萩さんの話ネタ2

特に何の特徴もない思い付きの話を徒然と・・・
暇な時にでも寄ってやってください。

「ドクロ」の文化史

2016-08-08 12:00:00 | 日記
最近はファッションアイテムとして見かけることも多い「ドクロ」。
そこで、しゃれこうべ・ドクロの文化史について、ご紹介します。
 
記事(2016年8月7日 tenki.jp)によると
 
『古代の人びとは、頭蓋骨を特別なものだと考えていました。
 その表れが「施朱」と呼ばれる、亡くなった人の頭蓋骨を赤い染料で染める習慣です。
 
 日本を含むアジア、中南米、ヨーロッパなどに、施朱の習慣があったことがわかっています。
 赤は、血液の色。赤い色で生気を与え、大切な人の復活を願ったのでしょうか。
 
 「開頭」や「穿頭」も、古代から盛んに行われていました。
 頭の中にいる「悪いもの」を外に追い出すために、頭蓋骨を切開したり、穴を開けたりしたのです。
 さらに、おしゃれ目的(!)で頭蓋骨を変形させる行為も、古代エジプトなどで流行したのだとか。
 
 敵将などの頭蓋骨を磨き上げた「髑髏杯」。
 日本では、織田信長の逸話が有名ですね。
 
 古代から近世に至るまで、世界じゅうでドクロの杯が作られていました。
 戦勝記念のほか、儀式に使われることもあったようです。
 
 サンスクリット語で頭蓋骨を意味する「カファラ(カパラ)」。
 日本語の「瓦」は、このカファラが転じたものです。
 
 また「位牌」の原型も、祖先崇拝でお祀りしていた頭蓋骨だと言われています。
 キリスト教においても、聖人の頭蓋骨などが「聖遺物」として崇められました。
 
 お祭りなどで使われる「仮面」。
 これも、古代からある頭蓋骨崇拝が変化したものだといわれます。
 時代が下るにつれて、図案化した「仮面」が使われるようになっていったのです。
 
 ヨーロッパ各地にある、カタコンベ(地下墓地、納骨堂)を訪れたことがある方も多いでしょう。たくさんの骸骨が「芸術的に」飾られていますよね。
 イエスが十字架にかけられた地「ゴルゴタ」は、ヘブライ語で「ドクロ」を意味するとか。そのためキリスト教美術には、ドクロが描かれたものが多数あります。
 
 有名な「メメント・モリ(死を忘れることなかれ)」は、戦乱やペストの流行などにより、誰もが死と向き合わざるを得なかった中世ヨーロッパで広まった概念。
 やがて「死の舞踏」と呼ばれる、骸骨となった人びとを描いた芸術作品が制作されるようになりました。
 
 テレビや映画でよく取り上げられる、メキシコの「死者の日」。
 街は、骸骨の仮装をした人だらけ。売られているおもちゃも、砂糖菓子も、ドクロのモチーフです。
 
 現代に生きる私たちより、昔の人びとはドクロを目にする機会が多く、自然に作品に取り入れたのかもしれません。
 美術館や博物館、映画鑑賞……「ドクロ」の意味に注目してのアート散策はいかがでしょうか?』
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月曜日・・・雑記

2016-08-08 01:00:00 | 日記
夏の甲子園が開幕しましたね。
今年で98回を迎える伝統ある大会、これだけの歴史を積み重ねてきただけあって、数え切れないほどの驚きのエピソードが隠されているとか。
高校野球がさらにおもしろくなる不思議な話をご紹介します。
 
記事(2016年8月6日 tenki.jp)によると
 
『最後に頂点に立つのはたった1校。
 その1校を除いた出場校は必ず負けを経験することになります。
 敗戦校の姿で思い出されるのが甲子園の土を持ち帰る光景でしょう。
 数多くの球児たちが最後の夏の思い出として甲子園の土を持って帰ります。
 
 では、一体甲子園の土を最初に持ち帰ったのはどの高校の誰なのでしょうか?
 これには諸説ありますが、有力なのは1949年大会のとある高校のエピソードです。
 この大会で圧倒的な優勝候補として筆頭にあげられていたのが福岡県の小倉北高校でした。
 小倉北のエース、福島一雄投手はなんと5試合連続完封という驚きの記録を残しており、群を抜いた強さを見せていました。
 しかし、準々決勝で肩を痛めた福島投手は無念の途中降板。
 チームもサヨナラ負けを喫し、福島投手の夏は幕を閉じました。
 
 このとき、福島投手はホームベースのところでしゃがみ込み、おもむろに甲子園の土をユニフォームのズボンのポケットに入れたといいます。その当時、甲子園を沸かせた福島投手が土を持ち帰ったことから、その後の高校球児に広まったのではないかといわれています。
 
 高校野球といえば、絶対に負けられないトーナメント戦が当たり前ですが、かつて「敗者復活戦」があったことをご存じでしょうか?
 さかのぼること、1916年、17年の2大会だけではありましたが、そんな不思議な制度があったのです。
 1916年というと第2回大会ということもあり、大会ルールも模索中だったこともあるでしょう。
 この頃、参加チームはわずか12校だけという少なさでした。
 
 12校の場合、1回戦を勝ち抜くと6校に、2回戦を勝ち抜くとこの時点でわずか3校に絞られてしまいます。
 3回戦で3校では、その後の戦い方も難しくなります。
 そのため、1回戦を勝ち抜いた6校に加え、すでに敗れた2校が復活し、8校で2回戦を行ったのです。
 この復活校は1回戦で成績がよかったチームが選ばれたといいます。
 
 しかし、同じ大会ルールで行われた翌年1917年の大会で問題が発生したのです。
 1回戦で敗退した愛知県立第一中学校がその後の試合を勝ち進み、なんと優勝してしまったのです!
 ルールとはいえ、一度負けたチームが優勝してしまうことに異議を唱えた人はたくさんいました。
 わずか2大会の適用で消えてしまった驚きのルールでした。
 
 夏の甲子園で優勝経験がない都道府県は20あります。
 やはり、甲子園で優勝するということは、とても大変なこと。
 大阪、神奈川、愛知など優勝常連校が集まる都道府県もありますが、最後の1勝ができず悲願達成を待ちわびるところもたくさん。
 
 東北勢に深紅の優勝旗がないというのは、高校野球ファンの間では有名な話ですが、実はその他にも意外な県が優勝経験がないのです。
 それが「埼玉県」です。
 関東の高校といえば、全国から有力な選手がやってくることもあり、強豪校が多く埼玉県も例外ではありません。
 しかし、関東で唯一、優勝がないのが埼玉県というのはなんとも意外ですね。』
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