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【電子号外】県、「辺野古承認取り消し」是正勧告を拒否
米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画をめぐり、石井啓一国土交通相が翁長知事の承認取り消しを取り消すよう求めた是正勧告に対して、県は6日午前、「適法だと考えていることから、取り消し処分を取り消す考えはない」とする拒否の文書を送付した。石井国交相が、審査請求と執行停止を申し立てた沖縄防衛局を「私人」と認める一方で、代執行手続きでは防衛局を「行政機関」と位置付けていることの整合性などについて5項目にわたる公開質問状も石井国交相宛てに送付した。県が国に公開質問状を送るのは異例。県弁護団は6日午前に開いた翁長雄志知事の会見で、来月にも開かれる代執行訴訟の口頭弁論に翁長知事が出廷し、意見陳述することを検討していることを明らかにした。【琉球新報電子版】
国と県との法廷闘争は「代執行訴訟」という形で、愈々来月から開始されるらしい。
この場合国が原告になるが、「国が県を苛める」という印象など無視して、一刻も早くどちらが正しいか白黒の決着をつけたい国の構えである。
沖縄タイムスは警官の暴徒取締りを、「国vs県民」の戦いと発狂報道している、と書いた。
本日の沖縄タイムスも合計6面にわたり、読者の同情を買う魂胆が見え見えの発狂見出しが乱舞しているが、省略する。
沖縄で辺野古反対を叫ぶ勢力は、中国の脅威について触れようとしない。
■屋良朝博沖国大講師、「遠い地域の出来事」、「南シナ海の中国の人口島」について
先日NHKの日曜討論に安全保障の専門家として出演した元沖縄タイムス記者の屋良朝博・沖国大講師しなどは、南シナ海に中国が構築した人工島をめぐり日米が緊張状態であることに付いて問われ「遠い地域の出来事で、沖縄には関係ない」みたいな発言をした。
南シナ海と尖閣を抱える東シナ海はお隣さんであり、南シナ海の危機は東シナ海の危機である。
こんな能天気な人物が識者として沖縄を代表してNHKの討論番組に登場するとは、沖縄の恥である。
尖閣周辺を領海侵犯する中国公船は後を絶たず、彼らは「尖閣は中国の領土」と主張している。
自民党の次期総裁候補といわれる野田聖子氏も、南シナ海の中国による人工島について、「日本には関係ない」と屋良朝博氏レベルの国防認識を示したのには驚いた。
南沙「日本に無関係」=野田聖子氏(11/5時事)
自民党の野田聖子前総務会長は4日夜のBS日テレの番組で、中国が進める南シナ海の人工島造成について「直接日本には関係ない。南沙(諸島)で何かあっても、日本は独自路線で対中国の外交に徹するべきだ」と述べた。同島近海では米国が艦船を航行させ中国をけん制、日本政府も支持を表明したばかりで、発言は波紋を呼びそうだ。
野田氏は次期総裁選への出馬に意欲を示しており、自身の外交政策を問われる中で発言した。野田氏は「南沙の問題を棚上げするぐらいの活発な経済政策とか、お互いの目先のメリットにつながるような2国間交渉をやっていかなければいけない」とも語った。
野田氏は、中東から石油を運ぶ大型タンカーのシーレーンの重要性を理解していないということを暴露してしまった。
同時に国の安全保障を任せる首相候補としては最も不適格、ということも判明した。
いずれにせよ首相どころか政治家として問題有りということになる。
現在、日本を巡る国際情勢で最も深刻な課題は、中国が尖閣列島への侵略を試みている点だ。
だが、最終的な中国の本当の狙いは沖縄本島を含む沖縄諸島だ。
2010年に中国で起きた反日デモでは「琉球回収、沖縄解放」という横断幕が掲げられ、2011年には中国人民解放軍の幹部が「琉球諸島は日本の領土ではない」と発言している。
中国の沖縄併呑の野心を封じるには、安全保障政策が最重要である。
だが、それにもまして重要なのは、沖縄県民を含む日本人自身が「沖縄は紛れもなく日本の一部である」という自覚を持つことである。
ところが近年、沖縄2紙を根城に「琉球人は先住民であり日本民族とは別の民族だ」と喧伝する学者たちの活動が活発化している。
翁長知事が国連スピーチで、「沖縄では自己決定権が奪われている」などと独立宣言まがいの発言をする始末だ。
近年の研究で民俗学的、DNA的にも言語学的にも沖縄人は日本人の一部であることが解明されている。
イザイホーに代表される沖縄の祭祀は古代日本の祭祀の原型を留めていると言われる。
沖縄には東風(こち)とか南風(はえ)等の古い言語が残っていたり、述語が最後にくる沖縄語は日本語体系で、沖縄方言と分類されている。
ちなみに南風原という沖縄独特の姓は「なんぷうばら」ではなく「はえばる」と読むのが正しい。
遺伝子的にも沖縄人は台湾、中国とはつながりなく日本本土とほぼ同等と琉球大学の研究グループが発表している。
琉球新報 2014年9月17日
「現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い」」
琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員、木村亮介准教授、北里大学、統計数理研究所の共同研究チームが、現在の琉球列島に住む人々の核ゲノムDNAを解析した結果、遺伝的に琉球列島の人々は台湾や大陸の人々とつながりがなく、日本本土により近いという研究成果を発表した。
これまで、骨や一部DNAの分析から、琉球列島の人々は中国や台湾より日本本土の人々と近いとする研究成果が発表されてきたが、今回、初めて全ゲノムを網羅した解析によって同様の結果が導かれた。今後の琉球列島の人々の起源を探る研究の一助として注目されそうだ。
研究チームは、現在の沖縄、宮古、八重山諸島出身者数百人からDNAを採取し、ヒトゲノム全域に分布する60万個の単一塩基多型(SNP)を解析した。その結果、琉球列島の人々と台湾先住民は別系統の集団で、地理的に近接する八重山諸島の人々も台湾先住民との間に直接の遺伝的つながりがないと結論付けた。
港川人についても同チームは「琉球列島の人々と漢族が分岐した年代が縄文時代以降であると推定されたことから、沖縄諸島の人々の主要な祖先ではない可能性が高いと思われる」と推測し、今後さらなる精査が必要としている。
<用語>ゲノム
親と似た性質を子に伝える「遺伝」という仕組みの元になる情報のこと。細胞の核の中に、2本一組の鎖状のDNAという分子があり、鎖には塩基という物質が並んでいる。塩基はアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)の4種類で、その並び順(配列)が遺伝情報になる。配列に従って約10万種類のタンパク質や酵素がつくられ、体を形作る約60兆個の細胞の材料になったり、体の働きを制御したりする。
日時:11月 7日 (土), 18:30 ~ 21:30
場所:浦添市産業振興センター
参加費:500円
--------------------<プログラム>--------------------
基調講演:「宮古・八重山から見た 日本文化の南漸」
~見えてくる本当のウチナーンチュのルーツ~
講師:前石垣市教育長 玉津博克先生
議員報告:「翁長知事を追い詰めた県議会一般質問」
県議会議員 照屋守之氏
県議会議員 花城大輔氏(ビデオメッセージ)
緊急報告:「沖縄県民を欺き貶めた国連演説」
沖縄対策本部代表 仲村覚
国連演説から帰国した翁長知事は、自民党議員から「先住民との誤ったメッセージを発信した」と集中砲火のような追求を受けました。しかし、それに対しても「沖縄県民は日本人だ」との明言も「琉球独立論」の否定もしなかったのです。それは翁長知事の支援団体の中核を琉球独立派が占めているからです。
https://www.facebook.com/events/995350157194792/
琉球という独自文化や言葉の復活
大和に差別される琉球
捨石にされた、植民地扱いされている
など、独立に向けて、日常に滑り込ませてきています。
そして、沖縄の独立は中国の差し金と言われています。
沖縄だけでなく、世界中あちこちで、政治的駆け引きで自国に取り込もう、独立させようという動きはある。
沖縄の独立運動が露骨になってきて、やっと日本中、本当の国際政治に向き合っているのではないか、と思う。
今まで、対アメリカだけだって、アメリカは日本を利用とするが、日本を育てようともする。
それに対して、中国は乗っ取りだ。
しかも、直接的な対中国だけでなく、中国が味方に引き入れた国を使って日本包囲網をつくって間接的に攻めて来る。
対中国だけでなく、中国が後ろに控える多くの国と対峙しなければならない。
中国のおかげで、安保に目覚めた国民は国際政治と外交にも目覚める。
沖縄文化もまた同じ遺伝子を持つ日本人が保存に取り組んだからこそ継承されたもの。他国まして支那等が臨めば全く違った様相となることでせう。浦添ゑうどれで王族方御遺骨を調査された際も、DNAはほとんどが日本系。臺彎や南方中国系は無く、越南から輿入されたと観られる婦人だけが日本系ではない御遺骨だったとか。臺彎へ赴けば判ることですが、亀甲墓も形こそ似ていますが、沖縄は全く独自かつ規模も大であり、どちらかと言へば沖縄こそ元祖かと想われるほどです。
首里城のイベントも真偽は詳しく顕彰するとして、支那様式の顕現ばかり。戦前は神社として継承されたのですから、そのことも顕彰されるべきと存じます。
宮城として復元するにせよ、支那の属国として表現するような作為は許されるべきではないでせう。
その意味では、龍柱裁判や国連先住民演説追究等いずれも有意義なる御志、応援そして御健勝を祈念申し上げて止みません。
沖縄神社
http://mixi.jp/view_community.pl?id=752042
下記を御覧になられた上で、米軍侵攻以前の「首里城保存」は本来放置されていた宮殿を神社という形式でなされたことを理解下さる方、それは文化侵略ということではなく当時としては首里住民の崇敬を基礎として先駆的な文化保存であったという事実に関心を寄せて下さる方、そして現在国立施設として立派に復元はなされたものの戦前の御祭神は戻されておらず、本当の意味での首里住民の文化伝統としては継承されていない事実を理解下さる方、参観に訪れる沖縄県内外の方々が宮殿前で神式にお詣りする景色が日常ごく普通に行われている事実に思いを馳せて下さる方、何より現在の首里城の各種行事においてはあたかも中国文化が沖縄の伝統文化の全てであったかと錯覚させるが如き内容が憚り無く行われている事実に疑問を抱かれる方々。
そのような方々向けのコミュニティです。
戦前の施政を全て沖縄伝統文化の破壊などとしか捉えられない浅い認識の方、単に自分と違う側の意見を攻撃することに満足覚えているだけの方、常識的に丁寧な文章が書けない方、カルトや特定の趣味・嗜好を強調される方、参加お断り。
御祭神
舜天王 尚圓王 尚敬王 尚泰王 源爲朝
沖縄県那覇市にある。
首里城の東1Kmの弁ケ嶽に鎮座。
モノレール首里駅から500mの丘の上。
小さなコンクリートの祠があり、中に5つの石碑が並ぶ。
創立は大正14年と新しい。
沖縄王統の祖・舜天王を祀る神社。
創立時は首里城を境内とし、首里城正殿を拝殿としていたが、戦争で破壊された。
後、現在の弁ケ嶽小嶽に再建されたらしい。
祭神に関しては、『平成祭データ』には、
舜天王、舜天王の父・源爲朝、中興の祖・尚圓王などが記されていたが、
祠内部には、以下の五王の名があった。
舜天王・英祖王・察度王・尚思紹王・尚圓王。
舜天王は、1187年に即位した沖縄王統の祖で、三代続いた。
その後、英祖王が王位を継ぎ、四代続く。
後、察度王(二代)、尚思紹王(七代)、尚圓王(十九代)と王位が移動し、明治維新となる。
弁ケ嶽
□1956(昭和31)年12月16日
□沖縄県指定史跡
首里城の東方約1Kmにあり、海抜は165.7mで、沖縄本島中南部では、最も高い峰の一つです。そのため、かつては航海の目標ともなりました。一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされ、1945(昭和20)年の沖縄戦で、この地において激戦が展開されるまでは、琉球松などの大木が茂っていました。弁ケ嶽は参詣道をはさんで、東側の小高い杜になっている方が大嶽、西側の低い方が小嶽となっており、『琉球国由来記』(1713年)によれば、大嶽の神名は「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」、小嶽は「天子」と記されています。王府時代、1・5・9月に国王が親ら訪れ、祭祀が行なわれました。また、沖縄戦で破壊消失した石門は、1519年に首里城歓会門前の園比屋武御嶽石門とともに築かれたといわれ、その構造や工法も似ていました。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定されました。現在のコンクリートづくりの門は、1954(昭和29)年にハワイの「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥堀町民の奉仕によってつくられたものです。
また、かつては石門の前に、拝殿と呼ばれる建物がありました。
-案内板より-
観光名所になっている首里城は、沖縄神社として国宝に指定されていた。
http://www.genbu.net/cgi-bin/update.cgi?index=4&target=ryukyu/hatiman_title.htm
首里城の起源ははっきりしませんが、察度王統の時代に首都となったとも、第一尚氏王統の尚巴志が中山王武寧(察度の子)を滅ぼし、中山の拠点を浦添城から首里城へ移したともいわれます。その後大改修が行われ、第二尚氏王統二代の尚真王の頃には首里城がほぼ完成したといわれています。
その後、七代尚寧王の代には薩摩の島津氏の侵攻を受け、島津氏に従属することを余儀なくされました。明治5年(1872)には日本領であることを明確にするため、明治政府によって琉球王国は琉球藩に、国王は藩王とされ、明治12年(1879)琉球藩は廃され沖縄県とされました。明治政府は軍隊・警察を動員し、国王尚泰に首里城の明け渡しを迫り、国王以下その臣下は城を出て、琉球王国は瓦解しました。
首里城は幕末の弘化3年(1846)に改築されて以来、修理されることなく大正時代に至り、腐朽荒廃がひどいため廃棄されることとなりましたが、大正12年(1923)伊藤忠太博士の尽力により特別保護建造物に指定されて改築、以後沖縄神社の拝殿として使用されました。しかし太平洋戦争末期の沖縄戦でこの見事なグスクもほとんど壊滅し、昭和25年(1950)首里城跡地に琉球大学が創設されました。そして昭和47年(1972)の本土復帰後、琉球大学が移転した首里城跡地が国営公園区域とされ、順次復元修築が進み平成4年(1992)には一部開園しました。そして平成12年(2000)、首里城跡は沖縄県内8ヵ所の資産とともに世界遺産に登録されました。
http://www.asahi-net.or.jp/~bc7t-kbt/siro/dougai/shurijou.htm
首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営記に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。明治以後は軍営や学校などに使用されたが、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になり、取り壊し寸前であった。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年~1933年)に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E
鎌倉芳太郎という人はあまり紹介されていません。この人は明治31年に香川県に生まれ、大正10年に教員として沖縄へ赴任します。そこで沖縄の文化や自然の美しさに魅せられ、様々な事物を記録します。彼の膨大な記録は、戦争でほとんどのものが消失した沖縄の文化の復元のための貴重な資料となっており、今年、沖縄県立芸術大学所蔵の『琉球芸術調査写真』が、国の重要文化財に指定されました。沖縄の染色技術を、「紅型」と命名したのもこの人の仕事です。
彼は最初は研究者として「紅型」に関わり始めたのですが、自分でも作品を作り始め、更に技術は研ぎ澄まされていき、昭和48年に国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に指定されました。彼のすばらしいところは、「紅型」はあくまで沖縄の人たちのものであるというポリシーから、自分の制作する作品については「型絵染」として、文化財指定の名称もそれを使っています。こうしたところにも、彼の沖縄への愛着がうかがえる気がします。
http://blog.zaq.ne.jp/lafiesta/category/8
伊東 忠太 いとうちゅうた
(慶応3~昭和29 1867~1954)建築家・工学博士
慶応3年10月26日、医師伊東祐順の二男として、米沢市座頭町に生まれた。
明治初年、陸軍の軍医制度が発足すると、父祐順は軍医を志願し、明治6年忠太ら家族と共に上京した。忠太は東京で小学校に入り、父が明治11年1月に、下総佐倉の歩兵第二連隊に転属になると、佐倉の鹿山小学校に転校し、更に鹿山中学校に進み、明治14年、叔父平田東助の友人内村良蔵が校長に就任していた東京外国語学校独逸語科に入り、五年生のとき同校が廃止になると、第一高等中学校(一高の前身)に編入した。
伊東が郷土後進のため育英事業をおこす必要を痛感して、郷土の有志に諮り、米沢有為会の発足を見たのは、明治20年8月のことで、第一高等中学在学中のことである。
明治22年、帝国大学工科大学造家学科に入学、同25年大学卒業後、更に、大学院に進み日本建築の研究に従事し、のちに博士論文となる「法隆寺建築論」を発表して、法隆寺研究の道を拓いた。
明治26年東京美術学校講師を皮切りに、造神宮技師、内務技師を経て、東京帝国大学工科大学講師となり、同32年助教授、同34年工科博士の学位を授与された。
明治35年、中国、ビルマ、印度、エジプト、トルコ、欧米を歴遊して、同38年帰国後、教授に就任した。この間、中国山西省大同において、仏教遺跡雲崗石窟を調査している。更に、中国、満州に出張、明治40年、42年、44年と中国や印度を調査する一方、内務省から嘱託されて、神社・仏閣の保存・修理改築の調査に当り、大正4年には、日光東照宮の調査を委嘱され、また、明治神宮造営局参与として、その工業課長に任じられ、明治神宮の造営に献身的な尽力をした。
以後、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員、同6年日本美術協会第三委員長、同7年明治工業史編纂委員、同8年議院建築局顧問、同10年世界平和記念東京博覧会顧問・審査員などを歴任し、大正11年には、明治神宮造営に関する功績により旭日中綬章を授与された。
大正13年外務省の対中国文化事務局委員や東京市恩賜公園常設委員になるが、、この間沖縄に旅行し、建築物の調査を政府に具申し、これが契機となって数多くの文化財が国宝に指定された。同14年には営繕管理局顧問となり、又、帝国学士院会員に推され、同15年には史蹟名勝天然記念物保存協会評議員となるなど、伊東は、国家的な建造物に関する各種委員に推挙されている。
大正天皇崩御についで、今上天皇が即位されると、御大礼記念国産振興東京博覧会が開催されるが、伊東はその議員をつとめ、又、帝室博物館や神宮外苑管理の評議員もつとめ、昭和3年、東京帝国大学を定年退官、同大学名誉教授となり、ついで早稲田大学に迎えられて、建築史を講義している。
昭和4年国宝保存会会員となり、以後、同6年東京震災記念事業名誉会員、同8年重要美術品等調査委員会委員、東京市公園常設委員、日独文化事業評議員、同
(慶応3~昭和29 1867~1954)建築家・工学博士
慶応3年10月26日、医師伊東祐順の二男として、米沢市座頭町に生まれた。
明治初年、陸軍の軍医制度が発足すると、父祐順は軍医を志願し、明治6年忠太ら家族と共に上京した。忠太は東京で小学校に入り、父が明治11年1月に、下総佐倉の歩兵第二連隊に転属になると、佐倉の鹿山小学校に転校し、更に鹿山中学校に進み、明治14年、叔父平田東助の友人内村良蔵が校長に就任していた東京外国語学校独逸語科に入り、五年生のとき同校が廃止になると、第一高等中学校(一高の前身)に編入した。
伊東が郷土後進のため育英事業をおこす必要を痛感して、郷土の有志に諮り、米沢有為会の発足を見たのは、明治20年8月のことで、第一高等中学在学中のことである。
明治22年、帝国大学工科大学造家学科に入学、同25年大学卒業後、更に、大学院に進み日本建築の研究に従事し、のちに博士論文となる「法隆寺建築論」を発表して、法隆寺研究の道を拓いた。
明治26年東京美術学校講師を皮切りに、造神宮技師、内務技師を経て、東京帝国大学工科大学講師となり、同32年助教授、同34年工科博士の学位を授与された。
明治35年、中国、ビルマ、印度、エジプト、トルコ、欧米を歴遊して、同38年帰国後、教授に就任した。この間、中国山西省大同において、仏教遺跡雲崗石窟を調査している。更に、中国、満州に出張、明治40年、42年、44年と中国や印度を調査する一方、内務省から嘱託されて、神社・仏閣の保存・修理改築の調査に当り、大正4年には、日光東照宮の調査を委嘱され、また、明治神宮造営局参与として、その工業課長に任じられ、明治神宮の造営に献身的な尽力をした。
以後、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員、同6年日本美術協会第三委員長、同7年明治工業史編纂委員、同8年議院建築局顧問、同10年世界平和記念東京博覧会顧問・審査員などを歴任し、大正11年には、明治神宮造営に関する功績により旭日中綬章を授与された。
大正13年外務省の対中国文化事務局委員や東京市恩賜公園常設委員になるが、、この間沖縄に旅行し、建築物の調査を政府に具申し、これが契機となって数多くの文化財が国宝に指定された。同14年には営繕管理局顧問となり、又、帝国学士院会員に推され、同15年には史蹟名勝天然記念物保存協会評議員となるなど、伊東は、国家的な建造物に関する各種委員に推挙されている。
大正天皇崩御についで、今上天皇が即位されると、御大礼記念国産振興東京博覧会が開催されるが、伊東はその議員をつとめ、又、帝室博物館や神宮外苑管理の評議員もつとめ、昭和3年、東京帝国大学を定年退官、同大学名誉教授となり、ついで早稲田大学に迎えられて、建築史を講義している。
昭和4年国宝保存会会員となり、以後、同6年東京震災記念事業名誉会員、同8年重要美術品等調査委員会委員、東京市公園常設委員、日独文化事業評議員、同12年紀念二千六百年記念事業準備委員兼祝典評議委員会委員、同13年帝室博物館顧問、同14年法隆寺壁画委員会委員長、同15年には、京都の二条城保存会委員に就任した。
昭和18年4月29日、湯川秀樹、徳富蘇峰らと共に文化勲章を授章した。
伊東が建築設計の実務にあたり造営された神社仏閣はあまたあるが、その主なものは、伊勢両宮、平安神宮、明治神宮、靖国神社、上杉神社、築地西本願寺、不忍弁天門龍門、震災記念塔、豊国廟等である。
昭和29年2月11日、米沢市は名誉市民条例を定め、27日伊東忠太博士を名誉市民に推薦した。が、郷土の土を踏むことなく、同年4月7日、88才で没した。墓は横浜の総持寺にある。
忠太の祖父伊東昇迪は、シーボルトに師事した米沢の代表的な蘭方医であり、父祐順はポンペに師事して医業を継ぎ、明治初年陸軍の軍医となって、西南戦争や日清戦争に出役、また、謡曲を嗜み金剛流家元について斯道の蘊奥を極め、多くの門人を育てた。
忠太の長兄伊東祐彦も医学に進み、明治34年医学博士しなり九州帝国大学医科大学の初代学長をつとめ、退官後同大学名誉教授。次兄の村井三雄蔵は山形県林業技師で、叔父の平田東助は、明治・大正の代表的官僚・政治家である。
続 米澤人國記<近・現代編> 米沢市史編集資料より
http://one-y.com/pc/human/ito.html
琉球の建築物若い目で検証/伊東忠太ノート基に
戦前の首里城保存に尽力した日本建築史学の祖・伊東忠太(一八六七―一九五四年)が一九二四年に調査に訪れた際に書き記したフィールドノート=写真=が社団法人日本建築学会に寄贈されている。その整理にかかわった京都工芸繊維大学大学院の吉池文枝さん(25)がこのほど、同ノートにある建築物を回り、検証する調査を開始した。先人の貴重な資料に触れた吉池さんは「日本の建築を考える上で、中国との間にある沖縄は避けて通れないルーツ」と研究の動機を語っている。(内間健)
遺族は、九七年に同学会に伊東の手書きのフィールドノート七十六冊を寄贈。そのうちの一冊「琉球」で、崇元寺や真玉橋、識名園など図解を含めて詳細に記録、戦火で変わる前の文化財の姿を伝えている。
伊東はこれを基に四二年に「琉球」を出版、琉球建築を称賛した。また伊東は、鎌倉芳太郎(一八九八―一九八三年)らと戦前の首里城正殿の保存を訴え、取り壊しを食い止めたことでも知られている。
吉池さんは同学会が募集した学生ボランティアに応募、三年間資料整理に携わり、その詳細な記録に時代を超えて共感。さらに当時の人々の生活ぶりにも触れた伊東の民俗学的視点にも興味持ち、研究テーマとした。
今回は十四日の来県、二十八日まで滞在予定で、歴史研究家の野々村孝男さんとも交流を深めた。
野々村さんはフィールドノートについて「沖縄にとって記念すべき第一級の資料」と喜び、吉池さんの調査に協力していく考えだ。
同資料は東京都にある同学会図書館が保管、デジタルデータ化を進めているが、現在は研究や報道目的のみの閲覧となっている。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200509261700_05.html
沖縄文化の遺宝 写真〔編〕
著者 鎌倉芳太郎/著
出版社名 岩波書店
発行年月 1982年10月
サイズ 402,8P 37c
価格 55,650円(税込)
沖縄文化の遺宝〔2分冊〕
著者 鎌倉 芳太郎
出版社名 岩波書店 (ISBN:4-00-008012-1)
発行年月 1982年10月
価格 56,700円(税込)
ただし、「オキナワ」の方が古いんですが、知られていません。
もともとは「阿児奈波島(あこなはじま)」と呼ばれていたようで、鑑真和尚の碑にも残っています。700年代ですから、舜天よりもさらに古い時代。琉球の呼称は1000年以降です。
沖縄県人の先祖の多くは歴史学者の玉城有一朗氏によれば、北九州あたりから縄文時代に船で渡ってきたものが始めらしい。
移民は長期にわたり続き、DNAも形態人類学、言語学的にも証明された。
港川人やピンザアブ原人が注目された時期もあったが、それらは完全に絶えてしまって、今の沖縄県人の祖先じゃない。
そうすると、先住民って何だ?
宮古で言えば、ピンザアブ原人の子孫が残っていれば
、そいつが先住民だろうが、おりませぬ。
今度、糸数慶子センセに聞いてみよう!
オピニオン面に一般投稿6本(児童生徒限定の「ぼくも私も」除く)。
「一貫性を欠く 国の政治姿勢」の那覇市・大見昭子さん(81)は9月27日に続いて今年2回目の掲載。
「今の政府には 信頼感持てぬ」の豊見城市・佐藤悦晴さん(68)は4月5日、5月17日、6月14、26日、7月13日、8月2、16日、9月14日、10月5、24日に続き今年11回目の掲載。
「読書に親しみ 人生を豊かに」の那覇市・屋比久貞雄さん(77)は昨年11月13日以来の掲載。
「野球賭博事件 厳重な処分を」の宜野湾市・松本久雄さん(58)は10月22日に続いて今年2回目の掲載。
「先住民族の人権を保障」の那覇市・宮里護佐丸さんは10月18日に続いて今年2回目の掲載。
「カレンダーとポスター」の那覇市・新垣隆男さん(68)は8月1日、10月12日に続き今年3回目の掲載。
カギカッコは投稿欄における見出し。
その内どのくらいが旧態依然とした理論左翼くずれなのか知らないが、沖縄は辺境最深部ではないし、我々はルンペンプロレタリアートではない。
滑稽だがゲバリスタを気取るのは貴兄の自由。
ただし、騒ぎたければたのむから他所でやってくれ。
しかし、警察が見ているのは、歴史でも政治でも反対運動でもない。彼らが見ているのは、現場で行われていることが「犯罪行為」であるかどうかだけである。犯罪行為でなければ警察官は何もしないし何もできない。
だからこそ警察官の行動は予測可能であるし警察活動を法的にコントロールできるのであり、国民は安心して生活できるのである。
警察の活動基準に「歴史」や「政治」や「心情」の持ち込みを許容することは警察にフリーハンドを与えることになる。そのような社会がどのような社会になるかはこれまでの共産国家が証明している。
以上を全く理解していないのが件の「沖縄の歴史」氏であり、最もよく理解しているのは現場の警察官であろう。警察は政府が何と言おうと、法的根拠を有しないことは決して行わないのである。
沖縄には「犯罪行為」を励まして回る市長、「犯罪行為」を利用する知事、「犯罪行為」を英雄視する「報導」機関が存在する。さらに「犯罪行為」を煽動することをレゾン・デートルとする「くるさりんど山城」や「犯罪行為」に公然と資金を供給する団体、「公職選挙法特区」とぶち上げる国会議員がいる。危機感を持たざるを得ない所以である。
「反基地無罪」を言うことは「安全保障無罪」を許容することでもあろう。
基地周辺対策費とは、基地からでる騒音等、設置・運用により生ずる障害の防止・軽減するための費用。
あの朝日より左の面目躍如のタイムス記事。
朝日「辺野古へ直接振興費は「反対運動への対応」 菅官房長官 鈴木拓也 2015年11月6日」
http://www.asahi.com/articles/ASHC662GKHC6UTFK013.html
>辺野古の周辺3地区に振興費を直接支出する理由について「反対運動の方の違法駐車や騒音が激しく、住民の生活安定のために対応していく必要がある」と語った。
>菅氏は「反対の嵐で、3区の周辺にたくさん(人が)来ている。違法駐車や騒音など、生活に影響が出ている。今までも騒音防止事業などについては当然対応している」とも述べた。
>ただ、政権が振興費の支出の根拠として検討する「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」では、航空機の離着陸による騒音の防止などが挙げられている。
>反対運動の「騒音」を理由にするのは異例だ。
>同市では稲嶺進市長が移設に反対しており、国から払われる米軍再編交付金を受け取っていない。
>政権は市の頭越しに久辺3区に直接、今年度数千万円の振興費を支出することを検討している。
タイムス「菅氏、辺野古への直接振興費は「反対運動の迷惑料」 2015年11月7日」
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=140507
>政府が名護市辺野古の新基地建設現場に近い辺野古、豊原、久志の久辺3区へ直接振興費を支出する理由を問われ、「反対運動の違法駐車や交通量の増加で騒音が激しくなったことに対応するのは自然なことだ」と述べ、振興費の交付は、新基地建設に反対する市民らの運動が地元に迷惑を掛けているためとの考えを示した。
>新基地に反対する市民運動を一方的に迷惑視し、3区への振興費は運動の「迷惑料」とも受け取れる発言で、県民の反発を招きそうだ。
>菅氏は、政府と3区が振興策を話し合う懇談会で、3区から「反対運動による違法駐車や騒音、ごみの散乱などが生活に影響を与えており何とかしてほしい」との要請があることを明かした。
>その上で、「(基地周辺住宅への)防音対策事業は個別に対応しており、(支出は)全くおかしくない」と強調。
>基地周辺対策費で実施している住宅防音工事は市町村を介さずに事業者へ直接支給しているとして3区への直接支出の正当性を訴えた。
>ただ、防音工事などは基地による「実害」への補償。
>新基地建設に伴う被害や反対運動の「騒音」が適正な補助金の支出に当たるか、今後も議論を呼びそうだ。
「新基地建設に伴う被害や反対運動の「騒音」が適正な補助金の支出に当たるか、今後も議論を呼びそうだ」じゃなくて、呼んでくれ~。
「『沖縄セルラースタジアム那覇』の建築(増改築)費用。驚くことに総額68億円のうち51億円は防衛省の予算(基地周辺対策費)で賄われています」だそうで。
当時の市長は翁長氏。
球場作りに基地周辺対策費が使えるなら、3区から「反対運動による違法駐車や騒音、ごみの散乱などが生活に影響を与えており何とかしてほしい」との要請があるのだから、「反対運動の違法駐車や交通量の増加で騒音が激しくなったことに対応するのは自然なことだ」に、激しく同意。
【参考】
批評.com「沖縄県知事はなぜ「振興策はもういらん」といわないのか? 2015/01/10」
http://hi-hyou.com/archives/1258
>周知のように、振興予算と基地問題ははっきりリンクしています。
>振興予算は基地負担の代償なのです。
>これまでの沖縄振興予算の使い途を調べれば簡単にわかることです。
>よく引き合いに出される例は、那覇市奥武山公園ある野球場「沖縄セルラースタジアム那覇」の建築(増改築)費用。
>驚くことに総額68億円のうち51億円は防衛省の予算(基地周辺対策費)で賄われています(画像参照)。
>野球場さえ基地とリンクしていることを事実上認めた上での予算執行なのに、基地と振興予算のリンクは公式には否定されつづけているのです。