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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

井光神社

2016-07-11 10:31:00 | 名草戸畔・神武東征

 

<井光神社 いかりじんじゃ>

 

奈良県川上村の中心部から、

さらに深い山を分け入ったところに、

「井光(いかり)」という小さな集落があります。

こちらは、神武一行が吉野の山中で出会った、

「井氷鹿(ゐひか)」という 国津神が住んでいた場所といわれ、

集落の中にはこの祖先神をお祀りした

井光神社(いかりじんじゃ)がありました。

 

記紀の中では、神武天皇が井氷鹿と遭遇したときの様子を、

「尾生ふる人、井より出で来。その井光有り」 と書いておりますが、

一般的にこの内容は、 木こりなどが尻当てを垂らしている姿を見て、

「尾」と表現したのではないかといわれています。

また、井戸や身体が光っていたという記述は、

水銀採掘との関連を指し示す説が有力です。


阿多隼人の拠点

2016-07-10 10:18:33 | 名草戸畔・神武東征

<阿陀比賣神社 あだひめじんじゃ>

 

阿陀比賣神社にお祀りされている

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女神は、

山の神であり国津神系に属する

「大山祇神(おおやまつみのかみ)」 の娘だといわれています。

ただ一説によりますとこの神は、 山の神の子どもなどではなく、

山の神からの神託を得る役目についていたのだとか。

別名を神阿多津姫(かむあたつひめ)といい、

阿多隼人(あたはやと)の祖先でもあります。

 

阿陀比賣神社がある奈良県五條市のあたりは、

南九州から神武天皇の東征に随伴した、

阿多隼人(あたはやと)の拠点でした。

山神の系統を引く木花咲耶姫という女神は、

実は海人族とも深いつながりがあったのですね。

海から遠く離れている奈良という場所には、

なぜかたくさんの「海」の痕跡が見られます。

それらはきっと、海人族の血を引く神武天皇が、

この地に刻んだ複雑な歴史の記録でもあるのでしょう。


吉野の川尻

2016-07-09 10:04:06 | 名草戸畔・神武東征

<吉野川 よしのがわ>

 

古事記の内容に従いますと、八咫烏の導きにより、

神武一行が吉野川の流域で最初に出会ったのが、

「贄持之子(にへもつのこ)」という国津神でした。

実は吉野川という名称は、奈良県五條市のあたりで、

紀の川という名前に変わるのですが、

この吉野川と紀の川の境目付近を「吉野の川尻」と呼び、

神武一行はここで贄持之子に対面したといわれています。

 

現在この付近には、「あだ」という地名が残り、

阿陀の養鸕(うかい)部の祖でもある

贄持之子の伝承を今に伝えています。

また、贄持之子の子孫である鵜飼家は、

神武天皇の長兄・五瀬命をお祀りする、

名草の竈山神社の神主を世襲していたのだとか。

阿多隼人の居住地だったことから考えても、

南部九州や海人族とのつながりが見えてきます。

 

【参考文献】
神武東征の現像~宝賀寿男


三人の国津神

2016-07-08 10:03:44 | 名草戸畔・神武東征

<井光川河口 いかりがわかこう>

 

神武東征の物語の中で、八咫烏が登場したあたりから、

古事記と日本書紀とでは、行程にズレが出てきます。

ただ、どちらの史書にも共通して登場するのが、

「贄持之子(にへもつのこ)」「井氷鹿(ゐひか)」

「石押分之子(いはおしわくのこ)」という三人の国津神。

いずれも吉野の山中で神武一行が出会い、

自ら神武天皇に従う意思を示した人たちです。

 

三人と出会った場所はそれぞれ、

「贄持之子」が五條市北部、 「井氷鹿」が川上村の井光、

「石押分之子」が吉野町の国栖 だといわれていますが、

その前後の記紀のルートに照らし合わせると、

どことなく違和感を覚えるのも確かです。

実際に三か所の伝承地を巡ってみても、

次の目的地である宇陀に出るには、

少々遠回りをしなければなりませんでした。

神武一行の熊野・吉野越えの行程に関して、

様々な説がささやかれているのも、

こうした史実の不自然さを、

多くの人が感じるからなのでしょう。

 

【参考文献】

「海道東征」をゆく~産経新聞社


国津神の演出

2016-07-07 10:51:03 | 名草戸畔・神武東征

<玉置神社 たまきじんじゃ>

 

熊野三山のシンボルでもある八咫烏は、

「熊野権現(スサノオ)」のお使いであり、

熊野三山の奥の院・玉置神社を本拠地とする、

国常立太神(くにとこたちおおかみ)という、

国津神の祖神と深く関わっています。

 

記紀の中では、天照太御神など高天原の神々が、

要所、要所で神武一行を補佐しますが、

実は神武天皇を熊野へと導いたのは国津神で、

神武東征という物語は国津神が主導する、

国津神から天津神への交代劇でもありました。

 

ちなみに、熊野の人たちにとって八咫烏は、

今でも「熊野の神の使者」だそうです。

神武天皇を助けるために八咫烏を送ったのも、

もしかすると「敵役」だと思われていた、

国津神の演出だったのかもしれませんね。


八咫烏の登場

2016-07-06 12:50:01 | 名草戸畔・神武東征

<八咫烏神社 やたからすじんじゃ>

 

海人族などの支援を受け、熊野の荒ぶる神々を倒し、

さらに熊野の山中へと歩を進めた神武一行ですが、

途中で道を見失い立往生してしまいます。

そのとき、夢にあらわれた天照太御神

(古事記では高木大神)のお告げの中で、

道案内の使者が使わされることを知った神武天皇は、

八咫烏(やたからす)と呼ばれる案内人の導きにより、

無事熊野の山を踏破することができました。

 

八咫烏というとまず思い出すのは、

日本サッカー協会のシンボルに採用された、

三本足のカラスのイラストですね。

実はこの八咫烏と呼ばれる使者は、

神武天皇に先立ち熊野へと潜入していた、

渡来系の先発部隊だったといわれています。

のちにこの一族は山城の賀茂氏として、

京都の上賀茂・下鴨神社の創建に関わり、

現在も皇室の祭事を陰で仕切っています。


海に関わる氏族

2016-07-05 13:31:31 | 名草戸畔・神武東征

 

<那智の浜 なちのはま>

 

神社の記事を書いておりますと、

たびたび「海人族」という存在に突き当たります。

今回の旅のテーマでもある神武天皇は、

海神を母親に持つ海とゆかりの深い人物。

幾多の困難を経てヤマトにたどり着けたのも、

各地の「海人族」の支援があったからなのでしょう。

 

神武天皇が熊野の山中で命の危機に瀕したとき、

窮地を救ったのは同じ海人族の血を引く高倉下でした。

そして、のちに登場する八咫烏も、

実は神武天皇に先立ち熊野に潜入していた、

海人族と関わる人たちだといわれています。

 

熊野という国津神の聖地を踏破した背景には、

長い時間をかけて土着民との融合を果たした、

海人族の活躍があったからなのかもしれません。


熊野の海人族

2016-07-04 22:46:46 | 名草戸畔・神武東征

<高座結御子神社 たかくらむすびみこじんじゃ>

 

「深山」のイメージが強い熊野地方ですが、

古くから熊野の山中には、海人族が定住しており、

早い時期にヤマトへの経路が開かれていたそうです。

神武東征の神話の中でも、

ひときわ象徴的な場面に登場する高倉下は、

海人族とのつながりが深い人物であり、

熊野の女首長である丹敷戸畔だけでなく、

和歌山の女首長・名草戸畔などとも、

浅からぬ縁を持っていたのでしょう。

 

仮に名草戸畔や丹敷戸畔が、

神武一行との戦いに敗れていなかったとすれば、

その一部始終を知る高倉下の存在は、

朝廷にとって非常に疎ましかったはずです。

名草戸畔や丹敷戸畔、そして高倉下の逸話が、

記紀の中ではほとんど追及されていないのも、

複雑な裏事情があったからなのかもしれません。


取次ぎ役

2016-07-03 10:57:47 | 名草戸畔・神武東征

<弥彦山 やひこやま>

 

高倉下(たかくらじ)に関しては、

以前の記事でも何度か触れましたが、

神武天皇の危機を救った功績を考えると、

その後の処遇はあまりよいとはいえません。

物部氏や尾張氏と深い関わりを持つ高倉下は、

のちに天香山命(あめのかぐやまのみこと)と名をかえ、

都から遠く離れた越後国へと派遣されてしまいます。

 

神武一族だけでなく、海人族や山師(やまし)

との縁も強かった高倉下という人物は、

その幅広い人脈を買われ、

天孫族と地元民との取次ぎを任されていたのでしょう。

ゆえに、双方の事情と弱みを知る高倉下という存在が、

朝廷側としては次第に重荷になったとも考えられます。


高倉下の登場

2016-07-02 10:53:32 | 名草戸畔・神武東征

<神倉神社 かみくらじんじゃ>

 

熊野の荒坂の津で、

丹敷戸畔(にしきとべ)に対峙した前後、

ある説では、熊野川河口の和歌山県新宮市、

ある説では、吉野川へと続く三重県熊野市あたりから、

神武天皇は山中へと足を踏み入れたといわれます。

 

ただ、険しい山道を進みはじめて間もなく、

神武一行はバタバタと気を失ってしまいました。

記紀の中では、「神」あるいは「熊」の毒気

に当てられたと書かれているこの部分は、

丹敷戸畔との戦いの様子や、

水銀の毒にやられた様子をあらわしているのだとか。

 

そのとき、どこからともなく現れたのは、

熊野の住民・高倉下(たかくらじ)でした。

高倉下は、天照太御神から授かった神剣を携え、

神武天皇を命の危機から救った人物です。

その際使用した剣・布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)は、

現在も石上神宮と鹿島神宮(二代目)に保管されています。


丹生の一帯

2016-07-01 10:41:11 | 名草戸畔・神武東征

 

<忍阪・玉津島明神 おつさか・たまつしまみょうじん>

 

名草戸畔(なぐさとべ)と同様、

丹敷戸畔(にしきとべ)に関しても、

その出自等は闇に包まれています。

ただ、ある説によれば丹敷戸畔は、

丹生都比売(にうつひめ)であり、

その本拠地は丹生都比売神社のある、

紀の川流域だった可能性が高いのだとか。

 

ゆえに、神武天皇は熊野の険しい山は通らず、

紀の川を遡ってヤマトに入ったという説も、

歴史マニア間では根強く支持されております。

 

熊野灘沿岸や吉野までの道中に、

数多くの神武伝説が残ることから考えると、

どちらの説が正しいのかは断定できませんが、

「丹」の名を持つ丹敷戸畔が、

丹生つまり熊野一帯の

豊富な水銀鉱脈を支配していた

人物だったことは確かなのでしょう。


丹敷戸畔

2016-06-30 10:38:11 | 名草戸畔・神武東征

<熊野三所大神社 くまのさんしょおおみわやしろ>

 

那智の補陀落山寺というお寺の隣に、

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)

という 熊野詣の拠点としても知られる小さな神社があります。

こちらには丹敷戸畔(にしきとべ)の存在を示す、

数少ない痕跡が残されており、

境内には神武天皇の碑も建てられていました。

 

那智の駅からまっすぐに続く参道を神社の本殿まで進むと、

向かって右側に、丹敷戸畔をお祀りした祠があります。

もともとは、地主神としてお社に祀っていたそうですが、

神武天皇に配慮をして石の祠に変えたという話を聞きました。


丹敷浦の女首長

2016-06-29 10:33:49 | 名草戸畔・神武東征

七里御浜 しちりみはま>

 

神武天皇が上陸したとされる、

熊野の荒坂(あらさか)の津は、

別名「丹敷浦(にしきのうら)」とも呼ぶそうです。

神武一行は和歌山市付近で名草戸畔と対峙した後、

紀伊半島を船で迂回して熊野灘に上陸し、

そこで「丹敷戸畔(にしきとべ)」 という人物を討伐しました。

 

戸畔(とべ)というのは女首長のことで、

名草戸畔と同様、その一帯を統治していた、

地元豪族のリーダーだったのでしょう。

ただ、丹敷戸畔も名草戸畔と同じように、

くわしい言い伝えが残されておらず、

その存在は謎に包まれています。


二木島での海難

2016-06-28 10:27:47 | 名草戸畔・神武東征

<阿古師神社 あこしじんじゃ>

 

神武天皇が名草での戦いの後、

紀伊半島を大きく南に迂回し、

再度上陸したのは熊野灘のあたりでした。

ただ、実際にたどり着いた地点ははっきりとせず、

伝承を残す熊野灘沿いのいくつかの地区が、

「こここそが上陸地だ」と名乗りを上げております。

 

三重県熊野市二木島もその候補地のひとつで、

こちらには海難事故で亡くなった神武の二人の兄、

稲飯命(いなひのみこと)と

三毛入野命(みけいりののみこと)

をお祀りする二つの神社があります。

 

神武の兄たちが遭難した際、

二木島の民は嵐の海に船を漕ぎ出して、

救助に向かったといわれており、

現在もその伝承に基づたお祭りが、

脈々と引き継がれているそうです。

 

【参考文献】

ヤマト王権 幻視行 ~桐村栄一郎


荒坂の津

2016-06-27 10:23:32 | 名草戸畔・神武東征

<鬼ヶ城 おにがじょう>

 

2月に和歌山を旅した折、

「名草戸畔」に関わる神社を巡ってきました。

* 詳しくは名草戸畔のカテゴリーを参照

 

名草戸畔(なぐさとべ)と申しますのは、

神武東征の伝承の中で登場する、

「名草地方の女首長」のことでして、

生駒山で長髄彦(ながすねひこ)軍

との戦いに敗れた神武天皇が、

和歌山の紀の川付近へと迂回したとき、

名草山の周辺で神武軍との死闘を

繰り広げた人物といわれています。

 

その後、名草戸畔との戦いに勝利?した神武天皇は、

長兄である五瀬命(いつせのみこと)の遺言に従い、

紀伊半島をさらに南下して熊野灘へと向かいました。

しかしその道中、度重なる嵐や暴風などにより、

神武軍は残る二人の兄も失ってしまいます。

 

海路を閉ざされた神武天皇が、船を捨てて

上陸した場所は熊野の荒坂(あらさか)の津。

現在の三重県熊野市の「大泊(おおどまり)」

付近ではないかといわれています。