月曜2限の2年生向け科目「現代社会と安全」。今日のテーマは放射線被ばくの基礎知識。
現代社会を安全・安心に生きていくために、賢い一般人に求められる放射線被ばくの基礎知識は、
どのようなものか、という話をする。
(ちなみに。関係者には常識であるが、被ばくには、被曝の字(放射線にさらされるの意)と、
被爆の字(原爆・水爆の爆発にさらされるの意)、同じ音だが2つの字がある。
この文脈では被曝の字を使うのが正しいのだが、ここでは被ばくとひらがな表記とする。)
と言っても……。
大学に奉職する身でありながら、また「現代社会と安全」というコマを担当して何年にもなろうという身ながら、
こと放射性被ばくについては、情けないほど知識・情報が追い付いていない。
手元には、「この本を日本語で読める僥倖」とまで言われたジョン・W・ゴフマンの
『新装版 人間と放射線:医療用X線から原発まで』(明石書店、2011年)はある。
細見周『熊取六人組:反原発を貫く研究者たち』(岩波書店、2013年)もある。
1994年6月、53歳でお亡くなりになられた「熊取六人組」の一人、瀬尾健が病床でまとめた
『原発事故:その時、あなたは!』(風媒社、1995年)は、刊行されてそう間もない時期に購入している。
東日本大震災後に小出裕章が書かれた本は、多分全部持っている。
それでも、情けないほど、斜め読み&積読のレベルに留まっている。
今の時代に、防災・危機管理を学び教える者としては、本当に恥ずべきこと。
BqからSvへの換算は「ネット上にある換算サイトにお任せすれば事足りる」と言い、
松竹梅ではないが、
「細かいことを気にしない派」は初期の暫定基準値である500Bq/kg以下を目安に、
「まあまぁ慎重派」は年間1mSvとして50Bq/kg以下を目安に、
「リスクを最小限派」は年間0.5mSv、5Bq/kg以下に、
(鈴木みそ『僕と日本が震えた日』(リュウコミックス、2012年)136頁より)
のレベルで、学生に話をしている。
毎年この時期、放射線被ばくについて学生に語っているのだが、このレベルで本当に良いのか、
自問自答するばかり。
「熊取六人組」の一人、今中哲二は、復刊されたゴフマン『人間と放射線』の冒頭、
序文「放射能汚染と向き合う時代に-『人間と放射線』の復刊にあたって」の中で以下のように述べている。
福島第1原発事故によって私たちは「放射能汚染と向きあう時代」に入ったと思っている。
言い方を変えるなら、日本の国土のかなりの部分が放射能汚染を受けてしまった以上、
「どこまでの汚染を受け入れるのか」、「どこまで被曝を我慢するのか」と
問いながら生きていかざるを得ない。
そのように私が言うのは簡単であるが、
一般の人々にとって“ベクレル”や“シーベルト”を理解し、
“被曝のリスク”を自らで考え、“どこまで我慢するか”自ら判断するのは容易なことではない。
ゴフマンのこの本は、そうした一般の人々が、放射能汚染と放射線被曝、
それにともなう健康影響リスクを“自分で考える”ことができるようになるために書かれた本である。
800頁近い大著を一般の人々が読むか、という当然の疑問はあろう。
とすれば、「旅の坊主」のような者が、しっかりとした通訳者にならなくてはならない、のだろうが、
それにしても、読めば読むだけ、己の理解力の浅さが情けなく思われてならない。
リスクと共生する術を学ばせてナンボのこの職業。
放射線被ばくについても、しっかりとした基礎知識を伝えられてナンボ、なのだが、
学生の顔を見ていると、「腑に落ちた」顔付きの者がどれほどもいない……。
放射線被ばくの基礎知識は、この時代を安全・安心に暮らすための基礎知識、なのだが……。
大学教員と学生の間には、「教えずの罪」と「学ばずの罪」がある。
これについては「教えずの罪」とまでひどくはないと思うが、
「うまく教えていない罪」を問われたら、言い逃れることは出来ないな、と。
現代社会を安全・安心に生きていくために、賢い一般人に求められる放射線被ばくの基礎知識は、
どのようなものか、という話をする。
(ちなみに。関係者には常識であるが、被ばくには、被曝の字(放射線にさらされるの意)と、
被爆の字(原爆・水爆の爆発にさらされるの意)、同じ音だが2つの字がある。
この文脈では被曝の字を使うのが正しいのだが、ここでは被ばくとひらがな表記とする。)
と言っても……。
大学に奉職する身でありながら、また「現代社会と安全」というコマを担当して何年にもなろうという身ながら、
こと放射性被ばくについては、情けないほど知識・情報が追い付いていない。
手元には、「この本を日本語で読める僥倖」とまで言われたジョン・W・ゴフマンの
『新装版 人間と放射線:医療用X線から原発まで』(明石書店、2011年)はある。
細見周『熊取六人組:反原発を貫く研究者たち』(岩波書店、2013年)もある。
1994年6月、53歳でお亡くなりになられた「熊取六人組」の一人、瀬尾健が病床でまとめた
『原発事故:その時、あなたは!』(風媒社、1995年)は、刊行されてそう間もない時期に購入している。
東日本大震災後に小出裕章が書かれた本は、多分全部持っている。
それでも、情けないほど、斜め読み&積読のレベルに留まっている。
今の時代に、防災・危機管理を学び教える者としては、本当に恥ずべきこと。
BqからSvへの換算は「ネット上にある換算サイトにお任せすれば事足りる」と言い、
松竹梅ではないが、
「細かいことを気にしない派」は初期の暫定基準値である500Bq/kg以下を目安に、
「まあまぁ慎重派」は年間1mSvとして50Bq/kg以下を目安に、
「リスクを最小限派」は年間0.5mSv、5Bq/kg以下に、
(鈴木みそ『僕と日本が震えた日』(リュウコミックス、2012年)136頁より)
のレベルで、学生に話をしている。
毎年この時期、放射線被ばくについて学生に語っているのだが、このレベルで本当に良いのか、
自問自答するばかり。
「熊取六人組」の一人、今中哲二は、復刊されたゴフマン『人間と放射線』の冒頭、
序文「放射能汚染と向き合う時代に-『人間と放射線』の復刊にあたって」の中で以下のように述べている。
福島第1原発事故によって私たちは「放射能汚染と向きあう時代」に入ったと思っている。
言い方を変えるなら、日本の国土のかなりの部分が放射能汚染を受けてしまった以上、
「どこまでの汚染を受け入れるのか」、「どこまで被曝を我慢するのか」と
問いながら生きていかざるを得ない。
そのように私が言うのは簡単であるが、
一般の人々にとって“ベクレル”や“シーベルト”を理解し、
“被曝のリスク”を自らで考え、“どこまで我慢するか”自ら判断するのは容易なことではない。
ゴフマンのこの本は、そうした一般の人々が、放射能汚染と放射線被曝、
それにともなう健康影響リスクを“自分で考える”ことができるようになるために書かれた本である。
800頁近い大著を一般の人々が読むか、という当然の疑問はあろう。
とすれば、「旅の坊主」のような者が、しっかりとした通訳者にならなくてはならない、のだろうが、
それにしても、読めば読むだけ、己の理解力の浅さが情けなく思われてならない。
リスクと共生する術を学ばせてナンボのこの職業。
放射線被ばくについても、しっかりとした基礎知識を伝えられてナンボ、なのだが、
学生の顔を見ていると、「腑に落ちた」顔付きの者がどれほどもいない……。
放射線被ばくの基礎知識は、この時代を安全・安心に暮らすための基礎知識、なのだが……。
大学教員と学生の間には、「教えずの罪」と「学ばずの罪」がある。
これについては「教えずの罪」とまでひどくはないと思うが、
「うまく教えていない罪」を問われたら、言い逃れることは出来ないな、と。