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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

再論・集団自決、法廷で証言!石原昌家氏、「自決軍命は虚偽」石原昌家氏

2019-07-12 13:24:23 | 経済

 

狼魔人日記

 

 

再論・集団自決、法廷で証言!石原昌家氏、「自決軍命は虚偽」石原昌家氏、2018-05-22 10:49:55 |

前の記事でノーベル平和賞に、暴力男の山城博治被告や暴力おばぁの島袋文子氏がノーベル平和賞にノミネートされるとは、県民をバカにしていると書いた。

翁長知事、山城議長らノーベル賞にノミネート 県内から8氏2団体 琉球新報 2018年5月21日 18:24

 8氏は翁長知事と山城氏のほか、元知事公室長の高山朝光氏、沖縄国際大学名誉教授の石原昌家氏、元読谷村長の山内徳信氏、沖縄戦の遺骨収集を続ける具志堅隆松氏、辺野古新基地建設に反対する島袋文子氏、元白梅学徒の中山きく氏。
【琉球新報電子版】

 

だが、ノミネートされた8人に中に沖縄国際大学名誉教授の石原昌家氏が含まれているのを見て、平和に貢献した大学教授の印象を持つ人がいる可能性がある。

だが、石原氏こそ沖縄戦を歪曲し、「集団自決は日本軍の命令」というデタラメ流布させた張本人である。

過去記事を引用して石原教授のデタラメを暴いてみよう。

以下は過去記事「法廷で証言!「自決軍命は虚偽」石原昌家氏、2013-07-16 」の引用です。

 

世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(7)
靖国合祀取消で原告証人/
「自決軍命は虚偽」と証言


   集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのだろうか。 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(朝日新聞)、大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長に対するいわれなき誹謗(ひぼう)である。
   集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(きんそん)(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

   架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂(へんさん)室に務めた奥間俊夫氏が高橋秀美著「からくり民主主義」(新潮社)の中でこう証言している。

   <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですが、なぜかほとんどが“田中軍曹”でして、調べてみるとそんな人は実在しないんです。

   「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げ、村民が「口裏合わせ」をしたことで金武村の場合は丸く収まった。

   しかし、この場合、「戦闘参加者概況表」で示された集団自決の地域(座間味村、渡嘉敷村、伊江村)には該当しない。援護法が拡大適用され、それが黙認されたことが分かる。

   一方、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として独り歩きすることになってしまう。

   石原昌家沖国大名誉教授は、「沖縄靖国合祀(ごうし)取消訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷に意見書を提出した上、証人にもなっている。石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などと「戦闘参加者」をつくって援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出した。

   ところが被告側弁護士の尋問で「歴史の改竄(かいざん)」について次のような証言をした。


 <被告弁護士 「事実と異なる内容の申請書を最初から出して、何の問題もなく適用された人も当然いますよね」

 石原証人 「そうです。圧倒的ですよ」>

 
   「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

   石原氏は、「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると主張したのだ。

      (「沖縄戦の真実」取材班)

                ☆

沖縄メディアに登場する日本兵は、鬼の形相で幼児を抱く母親を銃剣で威嚇する蝋人形(沖縄県平和祈念資料館)が象徴するように、米軍と戦うというより沖縄住民を虐殺するために沖縄に派遣されたかのような印象さえ与える。



さらに、沖縄県民は常に被害者で日本軍は敵である、という主張が延々と続く。いちいち蝋人形で場面を再現しなくてもよさそうなものだが、とにかく悲惨だ、悲惨だ、ひどい目に遭った、と感情論に訴える展示が続く。

実際はどうだったのか。

典型的な日本兵の暴状として頻繁に証言される「壕の追い出し」は、一般住民を米軍の馬乗り攻撃から守るためだった。 

米軍の馬乗り攻撃とは、壕の上に米軍が馬乗り状態になり壕の中に潜む日本兵の火炎放射器、手榴弾などで攻撃し、日本兵の全滅を図る攻撃。

その際民間人が壕に留まったら、玉砕の巻き添えを食うことになる。

 

以下に出典を記して、「援護法と軍命の捏造」の実態を列記する。

■出典:那覇市史2-6 島尻郡旧真和志村戦争記 8頁(戦争と市民生活198頁)

証言者:金城 嘉味(明治32年生)

    金城 光順(明治26年生)

    比嘉 康進(明治20年)

内容: 

【金城 嘉味】空襲の時には区民は各自で掘った防空壕や墓などに入ったが、区民の大部分は戦車壕に避難した。私も戦車壕に入ったが、二十年三月二十五日にここを追い出された。その日壕の入口から海を見たら、一面米軍の艦船で埋まっていた。一緒にいた兵隊から「米軍はここに上陸するかもしれないから、一般民は出ろ」といわれて戦車壕から出された。それから私たちは国頭に行った。壕を出てからの行動は皆バラバラであった。夜は艦砲射撃がないとわかったので、昼間は寝て夜だけ歩いて四月一日に大宜見村の根路銘に着いた。

【金城 光順】私は戦車壕を出てからチブガーバル(壺川原)の親戚の墓に行った。そこに一ヵ月位住んでいた。そこにいる時には墓の入口に畳をたててあったので、それで爆風をまぬがれることもあった。米軍が勢理客に近づいた時に、軍命令によって玉城村に行けといわれた。

【比嘉 康進】私は戦車壕に入らず、石部隊の兵隊と一緒に協同で掘ったナーチュの壕にいた。壕には七家族,三十七人が隠れた。戦いが激しくなってからは、毎晩十人位の兵士が斬り込みに出かけたが、帰ってくるのはほとんどいなかった。斬り込み隊員が出かける時には、同僚たちは「斬り込みにいったらけがをしてはだめだよ、死んで帰ってこいよ」と励ましとも慰めともつかない見送りをしていた。

 石部隊が全滅したので、かわって球部隊がきた。彼らは壕に入ってくると私たちに「壕から出て行け」といったので、「出ない」といったら「殺すぞ」と脅迫した。―略

 

■優しかった兵隊さん

那覇市史第2巻中の6

114頁、公募原稿・市民の戦争体験沖縄戦32頁

8少年時代の悲惨な戦争体験    那覇市識名五 玉城秀時

昭和20年5月下旬頃、識名から西方凡そ六百米の大石森から機関銃の銃声が聞こえて来たので、私達は日本軍の機関銃の銃声だと思い込んでいたら日本の兵隊さんが、その銃声は敵だから君達は南部へ避難しなさいといって道順まで教えてくれた。識名東原を通り通称泊下橋を渡り現在の四十四号線に出た。そこに与那原へ向かっておよそ百米の地点で、日本の兵隊さん約三十人にであった。その際私達に向かってみなさん元気でなあ、と声をかけてくれた。その時兵隊さん達は鉢巻をしていたが、武器らしい物は持たず、なにか爆薬らしい小さな遺骨箱の様な物を持っていて、みんな歌を歌っていた。―略―

■その他、壕からの善意の追い出し

*6月18日 ひめゆり学徒の居た第三外科壕で比嘉軍医は、学徒に解散を命じ壕から出てゆくようにたしなめたが、なかなか出ようとしない学徒を追い出す為に日本刀を抜き、出なければ斬ると脅し出した。 出なかった者たちは米軍のガス弾で戦死した。

 

*沖縄第六十二師団 特設警備第二二三中隊 永岡敬淳隊長は、6月22日山城(旧喜屋武村)に集結したものわずか四名遂に負傷し戦闘する力尽き自決する。

永岡隊長は暗い壕の中で手探りで一人びとり握手され「ご苦労さまでした。君たちは若い、死んではいけない!捕虜になりなさい。アメリカ軍は君たちをころすようなことはしないと思う。だから武器を(手榴弾)捨てて出なさい」と、「隊長さんは?」と訊くと、「私は、沢山の部下を失ったので・・」とおっしゃったあと、懐から数珠を出され、私たちの無事投降を祈られるように、「安子、生きて私の家族に巡り逢うことがあるはずだから、この数珠を預かってくれ。よろしく頼む」と私の首に掛けられました。それから、「だれも私の後について来るな」と言われ壕の出口方向に行かれました。多分そののち自決なさったと思います。(翁長安子)

*野戦病院長小池勇助隊長(少佐)は、6月26日真壁村糸洲の壕から積徳高等女学校の学徒に解散命令をだした。

「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった」「・・・決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてくれ。」と言われ看護隊一人一人と別れの握手をされた。

 

 

■壕の追い出しは、県民を救う為に行なったものである

 

 1、 西平 守盛 元警視正(沖縄戦当時 警部補)玉城村付近一帯受

 

「銃突き付け日本兵は、住民を救うため」

 

 「ひらめき」14号21頁(国旗国歌推進沖縄県民会議会誌)平成12年2月11日

 

米軍の飛行機は「非戦闘員は、知念半島に避難せよ」という趣旨の「ビラ」を摩文仁方面で撒いた。それで、日本兵は、壕の中にいる住民に、「知念半島は安全だから壕を出て知念半島に行け」と言った。しかし、住民は聞き入れなかったから「銃突き付けたら聞き入れるだろう」と思って銃突き付け「出て行け」と言ったのである。・・・日本兵が自分の身の安全を図るために、沖縄住民を犠牲にしたと曲解して、「日本兵は悪者である」と悪宣伝しているのが、沖縄の現状である。

 

  *ビラを拾った人は、壕の外に出て行動した人々であり、より勇敢な人たちだった*

つづく

【おまけ】

「白旗の少女」として有名な比嘉富子さんは、1フィート運動の記録映画にでてくる自分の映像を利用し、「白旗を掲げる少女を盾に投降する卑劣な日本兵」の汚名をそそぐ為発刊した自著で、日本兵の壕追い出しについて次のように述べている。

(比嘉さんが壕に潜んでいたら、日本兵が入ってきた。)

以下引用。

「5、6人の兵隊さんがやって来て、「どけどけ、ここでまもなく戦闘が始まるぞ!はやくほかえいけ!」とどなりました。わたしは夜になるのを待ちきれず、まだ日のあるうちにぬけ出し、あちこちのガマ(壕)からガマへとわたって、「ネェネェ、ネェネェ(オネーチャン・引用者注)」といいながら覗いては、先にガマに住んでいる人から、シ、シとまるで犬か猫のように追い出されるしまつでした。」

(負傷兵がいる壕に逃げ込んだ比嘉さんに、日本兵が語りかける。)

「『ねぇ、そこの」女の子。逃げるならいまのうちよ!もうすぐ、入り口をふさいで、爆弾でみんながしぬのよ。 それとも、わたしたちといっしょに死ぬ?』 わたしは、ぴくっと体をふるわせて、あわててガマをとびだしました。そしてできるだけ遠くへ逃げようと崖をおりました。 しばらくすると、うしろで大きな爆発音がして谷間にごうごうとこだましました。」

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続・集団自決の生き証人・安里巡査の証言、「慶良間の真相」

2019-07-12 06:55:16 | 経済

 

狼魔人日記

 

続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」

2012-05-01 07:41:09 

■八重山日報 2012年4月30日

慶良間で何が起きたのか⑤ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 パンドラの箱を開けた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。


 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。―


 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」


 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。


 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて新聞で発表した。『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している


 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。


 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている。」初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。 (つづく)

            ☆

■八重山日報 2012年5月1日

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。

「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。

赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。

赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

             ☆

我々は「言論の自由」などと気軽に言うが、発表する場所の無い言論など一片の紙屑にすぎない。

だが弾圧され、言論封殺された言論が逆境を乗り越え一旦日の目を見ると、本来の価値に加えて輝きを増し、その反動で読む人の胸を打つ。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんの著作「慶良間で何があったのか」が、それだ。

琉球新報が「社の方針と異なる」という理由で掲載拒否したことを、「慶良間で何が起きたのか」を本日の完結編まで読んだ人なら容易に理解できるだろう。

仮に琉球新報が読者を舐めきった暴挙に及ばず、そのまま上原さんの連載記事を継続していたらどうなっていたか。

勿論「言論封殺」で訴えられることもなかった。

「慶良間で何が起きたのか」の記事がネットに載ることもなかった。(琉球新報はこの種の連載記事はネットには載せない) 

したがってこのようにネットを通じて「幻の原稿」が全国に拡散されることも無かったはずだ。

琉球新報が必死になって封殺しようとした「慶良間の真相」は、皮肉にも、琉球新報自身の「言論封殺」により全国読者の耳目に触れる機会を与えられたことになる。

さらにもう1人、「幻の原稿」に輝きと弾みをつけた功労者の名を忘れてはいけない。

南の島の小さな新聞八重山日報だ。

沖縄の代表的新聞琉球新報に反旗を翻すことは、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」で同じ記者クラブに属する弱小新聞としては、かなり勇気の要ることだ。

さすがの八重山日報も上原さんが琉球新報を提訴した経緯を書いた拙原稿を寄稿したときは、琉球新報社の社名を「R社」と仮名にする気の使いようだった。

だが八重山日報はあえて上原さんという火中の栗を拾った。

八重山日報の決断は、閉塞した沖縄の論壇に風穴を開けたことになる。

八重山日報の勇気ある行動にはいくら賛辞を送って余りあるものがある。

           ☆

 

上原さんの原稿に登場する比嘉(安里)喜順さんは4年前の2008年、94歳の天寿を全うされた。

「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。

ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。

本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。

結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。

昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。(「沖縄県警察史」より)

軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。

平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。

だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。

新任の安里巡査は、

島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。

島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった。

ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。

防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。

小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。

これが「集団自決」問題を複雑にしている。

防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。

手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。

次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
  
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)

軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。

だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。

日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、

「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。

その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
   

■安里巡査を取材していた地元作家■

安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。

勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、

「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。

4年前の2008年、比嘉(旧姓安里)喜順さんは94歳の天寿をまっとうされた。

重要証言者の死

 

「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。

例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。

安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変った。

「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。

これは上原さんの原稿を掲載拒否した琉球新報の言論封殺と軌を一にする。

 

安里巡査を取材した本土新聞記者■

「世界日報」の鴨野記者が安里元巡査を取材した記録がある。

記録保存のため同記事を以下にコピペする。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報 

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」
 

戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。 

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。 

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。 

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。 

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。 

古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏 
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影 

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。 

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。 

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、 

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」 

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。 

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、 

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。 

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。 

その中で赤松氏は 

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。 

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 

これに対して徳嵩氏は 

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」 

などとコメント。 

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。 

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。 

「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。 

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。 

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。 

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。 

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。 

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」 

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて 

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。 

「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」 

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。 

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」 

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。 

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。 

彼は『ある神話の背景』を読み、 

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」 

と率直に吐露。 

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。 

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報 

http://www.worldtimes.co.jp/ HPから日本初の電子新聞が読めます。 2007年 臨時増刊号

 

【おまけ】

石垣市民の読者より「慶良間で名のが起きたのか」⑤の掲載漏れのご指摘と感想文がありましたので、紹介押します。

⑤は昨日掲載したつもりでしたが手違いがありましたので、本日の最終回の前に急遽ふかして置きました。

<毎回、真実のドラマが掲載され、感動的なドラマでした。
上原さんご本人の語り口、僅かな時間ながらを直接知る者です。
「慶良間で何が起きたのか」、石垣島の八重山日報読者は
昨日の⑤稿、そしして本日の最終稿、すべて感動のうちに
読了しました。繰り返して述べますが、
毎回、真実を伝える感動的なドラマでした。


当時の、琉球新報の読者のお気持ち、原稿が中断されたお気持ちが
ほんとによく解りました


石垣島より>

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コメント (3)

金と時間の無駄使い!辺野古新訴訟の議案可決

2019-07-12 06:01:48 | 辺野古訴訟

 

狼魔人日記

 

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勝訴の見込みのない「辺野古訴訟」に県は今回も約700万円の訴訟費用の補正予算を組んだ打。

翁長前知事が法的瑕疵があるとして取り消した辺野古埋め立て承認は最高裁で適法と確定、翁長知事は自分が下した「取り消し」を自ら取り消した。

最高裁確定で、一件落着のはずだが翁長氏の遺志を受け継ぐというデニー知事は、翁長知事が演じた脚本通りの猿芝居を演じ、次々と敗訴の山を築いている。

これまで全戦全敗の国との法廷闘争を見たら、これ以上無駄な経費と時間ロ費やすことは費用対効果を考えれば愚策と言わざるを得ない。

しかし、県議会で与党は粛々と訴訟費用を可決した。

勝つ見込みのない「辺野古訴訟」に血税をつぎ込んでも平気な県民は、太っ腹というか良い面の皮である。

沖縄タイムス三面中段

辺野古抗告同意案を可決

県議会 県、月内にも国を提訴

 

RBCテレビ 2019/07/08 18:31 政治・経済 基地問題

軍特委 辺野古新訴訟の議案可決

 名護市辺野古の埋め立て承認の撤回を国土交通大臣が取り消したことに対し、県が新たな訴訟を提起することについて、県議会の特別委員会は8日、県の提出議案を可決しました。

 普天間基地の辺野古移設をめぐっては、ことし4月、国土交通大臣が県の埋め立て承認撤回を取り消す裁決をし、県はこれを不服として国地方係争処理委員会に審査を申し出ていましたが、先月、委員会は県の申し出を却下しました。

 これを受けて県は大臣の裁決の取り消しを求める抗告訴訟を提起するための議案を県議会に提出していて、8日の米軍基地関係特別委員会で審議が行われました。

 この中で自民党の議員が訴訟の費用対効果や勝訴の見込みを疑問視し県の見解を質したのに対し、県側は新たに生じた軟弱地盤の問題などを論点に承認撤回の正当性を訴えていく考えを説明しました。

 委員会での裁決の結果、訴訟提起に関する議案は、与党の賛成多数で可決されました。

 議案は今月11日の最終本会議で採決が行われ、可決される見通しです。

               ☆

 

1億5000万円以上使うも全敗 沖縄県の辺野古関連訴訟費用が税金の無駄遣いだと議会で問題に 7月中にも国を相手に新たな裁判~ネットの反応「もう完全に弁護士への利益誘導、弁護士利権になってるな」

 

県議会 国提訴議案で紛糾

辺野古の埋め立て承認撤回をめぐって、県は、早ければ7月中にも国を相手に新たな裁判を起こすものとみられています。

県議会では8日提訴に向けた議案が審議されましたが…。
石橋記者は「国を相手に提訴するため、議会の議決が必要な県と、県政野党側の攻防が続いています」とリポートしました。

県議会の米軍基地関係特別委員会では、国が辺野古の埋め立て承認撤回を取り消した決定を不服として、県が、国を相手取り、裁判を起こすための議案が審議されました。
しかし、県政野党の自民党は国を相手にした一連の裁判で、これまで県が勝てていないことを指摘。再び提訴する必要があるのかと追及しました。

自民党の照屋守之県議は「この裁判は、勝つ見込みはどのくらいあるんですか?7〜8割はあるんですか?どうですか?」と質問しました。
これに対し、池田知事公室長は「裁判もしていない段階で結果に言及することは差し控えたいと思います。私どもとにかく、私どもの埋め立て承認の取り消し(=撤回)が、適法であるということをきちんと主張してまいりたい」と話しました。

県の試算では、新たに裁判を起こすのに必要な費用は689万円。辺野古をめぐる一連の裁判では、すでに1億5000万円余りの費用がかかっていることも明らかにされました。
自民党の末松文信県議は「これはもってのほかだと、こんな無駄なことをやる必要があるのかというのが私の意見です」と述べました。

委員会では、採決の結果、賛成多数で可決。本会議最終日の採決で可決されれば、県は7月中にも提訴する見込みです。


https://www.qab.co.jp/news/wp-content/uploads/19-07-08-05.jpg
https://www.qab.co.jp/news/20190708116911.html

 

 

 

名無し
こいつら税金使い放題だから痛くも痒くもないよね
名無し
いくら無駄遣いしても懐傷まないからなあ。
負けた場合、議員の給料から引きますって言えば全員一致でやめるだろうねw
名無し
そんなかかるか?
なんか他に使ってるんじゃねえの?
名無し
無駄金すぎる
名無し
工事の延期でかかる費用はさらに桁違いになってるだろ
名無し
そりゃ弁護士は仕事が無くなったら困るから勝てない訴訟でも原告をノセてやるだろうよ。
この訴訟に勝ち負けは関係ない。
ただ単にパヨク弁護士達が、これ幸いと儲けたいだけだろう。
そうでなければ、わざわざ勝ち目の薄い訴訟なんかしようとは思わないよ。
名無し
もう完全に弁護士への利益誘導、弁護士利権になってるな
名無し
これぱよちん弁護士に分配してるだけでは?
それのいくらかをどっかの党に上納して、更にそれをドンチャン騒ぎしてる連中に配る
永久機関だわ
名無し
まーだやんの?
これ血税から出てるだろ
左翼弁護士に資金を流すためか?
あ?
名無し
最高裁で判決出たのに頭おかしいな
名無し
弁護士とずぶずぶだねえw
コメント (3)