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1972年5月6日発行の「これが日本軍だ」は、沖縄返還直前に沖縄県教職員組合によって著された沖縄戦史の貴重な史料である。
これを読むと沖縄返還を境に、沖縄の歴史教育者たちが、極端にイデオロギー化していく様子が手にとるようにわかり興味深い。
特に「集団自決訴訟」以後の沖縄戦に対する歴史観は、敵と味方が完全に入れ変わってしまう。
沖縄住民の敵軍は無差別艦砲射撃で住民を大量虐殺させた米軍から、いつの間にか日本軍に摩り替ってしまってしまう。
中には戦艦大和は沖縄人虐殺が任務だったという珍説を掲載する地元新聞もあるくらいだ。
「軍命あり派」にとって、集団自決は「悪逆非道の日本軍」の象徴であり、「軍命による集団自決」はどうしても教科書に記載すべき必須事項なのである。
■軍人より軍人らしい民間人■
昨日のエントリーで惠さんが「沖縄人の自己責任はどうなるのか」と発言したと書いたが、ほとんどの出席者はその意味をよく理解していないようで、その発言は騒音で押しつぶされてしまった。
すくなくとも沖縄返還前までは、集団自決における沖縄住民側の責任について、密かではあるが囁かれていたことは事実だ。
研究者の間でも「軍人らしい民間人」が時代の空気に舞い上がった結果、軍国主義言動で住民を自決に追いやったという検証がなされつつあった。
例えば小牧薫氏が再三引引用した座間味村役場助役の宮里盛秀氏などは「軍人らしい民間人」の典型であり、沖縄タイムス謝花記者の記事にさえ「軍国主義を地域で支えた」と記述されている。
連載「命語い」(42) 戦後、座間味村長を務めた宮里正太郎(86)は、戦前の座間味役場のことを知る唯一の人物だ。入庁は一九四一年六月、十九歳の時、行政書記として採用された。役場への就職を勧めたのは、当時二十九歳だった役場職員、宮里盛秀だった。 役場には村長、助役、収入役の三役の下に、兵事、勧業、税務、衛生、受付の各係が一人ずつ。盛秀は兵事係として徴兵事務や在郷軍人会関係の担当をした。「重要な仕事だけに盛秀さんは、ずっと兵事係の担当だった。村民の兵籍など熟知していた」 正太郎の入庁が決まった時、親せきが羽織袴を仕立てようと喜んだ。それほど役場職員の地位は高かった。「ジッチュウトゥヤー(月給取り)」。村民は役場職員と教師を陰で呼んでうらやんだ。「役場職員には、簡単に話し掛けることもできない。尊敬もされ、恐れられてもいた」 新米職員の正太郎にとって役場の上下関係は厳しかった。「十代の職員は私ともう一人。仕事は大先輩の盛秀さんたちの指図通りに働いた」 正太郎は、四一年徴兵検査を受け満州の部隊に現地入営するため、役場を辞した。 そのころから徴兵のため島から次々と男子青年の姿が消えた。「男子は役場に採用してもすぐ徴兵された。結果的に職員は、ほとんどが女子になった」。軍国主義体制を地域で支えた兵事係。「兵事係の職務を熟知していた盛秀さんは助役に就任しても、引き継がず兼務していた」 亡父・盛秀の写真を二女の山城美枝子(66)が友人に見せたことがあった。友人は「集団自決」のことは知らない。「怖い表情だね」。何げない一言が胸に刺さった。 ある日、座間味島に渡る船中で年老いた女性が話し掛けた。「夫の出征後、盛秀さんが暮らしぶりはどうですか、とわざわざ訪ねて来た。優しい人だった」 軍国主義体制を村で支えた父。「威厳を保つ表情の下で、心中何を思っていたのか」 盛秀ら村三役役場職員ら十五家族六十七人が、産業組合の壕で「集団自決(強制集団死)」で亡くなった。戦後、一人残った美枝子が泣かない日はなかった。父の心の真実を求め続けた。=敬称略(編集委員・謝花直美)
産業組合の壕 -1- (8月25日朝刊総合3面)
体制支えた兵事係も死へ
(42)亡き父思い 心の真実追う娘
正太郎は学費を稼ぐため屋嘉比島の鉱山で働いたが体を壊した。重労働ができない正太郎のことを盛秀は心配していた。「体が大きく、厳格だけど優しい人。そんな印象だった」と正太郎は振り返る。
◇
宮里盛秀氏は、座間味島の村民の行動を決定する重要な役割を担っていた。
「助役の宮里盛秀は行政を担当しながら、兵事主任、防衛隊長を兼務して最も軍に近い立場にあり、戦時下では村長を上回る権限を有していた。盛秀は村のなかでも最も多忙で責任の重い地位にいたのだった。したがって、上陸の前触れである艦砲射撃を受けながら、住民のとるべき手段をいち早く決定する役割が盛秀にはあった」
「彼は村の助役として、3年余りにわたって『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた中心人物であった。追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。それは各壕でそれぞれの家族単位でではなく、全住民が集団で、忠魂碑の前で決行することに意味があったようだ」
「助役は隊長に『もはや最後の時が来ました。私たちも精根を尽す限り軍に協力致します。それで若者達は軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬を下さい』と、申し出ました」(宮城晴美 『母の遺したもの』 2000年)
新聞に数多く掲載される「証言」を丹念に検証していくと、座間味島には、
宮里助役の他にも「軍人より軍人らしい民間人」の影が浮かび上がってくる。
過去のエントリーでも書いたが「参謀長と呼ばれた教頭先生」が、若い日本兵を顎で指揮している様子が証言録で明らかにされている。
山城安次郎教頭は、軍服に帯刀をして座間味島の日本兵を顎で使い「参謀長」という名で呼ばれるほど権力を持っていた。
当時の島では、ある意味では、軍人より怖い学校の先生や村の職員がいたことは事実である。
「これが日本軍」の著者の一人儀部景俊沖国大教授は戦争責任の追及について次の点に留意するように同書の最後を結んでいる。
(1)沖縄県民が全体が被害者であったとして、沖縄で帝国主義戦争推進の役割り果たした戦争指導者の責任を不問に付してはならない。
(2)渡嘉敷島や久米島の例にみられるように、責任追及の対象を特定の日本軍将校個人に限定することは、戦争の性格や責任のありかたをあいまいにするというになるということ。
軍人らしい言動で住民を扇動した人物には宮里盛秀氏や山城安次郎氏の他にも米軍統治下の沖縄の主席(県知事に相当)を勤めた当間重剛氏や、その前の沖縄群島知事を勤めた平良辰夫氏らがいる。
沖縄では戦災による極端な成人男子の不足のせいかか、米軍は本土で行ったような「軍国主義扇動者」に対する公職追放は実施しなかった。
また、「これが日本兵だ」発行の2年前の1970年4月3日付沖縄タイムスで、
沖縄在住の作家星雅彦氏も集団自決で沖縄住民の中に「軍人らしい民間人」がいたことを記述し、彼らが住民を集団自決へ扇動したと書ている。
<集団自決は、史上未聞の事件であるが、慶良間では、渡嘉敷より二日前に座間味で起きており、慶留間でも小規模にあったのだ。
そこで告発を徹底するためには、軍国主義に忠誠だった村の指導者たち(思想を先取りして、村民を足手まといに扱ったふしがある)にも向けてしかるべきであり、一人一人あの時点でどうだったか、真実をさらす勇気が問われるぺきだと思う。(1970年4月3日沖縄タイムス「唐獅子」「25年前は昨日の出来事」)>
「たかじんの・・・沖縄集団自決」で惠さんが主張した「沖縄県民の自己責任」とは、
儀部景俊氏や星雅彦氏がかつて指摘していたように「住民を自決に扇動した民間人」のことを指すのであるが、これに関しては最近の沖縄の研究者は口を閉ざして語ろうとしない。
被告側応援団長の小牧薫氏が何度も引用した宮里盛秀氏は、「牛島司令官が発した自決命令」を不可避的な命令伝達経路で住民に伝えた哀れな村職員ではない。
少なくとも「集団自決訴訟」の前の時点までの宮里助役に対する島の住民の評価は、梅沢隊長も関知しない「自決命令」を、自己の判断ミスで勝手に住民に伝え、住民を自決に追い込んでいった島のリーダーだ、といわれていた。
ところが提訴後は、宮城晴美氏に代表されるように次々と後出しジャンケンのように証言を変えていったことは周知の通りである。
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【参考】
沖縄タイムス<2002年9月21日 朝刊 6面>
宮城晴美(下)
(63)告白・数行が母の戦後を翻弄
「約束」から10年
戦争体験のトラウマを問う言葉が、鋭く胸を突く。
宮城晴美の著書『母の遺したもの』は、家族の体験から目をそらすことなく、血塗られた座間味の実情を克明に記している。宮城に執筆を、激しく促したのは「母の手記」だった。同著の前書き、「約束」から一〇年-で、脱稿・出版までの経緯を述べている。
「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノート(手記)を私に託し、半年後(一九九〇年)、六十九歳の生涯を終える。字数にして四百字詰め原稿用紙約百枚。自らの戦争体験の日々を具体的につづっていた。しかも、手記は過去の記述を、根底から覆す内容を含んでいた。
一九六二年、最初の手記を『家の光』の懸賞募集に応募入選する。翌年、同誌四月号に掲載。さらに五年後に出版された『沖縄敗戦秘録-悲劇の座間味島』(私家版)で、「血ぬられた座間味島」の題名で収録された。その記述の一部分が発表して以来、母を苦しめ追いつめていた。
『悲劇の座間味島』、それと一冊のノートを前に、一部カ所・数行の削除を指示した。「母の戦後を翻弄(ほんろう)した数行だった」。十年後、宮城は執筆に取りかかる。
板ばさみの苦悩
同著の要旨を追うことにする。当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」-が、事実と違う記述であった。以後、「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令」が根拠とされてきた。
事実は、部隊長の命令は下されず、村役場の伝令が飛び交い、次々と「集団自決」へ走った。手記発表後、母は自分の“証言”で梅澤を社会的に葬ってしまったと悩んでいた。事実を公表すれば、島の人々に迷惑が及ぶ。板ばさみの心痛を一人で背負っていた。
一九八〇年、那覇市内で梅澤と再会。そして母初枝が告白した。「命令を下したのは梅澤さんではありません」。この一言に、梅澤は涙声で「ありがとう」を言い続け、嗚咽(おえつ)した。だが、告白をきっかけに事態は急変。さらに波紋を広げていく。(略)
恵さんが仰る「沖縄だけが被害者だと言うのは、沖縄を侮辱している。皆がが苦難を分かち合ってきたんです。」は当然です。
沖縄の左翼が主張する、沖縄=被害者は自己責任を棚上げし、他に責任転嫁しているに過ぎません。
責任転嫁した時点で自己からの逃避が始まるのです。そこには真の反省はありません。いつまでも同じ過ちを繰り返します。
先日の糸満の不発弾の件もそうです。自分達に非が無かったかをまず考えてから、国にお願いすべきはお願いする。沖縄の左翼団体にはそんな謙虚な姿勢が欲しいと思います。何度も書きますが私が出会った沖縄のオジー達は、日本のために戦ったことを誇りにしていました。今でも東京に行く機会があると戦友に逢うため靖国神社に行くそうです。
オバーの話も書いておきます。オジーが戦争に行って集落単位で北部に疎開したそうです。疎開生活は不便ではあったが、疎開しなくて被害にあった人もいます。オバーは「何で疎開しなかったのだろうね。疎開する人もしない人もいた。いまさらあれが悪いこれが悪いと言いたくない。」オバーの話も恵さんの発言と同じように聞こえます。日本軍との関係も良好だったそうです。だから太田中将も「沖縄県民かく戦えり。」の電文を打ったのでしょう。
沖縄タイムスもフィルターにかけないで、生のオジー、オバーの声を聞かせて欲しいものです。
本当の沖縄の声を聞かせて欲しいものです。
沖縄を侮辱しないで欲しいものです。
連投失礼します。
先に投稿しましたように、戦争を体験したオジー、オバー達に日本軍悪を言う人は少ない。
むしろ、戦争を体験していない30代~50代に恨みつらみが多いです。これも沖教組を始めとする、左翼団体の成果でしょうか。
>沖縄だけが被害者だと言うのは、沖縄を侮辱している。皆がが苦難を分かち合ってきたんです
沖縄人は何かというと「差別だ!」と叫びますか、沖縄戦に関しては自らを「日本人ではなかった。 日本軍が侵略したのを米軍が解放した」といった自らを差別し、侮辱するような視点で語ります。
このような被差別意識・被害者意識から逃れない限り、そして責任転嫁意識続ける限り、永久に「恨み節」を唄い続ける哀れな県民です。
>戦争を体験していない30代~50代に恨みつらみが多いです。これも沖教組を始めとする、左翼団体の成果でしょうか。
直接的には沖縄変換後の日教組の沖縄進出の成果でしょうが,
最近では朝日などの本土の大手マスコミ入社に失敗した在日コリアンが、タイムスをはじめ沖縄マスコミに大量入社を開始しているとの噂もあります。