狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

軍は住民を守ろうとした! 沖縄戦秘話4

2008-08-01 06:40:13 | ★集団自決

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

沖縄タイムス、琉球新報の沖縄二紙は、

「軍は住民を守らなかった」のスローガンを掲げ、沖縄戦はまるで日本軍が沖縄住民を虐殺する戦いであったかのような報道で県民を扇動するが、

県民が地上戦に巻き込まれるのを最も憂慮していたのは軍であり、牛島第32軍司令官の沖縄着任の一ヶ月前に県民の県外疎開の閣議決定を発議し、県民の安全を真っ先に考えたのは他ならぬ、軍当局であった。

少なくとも、「軍は住民の安全を守ろうとしていた」のである。

■県外疎開が進まなかった理由■

軍の命令が絶対であり、軍命であれば愛する親兄弟も殺すと主張するが正しいならば、住民の県外疎開など軍の命令一下で、容易に実行できそうなものである。

ところが容易なはずの県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍と県による県外疎開の実施は思うようにうまくはいかなかった。

その第一は、沖縄の地理的要因であった。 今と違って当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは大変なことで、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていた関係上、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がマシだという風潮も県外疎開の阻害要因であった。

東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が船路で九州各県に疎開することは大変な決心を要する一大事であった。

次に当時の泉県知事がどういうわけか軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示した。

泉知事は「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う・・・」と発言し、

県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無い、といった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)

第32軍は牛島司令官が着任の一ヶ月前から、県民の県外疎開を実施を計画していたが、

軍の意思に反して疎開が無くても良いといった風潮は、泉知事や県民の大多数だけではなく、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にも散見した。

軍の指令のうまく行きわたらない地方の部隊では、第32軍が沖縄で頑張っているのに、わざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言するものもいた。

遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは、昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。

戦後60数年経った現在でも、「不発弾処理」のため、自治体が住民避難勧告等の広報を流しても、なかなかこれに従おうとしない。

何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。

■県外疎開は軍の発議■

軍が沖縄県民の疎開を考え始めたのは、米軍がサイパン島に上陸し、「絶対国防圏」の一角が崩れ始めた昭和十九年六月下旬の頃である。

アメリカ軍の投降勧告によって集められた日本人住民の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり、米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされトラックに積み込まれ運び去られたということは戦後いろんな証言で記録されている。

当時の沖縄県民がどの程度「サイパンの悲劇」に関する正確な情報を持っていたかはさておき、当時の沖縄には南方帰りの県人が多かったり、大本営がサイパン陥落の直前に沖縄住民の県外疎開を急遽準備し始めたといった事実から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は容易に想像できる。


昭和19年6月28日の陸軍省局長会報で富永恭次陸軍次官は、

「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」と述べ、真田第一部長は、間もなく沖縄の第32軍参謀長に着任する長勇少将に「球ノ非戦闘員ノ引揚」の研究を指示している。             

サイパンが陥落直前の七月七日の陸軍省課長会報で、軍務課長は「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可スルナラン」と報告、翌八日の陸軍省局長会報では、軍務局長が「球兵団地区ノ住民ハ、希望ニ依リ地区毎ニ、引揚ヲ世話スル事ニナル」と述べている。

沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開
人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の三分の一にあたる十万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州四県と台湾に決まった。

サイパン陥落の後、米潜水艦による疎開船「対馬丸」の撃沈(8月22日)もあったが、同年10月19日の那覇大空襲によって疎開機運は高まり、昭和20年3月上旬までに、延べ187隻の疎開船で、沖縄本島の約6万人が九州、宮古・八重山の約2万人が台湾に疎開した。

■軍は住民を守ろうとした■

米軍の沖縄上陸の可能性が高くなった昭和19年12月以降は、第32軍と県、警察、学校の間で、沖縄に残った住民の県内疎が計画され、3月中旬までに、沖縄本島中南部の住民約3万人が北部の国頭郡に疎開した。

辛うじて北部に疎開できた住民は南部に逃れた住民に比べて戦火の被害は比較的少なかった。

3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった後も、上陸した米軍が沖縄本島を南北に分断、疎開の道が閉ざされた4月3日までの間、県北部へ向けて殺到した中南部の住民約5万人が県北部へ疎開した。

本格的な地上戦が始まる前、県外外の疎開をした沖縄県民は16万人に至った。

当初は軍中央部の要請で政府が県外疎開を決定し、19年末からは、主として現地の32軍と沖縄県の間で県内疎開が実施された。

現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、

「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」

と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定され、それが軍の発議で行われたことは歴史的事実であると考えられる。
(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (6)    この記事についてブログを書く
« 沖縄タイムスが報じた「不都... | トップ | 「嘘つきおじぃ」と「嘘つき... »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (涼月)
2008-08-01 15:38:19
日本軍を批難する奴らの典型として戦陣訓の生きて虜囚の辱めを受けずというところをやたらと強調しているけど、戦陣の戒にある「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし 」という部分は絶対に取り上げないんですよね。
慶良間の部隊はまさにこれを遵守してたのに
返信する
疎開 (縁側)
2008-08-01 20:16:58
狼魔人さま こんばんは

国家主導で住民を避難させる国が、日本以外にあったでしょうか?そんな立派な国が・・。
返信する
富永恭次のこと (太平山)
2008-08-02 16:07:53
狼魔人さま

こんにちは。少しばかりご無沙汰しております。富永恭次の名が見えましたので、また出しゃばることをお許し下さい。以下のくだりですけれども。

>昭和19年6月28日の陸軍省局長会報で富永恭次陸軍次官は、「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」と述べ<

土民の表現については以前にも物議をかもしましたが、私も正直言って「土民とは失礼だなぁ~」と思いました。が、「まぁ、土人と言われなかっただけでもよしとしましょうか(笑)」と今では流しています。他でもない言った相手が富永恭次であれば、納得できますから。

富永恭次陸軍中将は「敵前逃亡」で評判が非常によろしくないですね。フィリピン決戦において陸軍初の特攻隊に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓辞しながら自らは部下を置き去りにしてフィリピンから台湾へと脱出しますから。

まぁ、将軍にもいろいろな人がいますから、「言葉狩りのようなことはせずに気にしないでおきましょう」ということですね。実際に大田実海軍中将のような方もおりますし。

話は変わって、富永恭次中将がフィリピンを脱出する際には九九式襲撃機で行なっていますが、この機は二人乗りです。私はこの件に関しては石垣出身の伊舎堂用久大尉(当時)が関わっているのではないかと考えているのですね。

伊舎堂大尉が所属する台湾の誠第17飛行隊の主力は九九式襲撃機でした。伊舎堂大尉は昭和20年1月に比島に2回出張します。富永恭次中将が脱出した月です。

伊舎堂大尉はその後比島出張の目的、結果については口を固く閉ざし一切を語らなかったと言いますから案外あり得る話ではないかと思量しています。

本旨とは外れましたが、富永恭次中将と伊舎堂用久大尉について話してみたかった次第です。

それではこれにて失礼。



返信する
Unknown (狼魔人)
2008-08-03 10:11:43
◆涼月さん

何事も日本軍の良い面には一切目をつぶり、「悪い面」を誇大に取り上げる姿勢も、ネットの普及で通用しなくなりつつありませね。


◆縁側さん

県外疎開させられたも「日本軍の悪行」の一環だと言い張る連中が存在することが不思議です。


◆太平山さん

悪名高い富永恭次はともかく、
集団自決で慶良間島が混乱している同じ時、島に艦砲を打ち込む米艦船に特攻をかけて散った沖縄出身の伊舎堂大尉のことは、沖縄人ならもっと知るべきだと思いますが、これを報じる沖縄紙を見たことはありませんね。
舎堂大尉が富永恭次のフィリピン脱出の手伝いをさせられていたとしたら迷惑な話ですね。
上官の命に従うのは軍人の本分ですから、だからと言って伊舎堂大尉の名誉に微塵の瑕疵もつかないものと思います。

伊舎堂大尉について何か分かれば又教えてください。



返信する
伊舎堂中佐のこと (太平山)
2008-08-03 14:47:05
狼魔人さま

コメントありがとうございます。しかし流石ですね伊舎堂用久中佐をご存じだとは。感服します。こう言うと逆に失礼に当たるかもしれませんがお許しを。

伊舎堂用久中佐については私の書き方がまずかったですね。私は富永中将との関連をある方に伺ったところ言下に否定されました。公式記録にもそれはありません。一般には特攻攻撃の実態をみるためだと言われています。

ただ戦記物を読んで行くうちに符合するものが散見されるものですから、私なりの推理であのようなことを書きました。私が伝えたかったのは逆に言えば伊舎堂用久大尉は軍からの信頼が非常に厚かったということです。下士官からもそうでした。部下を手荒に扱うとか手をあげるということは滅多にしなかったようです。温厚で優しい隊長でした。

伊舎堂大尉と同期に藤森正義という人がいます。長野県出身で新田次郎氏といとこにあたる方ですが、この方が中央気象台の課長であった新田次郎氏(藤原寛人)に沖縄に出張する際には伊舎堂中佐の遺族を訪ね焼香するよう依頼しております。今「国家の品格」で有名な数学者の藤原正彦氏は新田次郎氏の次男でお母さんは作家の「藤原てい」ですね。

以上のことは又吉康助著「千尋の海」に拠りました。是非読んでみて下さい。

・伊舎堂用久 陸軍中佐

・大正9年6月12日石垣島登野城で出生
・宮古中学校、県立二中を経て昭和13年12月陸軍士官 学校入校(陸士55期)
・昭和16年6月航空兵科に転科
・昭和19年11月誠第17飛行隊長(特攻隊長)に推挙
・昭和20年3月26日沖縄戦陸軍特攻の先陣を切って石 垣島を出撃、慶良間沖アメリカ艦隊に突入散華。  (二階級特進)
・辞世
「指折りつ待ちに待ちたる 機ぞ来る 千尋の海に散 るぞたのしき」

 ご冥福を祈ります。   拝





返信する
Unknown (狼魔人)
2008-08-06 19:09:47
太平山さん

興味深い話ありがとうございます。

機会をみて、又吉康助著「千尋の海」も読んで見たいと思います。
返信する

コメントを投稿