狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄メディアの大ウソ、知念勇氏、からのオーラルヒストリー

2024-02-06 05:53:37 | 政治

 

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【日程決定!】2/5 18時半〜【生配信】どうなる日本2024!〜スパイ防止法と移民〜元北京語通訳捜査官坂東忠信先生インタビュー

 

■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

富原盛安(82歳・南城市)

これは平成22年から令和4年まで「の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

 

ゲレンスキーと嘲笑受けた首長ありこの非常時に何たる軽口

日をあびて輝きを増す白き花誰がつけたかテッポーユリとは

今もなお西部気質を背負う国銃規制など夢の又夢

            ★

 

知念勇氏、知念堅亀氏からのオーラルヒストリー

 

2009年12月07日 繁多川図書館にて

 新壕(ミー壕)の発見:
 ミー壕の入り口は地主がその存在を以前から知っていたが(大きさは知らない)、子供等が落ちたら危険と思い、その周辺に石を積んで塞いでいたものを、知念勇さん(当時11歳)達が偶然発見したものである。
 発見したのは、10・10空襲の後の昭和19年11月から12月ころだったと思われる。

 発見の経緯は次の通りだった。
 (知念勇氏、新田宗政氏など)ビー球遊びをしていて、移動中にそのビー玉を落としてしまった。暗くなってから探しに行ったが、どういう訳か落としたと思われる道側付近ではなく、墓のある周辺を手探りで行っていた。
 そうすると、岩の間から暖かい風が吹き出してきているところがあり、下の壕があるようだということ分かり、それを大人達が聞きつけ、避難用の壕にするため整備したものである。

 ミー壕の活用:
 住民がそこの入ったのは、3月23日頃と思われる。
 この壕を使ったのは、役場職員と那覇署が主で、住民は20名前後だった。
 那覇署が使うようになったのは次の通である。
 住民が壕を整備すうために、ダイナマイトを役場に貰いに行った。役場は、ダイナマイトの使用許可と那覇署に申請した。繁多川付近には住民の入れる壕がミー壕を含めて7箇所あったので、ミー壕は主に役場と那覇署は使うこととなった。
 住民がこの壕から移動した日にちは不明だが、周辺住民の移動いた時期から判断すると5月3日から10日の間だったと推測される。那覇署がミー壕を出て行ったのは5月25日ころである。

 壕の追い出し:
 寺後洞窟に避難していた、知念堅亀氏によると、日本軍(球部隊?)が壕を東風平村小城の軍の壕と交換して欲しいといって来たのは5月1日で、3日にトラック3台をもって転進してきた。住民はあった米を計り、その分軍の米を軍の壕から貰うという事になった(繁多川戦争記17頁=那覇市史207頁)。南部への移動は軍のトラック3台も使えた。この部隊は5月4日の日本軍の総攻撃に参加するために転進して来たものと思われる。
 4日の総攻撃は失敗に終わり、日本軍の出血は甚大だった。

 ※山川泰邦氏の「秘録 沖縄戦記」にある5月10日のミー壕から真和志村長と住民を軍の都合で追い出したという記述は、4月27日以降に出された南部への避難指示に従わずに壕内にいた一般住民対し、善意で強制的に退避させたというのが真実であろう。

 米軍が繁多川に来たのは:
 6月に入ってから、知念勇氏の父親と具志堅さんの孫(ココウ氏)が連行され(2~3分して)銃声がした。5~6分後に二人を探しに出たが見つからなかった。
二人を殺したのは米軍だ(死体はみていない)。それから数日間、焼け残った具志堅さんの家で暮らしているとき捕虜となった。

 ※堅亀氏は、勇さんの父親等が米軍によって殺されたことが、那覇市史では日本軍となっていることは、聞き違いだと考えているようだが、勇さんの証言する様子をみれば、到底勘違いしたとは考えられない。やはり意図的に書き換えたとしか思えない。
 ※照屋昇雄氏によると山川泰邦氏の「沖縄戦記」は嘘がある。
 ※沖縄戦の住民戦没者が多い原因には首里撤退後戦線が住民の避難していた南部に集中したためだが、沖縄県と第32軍は19年7月7日に北部疎開を決定し、市長村ごとに避難地域を割り振ったものの、自然壕の多かった首里以南では住民は応ぜず、避難が遅れ、北部への疎開が出来なかったということが根本的な原因であろう。

 

 

元琉球政府の照屋昇雄氏、嘉敷島の集団自決は軍命令ではなかったと証言(産経H18.8.27)

2006年08月31日(木)

嘉敷島の集団自決は軍命令ではなかったと証言(産経新聞)

敷島の集団自決は軍命令ではなかったと証言!「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん(産経新聞)

すばらしいページをつくってくださいました。
http://blog.zaq.ne.jp/tachikoma/article/490/

皆様、9月1日よろしくお願いします。
沖縄集団自決冤罪訴訟第5回口頭弁論
9月1日
抽選午後12時55分集合
大阪地方裁判所(高裁と同じ建物)大法廷
抽選は裁判所裏で(裁判所の北側です)

渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府の照屋昇雄さん
産経新聞(平成18年8月27日)

大阪版では最初の記事だけが掲載されていますが、東京版は複数の面で記事が掲載されました。
豊吉広英記者は非常に掘り下げたしっかりとした記事を書いてくれました。
ありがとうございました。

■渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府の照屋昇雄さん
産経新聞(平成18年8月27日)



 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の
暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)   
               
◇【用語解説】渡嘉敷島の集団自決 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。                  
◇【用語解説】
戦傷病者戦没者遺族等援護法 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づ
く」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。



■渡嘉敷島の集団自決 「大尉は自ら十字架背負った」(産経新聞平成18年8月27日)


 「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。
 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻
撃。ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。

 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。

 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。

 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。

 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。中学の教科書ではいまだに『集
団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。

 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。

 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。

 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。

 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。その様子は同社ホームページで視聴することができる。

                  ◇

≪照屋昇雄さん「真実はっきりさせようと思った≫

 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。

 --なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか

 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」

 --当時の立場は

 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」

 --渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか

 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」

 --その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか

 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」

 --ではなぜ集団自決をしたのか

 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

 --集団自決を軍命令とした経緯は

 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」

 --赤松元大尉の反応は

 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」

 --住民は、このことを知っていたのか

 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」

 --あらためて、なぜ、今証言するのか

 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。
赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に
短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」

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