とする」と定めている。(毛利和子『ソ連と中国』p.19)
1946年、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が統一国家のあり方をめぐって対立し、再び内戦に突入する。しかし、激しいインフレに生活は圧迫し、大衆は国民党に不満を持つようになる。一方で、共産党は毛沢東のもとで、新民主主義論を唱え、解放区にて「中国土地法大綱」にもとづいて、地主の土地所有を廃止し、農民に耕地をあたえる土地均分化を徹底させた。土地を獲得した農民は、内戦を地主との戦いとみなして、ぞくぞく共産党軍に加わった。人民解放軍と呼ばれた中国共産党軍は、国民党との内戦に勝利し、49年末、中国全土を解放する(蒋介石は台湾に逃れる)(木下康彦ほか編『詳説世界史研究』p.494)。
このように中国共産党の支持基盤は、都市労働者のプロレタリアートではなく、農村部で農業を営む農民である。6100万人の共産党員(98年時点)を構成する割合から見てもこのことは明らかである。さらにいうならば、1989年の天安門事件においても民主化運動を鎮圧し、政府崩壊の危機を防ぐことができたのも、実は農民が運動に加わらなかったからである。
そして同年の1949年、北京の天安門にて中華人民共和国の成立を告げた。
2.ソ連模倣期、第一次五ヵ年計画
建国後、経済官僚組織として設立されたのが、中央人民政府政務院財政経済委員会である。混乱していた経済を収拾し、統一していくのがその目的だった。委員会の主任だった陳雲が大きな役割を果たす。
そして、1952年に財政経済委員会に代わって国家計画委員会が誕生する。これは翌年に始まる第一次五ヵ年計画を展開するための官僚組織である。毛沢東および国家の経済政策機関である国家計画委員会は重工業を重点的に進めていく中で、次第に個別・専門そして分業化され、経験不足と専門化不足に気づくことになる。さらに国を統一させるべく中央集権制を採用したために汚職や官僚主義といった弊害も発生した。
一方で、ソ連においては中央集権システムが既に確立していたために「ソ連に学べ」という毛沢東のスローガンが示すように、第一次五ヵ年計画ではその主要な部分で、ソ連を模倣することとなった。そのため、自然とソ連に近い東北部出身者が委員会の多勢を占め、ソ連から多くの専門家を招きいれて支援を受け、社会主義化を進めていく。
3.大躍進
国家計画委員会による第一次五ヵ年計画は、上意下達方式で中央集権的に行われたために、党や官僚主義の弊害が深刻化していった。毛沢東は、これを問題として認識し、さらに1957年には、ソ連モデル一辺倒だったために、中国の現実との間で歪みが生まれ、管理体制の改革を行う。そして中国独自の社会主義建設のために地方分権と重工業一辺倒から工業・農業の同時発展を目指すことになる。
しかし、このことが一個人であるはずの毛沢東を中心とした大躍進運動へとつながっていく結果となり、虚偽報告や地方官僚の汚職といった行為を生み出すメカニズムとして機能し、大躍進の被害を拡大させることとなる。大躍進とは、人間の努力を過度に強調し、生産力の飛躍的拡大を目指した運動である。
この中国独自の社会主義を目指すという目的のもとで、毛沢東は、パリのコミューン(公社)をモデルに、まず集団所有化(生産隊や生産大隊)、そしてそれらを合併する形で人民公社が設立され、同時に戸籍制度が整備される。
毛沢東の独裁的で科学的ではない運動の推進、共産党とそのトップである毛沢東の手足となってしまった官僚組織、さらには現場の状況を自身で把握しようとしない経済官庁は地方の虚偽報告を盲目的に信用し、目標が達成できなかった場合の責任を回避するために地方政府へ方針展開していけばいくほど実際の目標値より高めの設定がなされ、実態と成果としての統計は乖離し、最悪な状況へ突き進む形となった。
追い討ちをかけるように、1959年から3年続きで自然災害に見舞われ、中国が独自路線を歩むことになったことから中ソ関係は悪化し、ソ連人専門家の引き上げが行われ、中国の特に農村は瀕死の状態に陥る。この時期の餓死者は二千万人とも三千万人とも言われている。
毛沢東という建国の父、カリスマ指導者のもとでは、官僚も無力であり、中国はこのころから人治であり、毛沢東自身が法となってしまったともいえる。
4.文化大革命
大躍進運動から鄧小平・劉少奇らの指導下における経済調整期を経て、1966年毛沢東は、文化大革命を発動する。本来は、調整期を経て第三次五ヵ年計画が展開されるはずだった。しかし、第二次五ヵ年計画が大躍進運動に代わられたように、今度は三線建設に代わってしまう。三線建設とは、当時の国際環境を考慮して、農業と国防を第一優先に、工業を二番目に優先するという考え方のもとで、沿海地域を一線、中部地域を二線、内陸の後方を三線として、国防上の理由から内陸に重工業の本拠地を移すというものである。さらに64年に核保有国となったことも軍事・国防に力点が移っていく大きな理由である。
また、社会主義教育運動が進まないのは、党内の鄧小平・劉少奇ら実権派の存在と毛沢東が考えたことも、産業と国家体制が軍事に傾斜していくことになった要因と考えられる。
文化大革命とは、こうしたことから軍事化と権力闘争と言える。63年には大躍進の影響から調整の結果、経済安定へと進みつつあったが、65年には毛沢東によって鄧小平や劉少奇ら実権派は農村に下放され、一般大衆を巻き込んだ軍事主導と権力闘争は毛沢東が亡くなり、江青ら4人組が逮捕される76年まで続く。
5.改革解放政策
78年に鄧小平は周恩来の後押しを得て、政治的復活を果たし、学生らによる民主化運動「天安門事件」まで経済的には順調に成長していくことになる。毛沢東という独裁者によって大躍進と文化大革命の経験から、鄧小平は、題目だけの社会主義建設よりも「白猫黒猫論(黄色い猫だろうが黒い猫だろうがねずみを取る猫は良い猫だ)」という国の安定のための経済成長こそ重要だということを、身をもって理解していたからだろう。それは、76年に毛沢東が死去し四人組が逮捕された後、78年には改革解放を提起し、80年には、実際に沿海部の4都市において経済特別区を設置し、改革解放政策をスタートさせたことから伺える。
6.天安門事件
毛沢東時代のような惨事を二度と起こしてはならないという問題意識のもとで、鄧小平は経済改革と同時に行政改革にも着手するが、このことが天安門事件とつながる結果となる。この時期、フィリピンの民主化革命、それを受けて台湾などアジアにおいて民主化の嵐が吹き荒れ、こうした国際政治動向も中国国内で民主化運動が展開される要因となったと考えられる。
86年半ば、経済改革をさらに進めるための政治改革、党政分離が鄧小平によって提起されるが、経済改革のための政治改革という考えを超えて、民主化の議論が展開され、中国科学技術大学の副学長が民主化や言論の自由を講演しながら訴えてまわり、それが各地に波及するかたちで民主化要求運動が展開されていった(国分良成『現代中国の政治と官僚制』p.219)第一次天安門事件である。
当時の党総書記胡耀邦は、こうした学生運動に寛容な態度を示したとして地位を解任され、1989年には、胡耀邦が亡くなったことをきっかけに北京の天安門広場で、学生運動が行われ、第二次天安門事件という暴動へと発展し、後を引き継いだ趙紫陽も裏で学生を支持していたとして事件後に地位を解任される。
同時期にソ連ではゴルバチョフがペレストロイカとグラススノスチによって民主的な体制へと転換し、ソ連邦は崩壊する。
このような国際状況の中で、鄧小平によって暴動鎮圧には軍が導入された。そして学生らによる民主化運動は失敗に終わった。その主な原因は、共産党の最も大きな支持基盤である農村部が動揺しなかったためといわれている。天安門事件以後、党政分離など政治改革の根本的なことについては、鄧小平も直接発言を控えることになる。
7.社会主義市場経済へ
89年に天安門事件が起こって以来、再び経済は低迷するが、この低迷を打破したのが、趙紫陽に代わって総書記の座に就いた江沢民ではなく、毛沢東に代わって絶対的な指導者の地位を築いた鄧小平である。92年に沿岸部南方の経済特区を視察した鄧小平は、党の指導が原則であることを前提に、社会主義の市場経済を提起し、「南巡講和」という社会主義と市場経済は矛盾するものではない、と大躍進運動後の調整期に語った白猫黒猫論を想起させる、経済成長こそ国力であることを説いて周った。再び、外資による直接投資が急激に増加し、経済成長は軌道に乗り、現在まで続く高度経済成長へとつながっていく。
8.問題は組織の肥大化と人治
以上の歴史的事実からどういったことが分かるだろうか。建国から現在まで動乱を交えながら、地方分権や集権化が国を安定させるために交互に繰り返された。そして、89年の天安門事件後に鄧小平によって行われた「南巡講和」によって何とか現在に至り、その92年から高度成長を続けている。これは、旧ソ連や東欧諸国とは違った体制移行アプローチを模索し、採用した結果といえる。
しかしながら、官僚や党幹部の汚職や腐敗は、まったく改善されていないし、この問題は建国当初から常に存在し続けた問題であり、分権の結果としての地方幹部による農民に対する恣意的費用や「上に政策あれば下に対策あり」という言葉が示すとおり、中央による方針の地方の無視、そして虚偽の報告などは農民を苦しめ続けている。
経済政策が有効に機能するかどうかは、前提条件として、実態状況がきちんと立案者の頭の中で把握され、さらに一定期間において目標管理がなされているどうかに左右される。
従って、ある地方の実態は貧しくてどうしようもないのにその地方の幹部が「持続的に成長しているので問題なし」との報告を中央にし、さらに中央は自身で虚偽報告を行っていないか密かに定期的にチェックしなければ、各種資源を有効に配分することなどは不可能であるし、到底、経済政策などは立てられない。資源は、地方幹部の袖の中に入り、結局は浪費されるだけである。つまり、国を安定的に統治するための策として、経済改革や政治・行政改革は繰り返し行われてきたが、問題は依然として存在するのである。これは、原因が解決されずに残っていることを示している。
物権法を除いて各種の法は、2001年にWTO加盟に加盟とともに整備されつつある。しかし、問題の原因は制度が機能しておらず、運用面の意識が希薄な点にある。それは、建国期から現在まで、法治ではなく人治であったことと強く関連し、その歴史からも明らかである。第一次5ヵ年計画期において、中国はソ連に学んだと記述したが、モスクワ大学には法学部があったが、北京大学には法学部がなかった(中兼和津次『経済発展と体制移行』p.127)ことが、特に法に対する重要性の認識が希薄なことを裏付けている。
この問題が解決されない限り、末端の農村部に住む農民が最も苦しむこととなる。それは同時に、暴動というかたちで再び体制が揺らぐ可能性を現体制が内包していることを示している。