狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

普天間基地、悪いのは誰だ

2010-08-20 08:44:57 | 普天間移設

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普天間基地を反戦平和のイデオロギーとして徹底的に利用しようと目論む勢力にとって、声高に「米軍基地出て行け」と叫ぶ奇妙なことになる。

叫べばば叫ぶほど自家撞着に例は掃いて捨てるほどある。

「世界一危険な小学校」と言われる普天間第二小学校を、安全な場所に移転させる話が持ち上がった時も、真っ先に反対したのも「米軍基地反対」を主張する勢力だった。

奇妙な話だ。

商売道具が移設されては「平和活動」に不利と言うのが反対の理由と言うから、あまりにも正直過ぎて笑いを誘う。

「世界一危険な基地」を移設しようとすると、宜野湾市長が真っ先に反対する。

これも奇妙な話だ。

最近ではメア前米国総領事と伊波宜野湾市長とのやりとりも笑い無くしては聞けないコントの逸品である。

伊波市長:「普天間基地の近くには高い建造物があるが、これは危険だから普天間飛行場の飛行差し止めを要請する」

メア米国総領事:「米軍には、基地の外の建造物の建築許可の権限はない。 危険な場所に危険な建造物の建築許可をしたのは、他ならぬ市長、あなたではないですか」

この後くり返される議論はお決まりの次のようなもの。

「沖縄の土地を銃剣とブルドーザーで奪ったのは米軍ではないか。」

大体、この辺で議論はデッドロックに乗り上げる。

最近、沖縄タイムスの「読者の声」欄が面白いと書いたが、昨日も普天間移設に関連する興味深い「声」が掲載されているので紹介する。

2010年8月19日 沖縄タイムス オピニオン面

普天間第二小学校 造ったのは市

又吉康隆さん=62歳 (読谷村)

米軍嘉手納飛行場でB52爆撃機が墜落大爆発したのが1968年11月19日であった。 島中が戦争の恐怖に陥り、命を守る県民共闘会議が」結成され、その時に反戦の標語として「命(ぬち)どぅ宝」がうたわれるようになった。
米軍基地に対する恐怖が最高潮に達し、基地撤去運動が一番昂揚した時期が1969年であったし、ベトナム戦争の最中であったあのころの米軍基地の騒音や危険性は今の比ではなかった。
ところが、同年に「普天間第二小学校」は開校したのだ。
 普天間第二小学校を作ったのは、米軍ではない。 当時の宜野湾市長と市議会である。 昔、米軍は普天間基地から数百メートル以内は危険地帯として)黙認耕作地にしていた。 宜野湾市は、開放した黙認耕作地に普天間第二小学校や国際大学や住宅をどんどん造っていった。 普天間基地を世界一危険にした責任は、宜野湾市にもある。 アメリカだけを非難するのはおかしい。

筆者註:

★1968年⇒沖縄返還が1972年だからその4年前の米軍統治下の時代。

★黙認耕作地 ⇒     駐留米軍施設内の農耕地。基地内への出入りが比較的自由な場所で、基地内ではあるが住民がそこで農業をするのを黙認していたのが始まり。1959年、高等弁務官布令20号「軍用地の一時使用許可」として正式に米軍が認可。 

最近「普天間基地撤去集会」に集まったプロ市民が普天間基地内の「市民広場」と称する空き地を駐車場に使用しようとして、米軍側に拒否され怒り狂った話は「黙認工作地」を「市民広場」に有効利用した例である。

くり返すが、これも可笑しな話だ。

危険だから出て行けというその基地の中に無料で駐車しようとし、断られたら怒りまくるとは・・・お笑いのネタは尽きない「普天間移設物語」である。

 

沖縄県民としての実感からいえば、又吉さんも指摘するように嘉手納基地のほうが騒音、危険度から言っても普天間基地の比ではない。

その点、普天間基地を政治の道具にする勢力にとって「世界一危険な米軍基地」のイメージ作戦は大成功だと言うことが出来る。

>普天間基地を世界一危険にした責任は、宜野湾市にもある。

宜野湾住民である筆者も分かっているようでいて目からウロコだったのは、上記引用文。

「普天間第二小学校を世界一危険にしたのは普天間基地」と、普通なら言うべきところを、

「(それほど危険でもない)普天間基地を、危険にしたのは宜野湾市・・・なるほど、

又吉さん、鋭い!

 

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【追記】13:12

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コメント (8)