自己と他者 

自己理解、そして他者理解のために
哲学・ビジネス・雑記・洒落物など等

マスコミ

2009-06-22 00:04:04 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

マスコミを批判しても、いじめを批判しているようなもの。

いじめを考える場合には、いじめる側といじめられる側がいて、いじめが発生する状況が存在する。たとえば、当事者ではないが、その場にいるにも関わらず、黙認するなどによって、いじめる側は、その黙認行為を容認したと暗黙のうちにとらえ、当事者になっているケースがある。

マスコミを考える場合、そこには、伝える側と受け取る側がいて、媒体が存在する。

マスコミの伝え方に問題があるというよりは、もうちょっとさかのぼって、記者クラブの存在がマスコミを駄目にしているような気もする。

もちろん、過剰なスクープ合戦を抑止するなどの重要な側面もあるのだろうが。

関係性が最近キーワードになっているが、確かに関係をとらえることは全体をとらえることにもなり重要だということがわかった。


チェ 39歳からの手紙

2009-06-21 22:20:24 | 映画

タイトルは、映画の冒頭で、カストロが読み上げるチェの手紙を指している。

舞台は1965年 ボリビア
チェは、キューバで自身も深くコミットした革命を、南米大陸にも拡大させようと、武装闘争を繰り広げていた。度々名前を変えながら。
ボリビア政府は、アメリカ軍の支援を得て(ベトナムで対ゲリラのトレーニングを行った内容をボリビアでも行った)、ゲリラの鎮圧にあたった。
最後まで、自分の意志を押し通して、この映画では、チェは、捕まって、銃殺される運命にある。
だが、最後、チェと見張りの会話のやり取りがとても印象に残った。
見張り:「キューバ人は神を信じるのか?」
チェ:「あー、少なからずほとんどの国民は神の存在を信じているだろう」
見張り:「あんたは、どう?神の存在を信じる?」
チェ:「俺は、人間を信じる」
チェ:「縄をほどいてくれ」
見張り:「・・・」部屋がドアを開けて出ていく。
■持病と行軍
自身は、自国に戻れば、豊かな生活を送れるにも関らず、遠く異国の地で、持病の喘息と闘いながらボリビアで、山に入り、農民を説得して回る。
農業を長く生活の糧にして、生きている地域では、力を合わせて作業を行う。したがって、結束は、家族単位 ・隣人同士、とても強固なものだろう。
 しかし、それは、革命への協力・立ち上がる事を求めてまわったチェに取って、困難な壁になったと考えられる。彼は、ボリビアの農民ではないからだ。
 一部の農民は、彼の思想に共鳴し、自分たちの国の現状を打破したいと願い、兵士となり、チェと一緒に戦った。
 しかし、ボリビアでは、全土にこの動きが拡大するまでに至らなかった。
 何が問題だったのだろう。
 やはり、武装闘争の限界だろうか。

オフィシャルサイト

感謝する。利益を上げ、稼ぎたいと思って作成された映画ではないことは、観ればわかる。
娯楽としての映画の域は超えていたと思う。本当に、ドキュメンタリー・映画を観ているようだった。

以下引用 

「この手紙を読まねばならないとき、

お父さんはそばにいられないでしょう。

世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、

痛みを感じることができるようになりなさい。

これが、革命家において、最も美しい資質です。

子供たちよ、いつまでもお前たちに会いたいと思っている。

だが、今は大きなキスを送り、抱きしめよう

お父さんより」


ソーシャル・ビジネスⅡ

2009-06-19 00:02:56 | 国際・政治・社会・経済

以下、引用

小暮真久 著『「20円」で世界をつなぐ仕事』(日本能率協会マネジメントセンター)p.5

「 違うのは、上げた利益の使い道です。一般の事業では、利益は主に出資した株主に還元されます。対して社会事業では、利益は再び社会を変えるための活動に使われるのです。」


ソーシャ・ルビジネス

2009-06-18 23:42:33 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

人間の生き方としての本質に迫ったものかもしれない。

「ソーシャルビジネスは、損失のないかわりに配当もない。」

以下は、ムハマド・ユヌス氏『貧困のない世界を創る』のソーシャル・ビジネス定義引用(日本語訳は猪熊弘子、早川書房p.58)

「ソーシャル・ビジネスは、企業として設計され、経営されるものである。製品やサービス、顧客、市場、費用、そして、利益を伴っている。しかし、企業の利益最大化の原理は、社会的利益の原則に置き換えられている。投資家を喜ばせるために最大限の財務上の利益を集めようとするのではなく、ソーシャルビジネスは、社会的な目標を達成しようとしているのである。」

引用終わり。

なお、これは新しい試みであり、将来的にこうした動きが急速に拡大することを著者も確信しているが、「企業は誰のものか?」という問いに対し、誰もが納得する答えを持たない(存在しない)ように、ソーシャル・ビジネスの概念も同様である。

慈善事業を批判し、株主価値ではなく、存続して社会に貢献することを第一に置く。したがって、収益性がきちんと重要なことを述べていることも記しておく。

企業の存在目的は、利益を上げること、これは確かにそうだと思うが、限りある自身の人生の中で考えた場合に、どうもしっくりこないのだ。

だが、上記の概念は、不思議と自分の中でしっくりきたのだ。


情報

2009-06-16 00:35:04 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

情報は世の中にたくさんある。

yahooやgoogleのおかげで、ある程度の整理もされてきた。

しかし、すさまじい量の情報の中から、一人の人間が有用な情報にアクセスすることが常にできるかと考えると、それは無理だろう。そうすると、いかに精度を上げるかが問題になってくる。

さらには、誰かと手に入れた情報を共有し、何かの形にするとなると、さらに限定される。あるいは一生のうちにあるかないかぐらいかもしれない。

情報に対するアンテナをもっと感度よくしないと、そのまま時間ばかり経ち、やがて老けて、

死に至る。これが恐ろしい。

だから、実際の紙媒体から、あるいは映像から、あるいはネットから、あるいはラジオからとあらゆる組み合わせから整理・統合して、情報を選ばないと結局、何も残らない、なんてことになりかねない。


経済

2009-06-15 00:02:13 | 国際・政治・社会・経済

給料が半減しても、同時に物価が半減すれば、生活は対して変わらない。この考えは本当か?

質問の立て方が違うのかな。

給料が半減しても、物価が半減するということは、消費額が半減するのだから、生活の質は変わらないのではないか。この考え方は正しいか。つまり、物価額=消費額=支出額は正しいか?

いや待てよ。物価が半減しても、公共料金・税負担なども半減することは考え難いから、つまり、物価額=消費額≠支出額(↑)になるのか。やはり生活の質を落とさざるを得なくなるのだろうか。

この公共料金・社会保障負担・税金などについては下がることは考え難く、物価変動にかかわらず、支出額は増額するとみて良いだろう。

いや、もう一度、待てよ。人口が今後減少していくのなら、資源・エネルギーの消費も減るのだから、公共料金については安くなるのだろうか。

むぅー。将来の負担額を予想しづらい。これぞ、将来不安ってやつか。安心できる社会ではないということか。

ここから、政府には、将来計画を立てやすい、つまり個人レベルで年間所得別に、公共料金・社会保障料金・税負担額を試算しやすい様な政策をお願いしたいというのは、本末転倒か。


雲の中で散歩 A walk in the clouds

2009-06-13 11:35:01 | 映画

43年イタリア映画のリメイク。95年アメリカ。監督はアルフォンソ・アラウ(メキシコ)。

出演者:キアヌリーブス、ヒロインは、アイタナ・サンチェス・ギヨン。

恋人が待っていると思い、気を急いて戦争から帰還し、やっと恋人との生活が始まると思ったが、毎日書いた手紙も読んではいなかった。しかし、彼女を思っていることは変わらない。が・・・仕事で、チョコのセールスに行く途中に、美人の修士学生=この映画のヒロインと出会う。彼女は、男の子をお腹に宿すも、男に捨てられていた。運命の出会い。

彼女の家柄は、伝統と格式を重んじ、父親は特に厳しい。彼女は、夫なしで、妊娠した体で一人で帰ったら殺されると話す。ポール(キアヌリーブス)は、一日だけ彼女の夫して、彼女と広大な葡萄農園(ここが美しい場所で「雲」と呼ばれている)の中に立つ家に向う。

新たに出会ったヒロインと主人公ポールの複雑な思い(妻がいる状況なので)。

彼の優しさにひかれるヒロイン。彼女の強さと素直さに惹かれる主人公ポール。彼らの関係を疑う父と、うすうす気づきながらもヒロインと主人公を後押しする父以外のヒロインの家族。

父も実は愛しているのだが、素直に娘への愛を表現できないでいる。それを仕事に精を出し、葡萄畑を守ることで、間接的に家族を大切にしていることを暗示している。不器用だが、人間らしいといえば、人間らしい。

葡萄畑とともに彼らの互いの思いも成長していく。

雲の中で散歩(goo 映画)


日本沈没

2009-06-12 23:49:24 | 映画

1973年にこのような映画が公開されていたことに驚く。この作品はリメイク。草薙剛が主演、ヒロインは柴咲コウ。

あるHPの40ほどあるフォトギャラリーに主人公である草薙剛の写真が一枚もない。逆にここまでやりますかね?という感じ。同グループメンバーの稲垣氏みたいに自分が悪いのに暴力振るったわけでもないのにね。もちろん、大の大人が、自意識を失うほど酔うのも相当恥ずかしいことだけど。高度成長期に同じことして笑ってすまされた40代、50代、60代も相当数いると思いますがね。

この日本の世の20(はたち)を超えた成人なんて、アホばかりばかりですしね。歩きながら平気で携帯するわ、だべってるわ、電車の壁に寄り掛かって、平気で多くの人の方に無神経に携帯向けて、挙句の果てにチラ見の連発。携帯しながら歩いて人にぶつかって謝りもしないわ、運転しながら携帯使ってるわ。うんざりですけどね。。個人的には、こいつらの方をなんとかしろっという感じ。これを読んで何がいけないのって、思う方はもう重症でしょう。便利さのみ享受して、他人に対する配慮のかけらもない人でしょう。

悪習慣を生産・供給している携帯会社を訴えてやろうかとも考えてしまいますね(そのうち現実化するでしょうが)。

あるブログに書いている人がいたけど、「大人になると社会について考える機会がなくなる」から、大人のほうが社会や道徳や倫理に対して向き合う必要があるような気がします。

まさに日本沈没は、地震なんて外部要因ではなく内部要因からという感想を持ちました。


ワードとエクセル

2009-06-07 14:15:44 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

最近、この二つを多用している。

・ワードは、PDFにも落とせるため非常に便利。会社・プライベート問わず使用していて、使いやすさにビックリ。目次機能による各種見出しへのジャンプ、HPにも簡単に、文言にアドレスを載っければ、ハイパーリンクでジャンプできる。しかも、PDFでもその機能は引き継がれるので非常に便利。

・また、エクセルは、会社でも私用でも使用していて、たとえば私用で、何にいくら毎月出費しているか把握したいというシーンニーズがあるとする。フィルター機能を使用します。

何かを購入した店別、品別(ひとつひとつ打ち込んでいたら、頓雑すぎるので、分類が必要ですが)、一定の価格部分類別で登録し、フィルタを使用すれば、即集計が可能になり、ここから先は、マニアックですが、グラフ化して、毎週・毎月の支出分析なんかのビジュアル化も簡単にできてしまうのです。

具体的に自分は、日付、飲食、雑貨、レンタル代、基本料金、その他というコラムで、打ち込んでいる。他にもよく通う店が決まっていて、レシートを持っていれば、店ごとにいくら出費してるかまで把握できるのです。

家計簿をつけている奥様方、頭から旦那のおこずかいに手をつけずに(笑)、きちんと整理してみれば、すぐに無駄な出費がどこにあるのかわかりますよ。

Photo

これは非常に使えますよ。


ジョゼと虎と魚たち

2009-06-07 01:13:49 | 映画

出演者:池脇千鶴、妻夫木聡ほか。

原作者って、田辺聖子氏だったんだ。昨日、談話しているときに、この作家名が出てきたので、気になって、家でAmazonSearchしてみて知った。

 夫婦になるか(すえ長く付き合うか)と思えた二人だが、妻夫木が一緒になる根性はなく、最終的には、大学の時に肉体関係を持った女性と一緒になる(恋人の関係になる)(上野樹里)。これは最後のほうで、妻夫木が自分の弱さを嘆くような感じで泣き崩れるところでわかる。
 また、これを最初から見通して付き合っていたのではないかと思わせるのが、池脇の潔さというか懐の深さ。本当は、寂しいはずだが、サッパりしている。
 障害者にとって、依然厳しい社会であることがこの映画で理解できる。


クラッシュ

2009-06-05 22:46:44 | 映画

泣ける映画

やるせないけど。

黒人に車を奪われそうになった白人女性の家の鍵を直していたら、むちゃくちゃくな差別発言を受けて、でも起こらず我慢して、帰ったら、その男の娘が、銃声が聞こえて怖いからと、ベッドの下に隠れていた。帰ってきた父であるその男は、その娘に、妖精の話を聞かせてあげる。そう、この男にとって、どんなにつらくても我慢できる理由は、この可愛い娘がいるから。

パパは5歳の時、妖精と出会った。背中に羽の生えた妖精は、パパに透明のマントを着せてくれた。マントは、何も通さない。銃の弾も。パパは、そのマントがあったおかげで、こうして生きて無事生きてこれたんだよ。このはなし、信じるかい?

パパは妖精と約束した。娘が5歳になったら、娘に着せてあげると。パパは、黙って、娘にこの話を信じないんなら、いいよっ。とうまくもったいぶりながら、娘がベッドから出てきてくれるのを待って、出てきたら、静かにベッドに座らせて、自分にかかっている透明のマントをゆっくり静かに娘にかけてあげた。

ロスアンゼルス。差別が差別を呼び人が死ぬような重大な問題につながる。だが、一方で、フェアでありたいと思う人間もいて、最悪な不幸を寸でのところで食い止める。振り上げたけん銃やこぶしは奇跡がないと止められないのか。それともそれも人間がなせることなのか。

通さないマントはあったのだ。

この映画を書いた脚本家は、人間に幻滅しながらもどこかでまだその人間を信じたい。そんな思いを持っている人間なのだろう。

・・・なんか、やるせなくて、泣けた。