■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)
これは平成22年から令和4年まで私の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月
富原盛安(82歳・南城市)
携帯をスマホに変えた老いぼれに使いこなせる手だてはありや
老いぼれの貴重な一年コロナ漬け湧き立つ怒り誰にはらさん
おだやかに余生を過ごす人々に魔の手が迫るコロナくたばれ
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■瀬良垣譲二様のコメント
いつも投稿していただいている瀬良垣譲二様より、那覇以南の図書館蔵書に『沖縄「集団自決」の大ウソ』の献本して頂いた旨連絡が入りました。
【昨日、「西原町中央図書館」に一冊寄贈してきました。ちょっと見落としてたもので、遅くなりました。 今日「豊見城中央図書館」に1ヶ月経ったのでどうなってますか?と電話しました。「南城市・糸満市・八重瀬町では既に貸し出し本として名簿に載ってます」と言ってプッシュしました所「即、リストに載りましたー」これ、効果あるよーです。 沖縄県の図書館を横断検索ーカリールローカル沖縄県 https://calil.jp/local/search?csid=okinawa&q=99%25%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%20%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%80%8C%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%82%A6%E3%82%BD これで那覇市以南の市町村には全て寄贈したことになります。 那覇の方も配りたいところですが、当方も辰年生まれ(1940)けっこう高齢で田舎の運転はマーマーですが、都会の方は・・と言ったところで、誰か若い適当なかたにお願いされては、と思いますので、、よろしく。 江崎様へ 取り合えず、報告がてら 糸満・瀬良垣譲二より】ーーーーーーーーーーーーーーー■読者の皆様で、近辺の図書館蔵書の献本の可能性のあるところがあれば、ご協力ください。献本は私共の負担ですので、遠慮なく冊数をお申し付けください。
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軍は住民を守ろうとした! 沖縄戦秘話4 2008-08-01
沖縄タイムス、琉球新報の沖縄二紙が説く沖縄戦史のスローガンは、「軍は住民を守らなかった」。 そして沖縄戦はまるで日本軍が沖縄住民を虐殺する戦いであったかのような報道で県民を扇動する。
だが、県民が地上戦に巻き込まれるのを最も憂慮していたのは軍であり、牛島第32軍司令官の沖縄着任の一ヶ月前に県民の県外疎開の閣議決定を発議し、県民の安全を真っ先に考えたのは他ならぬ、軍当局であった。
少なくとも、「軍は住民の安全を守ろうとしていた」のである。
■県外疎開が進まなかった理由■
軍の命令が絶対であり、軍命であれば愛する親兄弟も殺すと主張するが正しいならば、住民の県外疎開など軍の命令一下で、容易に実行できそうなものである。
ところが容易なはずの県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍と県による県外疎開の実施は思うようにうまくはいかなかった。
その第一は、沖縄の地理的要因であった。 今と違って当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは大変なことで、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていた関係上、家族と別れるくらいだったら一緒に沖縄で死んだ方がマシだという風潮も県外疎開の阻害要因であった。
東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が船路で九州各県に疎開することは大変な決心を要する一大事であった。
次に当時の泉県知事がどういうわけか軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示した。
泉知事は「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げ(疎開)の必要はないと思う・・・」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無い、といった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
第32軍は牛島司令官が着任の一ヶ月前から、県民の県外疎開を実施を計画していたが、軍の意思に反して疎開が無くても良いといった風潮は、泉知事や県民の大多数だけではなく、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にも散見した。
軍の指令のうまく行きわたらない地方の部隊では、第32軍が沖縄で頑張っているのに、わざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言するものもいた。
遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは、昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。
戦後60数年経った現在でも、「不発弾処理」のため、自治体が住民避難勧告等の広報を流しても、なかなかこれに従おうとしない。
何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。
■県外疎開は軍の発議■
軍が沖縄県民の疎開を考え始めたのは、米軍がサイパン島に上陸し、「絶対国防圏」の一角が崩れ始めた昭和十九年六月下旬の頃である。
アメリカ軍の投降勧告によって集められた日本人住民の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり、米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされトラックに積み込まれ運び去られたということは戦後いろんな証言で記録されている。
当時の沖縄県民がどの程度「サイパンの悲劇」に関する正確な情報を持っていたかはさておき、当時の沖縄には南方帰りの県人が多かったり、大本営がサイパン陥落の直前に沖縄住民の県外疎開を急遽準備し始めたといった事実から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は容易に想像できる。
昭和19年6月28日の陸軍省局長会報で富永恭次陸軍次官は、
「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」と述べ、真田第一部長は、間もなく沖縄の第32軍参謀長に着任する長勇少将に「球ノ非戦闘員ノ引揚」の研究を指示している。
サイパンが陥落直前の七月七日の陸軍省課長会報で、軍務課長は「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可スルナラン」と報告、翌八日の陸軍省局長会報では、軍務局長が「球兵団地区ノ住民ハ、希望ニ依リ地区毎ニ、引揚ヲ世話スル事ニナル」と述べている。
沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開
人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の三分の一にあたる十万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州四県と台湾に決まった。
サイパン陥落の後、米潜水艦による疎開船「対馬丸」の撃沈(8月22日)もあったが、同年10月19日の那覇大空襲によって疎開機運は高まり、昭和20年3月上旬までに、延べ187隻の疎開船で、沖縄本島の約6万人が九州、宮古・八重山の約2万人が台湾に疎開した。
■軍は住民を守ろうとした■
米軍の沖縄上陸の可能性が高くなった昭和19年12月以降は、第32軍と県、警察、学校の間で、沖縄に残った住民の県内疎が計画され、3月中旬までに、沖縄本島中南部の住民約3万人が北部の国頭郡に疎開した。
辛うじて北部に疎開できた住民は南部に逃れた住民に比べて戦火の被害は比較的少なかった。
3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった後も、上陸した米軍が沖縄本島を南北に分断、疎開の道が閉ざされた4月3日までの間、県北部へ向けて殺到した中南部の住民約5万人が県北部へ疎開した。
本格的な地上戦が始まる前、県外外の疎開をした沖縄県民は16万人に至った。
当初は軍中央部の要請で政府が県外疎開を決定し、19年末からは、主として現地の32軍と沖縄県の間で県内疎開が実施された。
現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、
「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」
と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定され、それが軍の発議で行われたことは歴史的事実であると考えられる。
(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)
12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました。
月刊WiLL(マンスリーウイル) 2024年2月号 (発売日2023年12月20日) の目次
目次
グラビア 現代写真家シリーズ オーロラの奇跡 谷角 靖
朝三暮四 加地伸行
読者の皆様へ
お待たせしました。
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