自己と他者 

自己理解、そして他者理解のために
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今後の地域開発政策について

2006-11-24 12:38:50 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

【小テスト内容】
四全総以降の国の地域開発政策と東京一極集中化との関係をまとめて説明した上で、 

国政レベルの地域開発政策の今後について自分の考えを述べなさい。」

第四次全国総合開発計画と21世紀の国土のグランドデザインを東京一極集中の問題と関連付けて説明する。
今後の地域開発政策のあるべき姿の自分の考えを、論拠とともに述べる。

①四全総以降の国の地域開発政策と東京一極集中化との関係性

 1987年に中曽根内閣のもとで閣議決定された第四次全国総合開発計画は、社会背景として東京の人口と諸機能の一極集中、経済構造の工業からサービス業へシフト、逆に地方では雇用の不足、過疎化の進行、さらには、国際化の進展などが見られた。

 これらに対応するために開発方式としては、三全総の定住構想に交流を加えた交流ネットワークの形成、具体的には引き続きテクノポリス構想やリゾート開発などによって地方を活性化させることで、東京に集中している、人、情報、資金、雇用のための企業などを、行政機能を日本各地、多極に分散させ、改善することが意図された。

 ところが、土地価格・株価の上昇、80年代後半にバブルが崩壊し、経済はマイナス成長に入り、一極集中も緩和されず、東京の地下鉄など交通インフラをさらに整えることで対応した。  

橋本内閣のもとで1998年に決定された「21世紀の国土のグランドデザイン」では、高度情報化社会や人口減少・高齢化への対応、メガコンペティション(世界経済競争)などが謳われた。

 しかし、相変わらず東京には1200万人が住み、関東には日本の人口の3分の1の約4000万人が住んでいる。これは行政機能が、相変わらず霞ヶ関に集中しているためである。企業は各種許認可などを取得しやすいように東京に集中し、企業が集まれば、雇用が創出され、人が集まる。結果、仕事で東京に出て、住み場所は土地価格の安い、郊外に住む。そして東京を中心にベッドタウンが形成されていった。

 人が集まることで、さらに企業が集まり、そこに金が落とされ、情報が集まった。

②今後の地域開発政策のあるべき姿

 1つは財政赤字、2つ目はグローバル化、3つ目は価値観の多様化。以上3つによって、今後の中央集権体制による地域開発は、有効性にかける。

 国庫支出金、地方交付税交付金などの財源を中央官僚が握り、地方の状況を把握しない状態で開発政策を策定し、地方自治体は、財源を握られているためにその命令に従ってきた。そして全国各地に似たような工業団地やニュータウンが形成された。その結果が、国・地方あわせた約800兆円の累積債務残高である。最近、地方では、北海道の夕張市が財政再建団体となった。

 通信技術・金融ビックバン、低賃金や為替リスク回避のための海外直接投資、国際競争の結果、情報と資金、企業、人は以前より動き回ることが可能になり、マクロコントロールの有効性は失われつつある。こうした状況で、中央省庁の官僚が、地方の状況を把握し、世界中から各種資源(人・モノ・金・企業など)を地方に呼び込むことが物理的に可能だろうか。

 通信技術の発達、グローバル化で価値観は多様化した。こうした状況で中央官庁が地方独特の風土や気候を考慮しながら、地方ニーズを汲み取ることなど物理的に不可能だろうし、場合によっては、それ自体、官僚の利益と相反する可能性さえ内包する。

 もはや、中央集権的行政は、時代のニーズに合わず機能不全である。

 答えは、財政赤字が示している。地域開発を行うならば、それぞれ異なる地域の状況を把握する仕組みが必要だが、それを既に知っているのが自治体行政である。彼らに財源や権限を委譲し、政策実行結果の責任を取らせ、あるべき開発政策を模索させるべきである。今の日本に既に浪費する余裕などないはず。

マスコミと政治家によって深刻な状況が表面化していないだけである。漸進的に財源・権限を移譲させてから、地域開発政策の議論をするべきである。そうすれば、浪費的な開発の根源となっていた地元利益誘導型の政治も改善される。


卒論『中国経済 ~小康社会への鍵 物権法の確立とバランスある発展』

2006-11-20 23:37:17 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

とりあえず、卒論を提出。後は、先生の突っ込みを待つのみ。

最終的に、『中国経済 ~小康社会への鍵 物権法の確立とバランスある発展』

とした。腐敗・汚職、三農(農村で農業を営む農民の余剰人口と貧困問題)問題の状況を把握すれば、中国の80%は理解できるだろうと思ったからだ。

 そのうち、ここでも時間をかけて、修正を加えながら、載せようと思う。


レビット

2006-11-11 12:33:07 | 歴史・思想・哲学

ハーバード・ビジネス・レビュー2006年11月号をチラ見。

セオドア・レビット『マーケティング近視眼』を読む。

鉄道産業は輸送産業と再定義できる。

 環境・技術、ニーズ、産業構造など様々な変化の結果、鉄道産業は自動車の普及によって低迷しているが、事業を定義しなおすことで、新たな事業ドメインを開拓できる。まだまだ成長が期待できるというものだった。

金言なり。

「木に穴を開けたいな~」と思った人がいたとして、ホームセンターに買い物にいく。

・しかし、企業は、その消費者がドリルを欲していると思ってはいけない。木に穴をあけることができれば、ドリルである必要はないのだ。

・消費者は、洗剤など本当は欲してはいない。汚れが落ちればいいのだから、洗剤が必要ないことに越したことはない。

事業を定義しなおすときに最も必要な視点は、消費者の視点である。


ポータブルの悪性

2006-11-02 22:42:26 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

 70年代のオイルショックを境に高度成長から安定成長に入り、重厚長大から軽薄短小へと経済の牽引役が変化した。

持ち運べるようになれば便利なのに・・・・、

というニーズからいろいろな物がポータブル化してきた。

パソコン、電話、化粧品、テレビ、ゲーム、ファーストフード、音楽などなど。

しかしながら、これらに共通していえることは、ごくごく個人的な

物で個人的行為の範疇だということ。

 本来、公共の場でおこなうにはあまりに個人的な行為であるため、遠慮するべきことなのだが、現在、堂々と公共の場、公衆の場に当たり前のように上記の物を持ち込み、プライベートな行為を行っている。

 芸能人ではないのだから、プライベートな行為を公共の場で行うというのは、恥ずべき行為ということを認識すべきだ。

 止め処ない消費行為は環境、人間関係、美意識、倫理観を無自覚に破壊する行為である。

 プライベートな物を公共の場に携帯する(持ち込む)のは、便利さゆえ仕方ないことなのかもしれないが、それを恥ずかしげもなく行う行為は周囲の人々にとっては間違いなく害悪である。

自戒の意味もこめて書いてみた。