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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

心の内

2016-07-26 10:22:09 | 名草戸畔・神武東征

<熊野市 くまのし>

 

奈良(熊野・吉野)の山中というのは、

現在の交通手段に頼ったとしても、

諸々の覚悟が必要なエリアです。

 

今回旅の途中で、幾度となく熊野灘から、

奈良方面の山々を見上げてみたのですが、

降水量の多さでも知られるそれらの場所は、

常にうっすらと靄がかかり、

山中へと続く国道はもちろん、

山の形さえはっきりとは確認できませんでした。

 

神武天皇がこの場所で、

眼前に迫る山々に相対したとき、

どんな感想を抱いたのでしょうか。

日本の歴史が始まる遥か以前から、

この地に根づく山々の大木だけが、

その心の内を知っているのかもしれません。


最終目的地

2016-07-25 10:13:37 | 名草戸畔・神武東征

<大神神社 おおみわじんじゃ>

 

争いをせずに神武側に下った

弟磯城(おとしき)の進言もあり、

兄磯城(えしき)を倒した神武一行は、

いよいよ最終目的地である、

奈良盆地へと軍を進めました。

ここからは、生駒山で死闘を繰り広げた

長髄彦(ながすねひこ)が支配する地域です。

 

ちなみに今回の旅では、日程の関係で、

長髄彦関連の神社は回れなかったのですが、

奈良・大阪周辺には、所縁の場所が点在し、

長髄彦びいきの歴史ファンも大勢います。

長髄彦と神武東征の仕上げに関しては、

改めてそれらの軌跡を巡った上で、

記事に書き綴ってみるつもりです。


兄弟間の争い

2016-07-24 10:13:24 | 名草戸畔・神武東征

<墨坂神社 すみさかじんじゃ>

 

忍阪にて難敵を打ち破った神武天皇は、

奈良盆地を目の前にまたしても、

兄磯城(えしき)弟磯城(おとしき)という、

手ごわい兄弟と相対することになります。

そのため、まずは八咫烏を使者として送り、

神武側への帰順を呼びかけたのですが、

弟磯城が恭順の意思を示す一方で、

兄磯城は頑なに応じませんでした。

 

宇陀の争いの場面で登場した、

兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)と同様、

この場面においても兄弟間・同族間で、

神武天皇に対する態度が分かれています。

これは、同じ土着の住民同士であっても、

従う者と抵抗する者がいたという意味で、

「天津神」と「国津神」とを、

明確に線引きできない理由にもつながります。


饗宴の跡

2016-07-23 10:30:59 | 名草戸畔・神武東征

神籠石 じんごいし・ちごいし>

 

天津神・国津神の力を得た神武一行は、

国見丘にて敵の主力部隊を打ち破ったのち、

残る八十梟帥(やそたける)を討つために、

あれこれと策略を巡らせます。

そして家臣の道臣命が八十梟帥を誘い出し、

酒でもてなすなどして油断させたところで、

一気に攻撃を仕掛ける作戦を取りました。

 

その結果、八十梟帥の大部分は壊滅し、

神武天皇の状況は俄然有利になります。

奈良盆地の東端・桜井市の忍阪には、

神籠石と呼ばれる大きな岩があり、

このときの饗宴が開かれた場所だ、

という言い伝えが残っています。


祈誓

2016-07-22 10:28:57 | 名草戸畔・神武東征

<夢渕 ゆめぶち>

 

神武東征の舞台が宇陀の地に移ってから、

幾度となく神武天皇が、祈誓(うけい)

つまり占いをする場面が登場します。

それまでも吉凶の判断をしたり、

神託が降りたりしたことはありましたが、

宇陀の件では、具体的な儀式の内容まで、

史書にこと細かく記載されています。

 

ヤマトの象徴である天香久山の土で、

祭祀用の土器を作るということは、

ヤマトの神々を味方につけた証です。

そしてそれら土器を丹生の川に沈め、

国津神の神威を遷すことで、

天津神・国津神両方の力を得たことを、

知らしめたかったのでしょう。


呪詛の儀式

2016-07-21 10:24:55 | 名草戸畔・神武東征

<東吉野村 ひがしよしのむら>

 

兄猾(えうかし)を討ち、弟猾(おとうかし)を

仲間に引き入れた神武一行ですが、

宇陀の高倉山に登り奈良盆地を見渡すと、

「八十梟帥(やそたける)」と称される

地元の豪族たちが、そこかしこに陣を張り、

ヤマトへの道をすべて封鎖していることがわかりました。

 

思案した神武天皇はある晩、神に祈りながら

眠りについたところ、夢の中に天津の神があらわれ、

「天香久山にある社の土を取り、

天の平瓮(ひらか) 80枚と厳瓮(いつへ)をつくり、

天津神・国津神を敬い祭り、潔斎し呪いの儀式行えば、

賊は自ら平伏するだろう」と告げます。

 

そこで椎根津彦(しいつねひこ)と弟猾に変装をさせて、

八十梟帥らの軍勢を欺き、天香久山の土を持ち帰らせると、

早速神武天皇は、丹生川の川上で呪詛の儀式を執り行いました。

 

【参考サイト】

日本神話.com


重要な地点

2016-07-20 10:22:03 | 名草戸畔・神武東征

<八咫烏神社 やたからすじんじゃ>

 

神武東征の物語において、

宇陀から榛原にかけての地域は、

その後の戦の勝敗のカギを握る重要地点でした。

仮に、神武一行が奈良の山中を通らず、

紀の川を遡るルートを選んだとしても、

平野に踏み込む前の拠点となるのは、

やはりこの宇陀の地でして、

日本書紀の中では、宇陀を拠点に、

奈良の山々を往復するような記述も見られます。

 

実際に宇陀の地を訪れてみますと、

標高の割には山が深くなく、近くの丘に立っただけでも、

周囲をよく見渡せることがわかります。

もし敵が攻めてきたとしても、

その動きを事前に察知しやすい上に、

味方の多い国栖方面にも、

容易に退避することが可能だったのでしょう。


道臣命

2016-07-19 10:19:15 | 名草戸畔・神武東征

<天道根神社 あめのみちねじんじゃ>

 

宇陀の地で兄猾(えうかし)を討伐したのは、

のちの大伴氏と久米氏の祖となる、

神武天皇の二人の家臣でした。

このうちのひとり、大伴氏の祖である

「道臣命(みちのおみのみこと)は、

名草戸畔との戦い後、神武側の家来となった

名草出身の人物です。

 

大伴氏(おおともし・おおともうじ)といえば、

ヤマト朝廷の軍事部門を担った有力豪族ですが、

名草に近い紀の川沿いの地理だけでなく、

熊野山中の地理にも詳しかったという話があります。

神武天皇が敵方である大伴氏を味方につけたのも、

熊野攻略のための重要な策だったのかもしれません。


水銀鉱脈の支配

2016-07-18 10:14:12 | 名草戸畔・神武東征

菟田野地区 うたのちく>

 

兄猾(えうかし)が斬られた宇陀の血原は、

ヤマトの水銀鉱脈が集中する

国内最大級の水銀朱の産地でした。

血原(ちはら)という名称の語源も、

朱の色に由来するといわれており、

神武天皇が兄猾を討伐した経緯にも、

豊富な水銀資源を獲得したいという

思惑があったからなのでしょう。

 

紀伊半島に上陸してからの神武東征の物語は、

天孫族が水銀鉱脈を支配する過程を

あらわしているといわれています。

ただ、水銀鉱脈を効率よく抑えるのであれば、

わざわざ険しい熊野・吉野の山中を通るより、

紀の川を遡ってきたほうが自然です。

 

すでに友好関係を築いていた山の民を、

「国津神」として史実に登場させ、

さらには恭順を示す場面を強調したのも、

水銀獲得という現実的な目的の裏に、

「国津神の了解」という見えざる暗示が、

潜んでいるからなのかもしれません。


宇陀の戦

2016-07-17 11:00:31 | 名草戸畔・神武東征

<宇賀神社 うがじんじゃ>

 

高倉下・八咫烏・三人の国津神などの協力を得て、

神武一行はようやく最初の目的地である

宇陀へと到着することができました。

しかし深い吉野の山から 平野を望む場所に出たところで、

再び神武天皇は戦闘へと追い込まれます。

 

宇陀の地で出会ったのは、

兄猾(えうかし)弟猾(おとうかし)という兄弟。

弟猾が神武天皇への忠誠を誓う一方、

兄猾は神武天皇の謀反を試みた結果、

逆に自分の仕掛けた罠にはまり亡くなりました。

 

宇陀市の菟田野区宇賀志にある宇賀神社は、

兄猾の邸宅があったとされる場所の近くに建てられています。

神社の入り口付近では、兄猾討伐の痕跡である

「血原」と書かれた立て看板を見つけました。


土着民の協力

2016-07-16 10:15:19 | 名草戸畔・神武東征

<井光川沿い いかりがわぞい>

 

和歌山県の名草や荒坂など海沿いの地域で、

土着豪族との戦を強いられた状況とは異なり、

熊野・吉野の山中で神武天皇が対峙したのは、

水銀や悪路などの大自然の驚異でした。

逆に考えるとこれは、 神武天皇がこの地に到着する以前に、

部下や縁者が土着民の協力を取り付け、

人間同士の争いを回避できたことを示します。

 

神武天皇が何よりも重視したのは、

この地を守る民を味方につけること。

そして熊野・吉野を本拠地とする

国常立太神(くにとこたちおおかみ)に、

日本統治の許可を得ることでした。

それが紀伊半島を不自然に迂回した神武東征の物語を、

史書に書き記した大きな理由だったのかもしれません。


潜伏伝説の残る地

2016-07-15 10:03:29 | 名草戸畔・神武東征

<南国栖地区 みなみくずちく>

 

古くから吉野という場所は、

都の闘争から逃れた有力者たちが、

身を隠すために真っ先に訪れる

「隠れ家」的な引力を持っていました。

国栖近辺には大海人皇子をはじめとする

数々の「潜伏伝説」が残っていますが、

もしかするとそれは、遥か昔にこの土地を訪れた、

神武天皇の軌跡があったからなのかもしれません。

 

大海人皇子はその名のとおり、

海人族と深いつながりがある人物です。

その大海人皇子が、山祇族(やまつみぞく)

の拠点でもある国栖に潜伏できたのは、

さらに昔、海神を母に持つ神武天皇らが、

長い時間をかけて吉野の山の民と交流し、

国栖の長・石押分之子(いはおしわくのこ)を

味方につけることができたからなのでしょう。


国栖の山祇族

2016-07-14 10:02:31 | 名草戸畔・神武東征

<国栖地区 くずちく>

 

神武天皇が石押分之子(いはおしわくのこ)

という国津神に出会ったのは、

吉野の国栖(くず)という場所でした。

国栖という言葉を聞いて思い浮かぶのは、

土蜘蛛や八束脛といった先住の縄文人です。

井氷鹿と同様に「尾生ふる」と 書かれていることから、

採集生活をする穴居生活者だったと考えられます。

 

一口に国津神と申しましても、

国津神の代表格であるスサノオが、

天津神のひとりとしても認識されるように、

海人族の流れが強い国津神と、

山祇族の流れが強い国津神とがあるのでしょう。

国栖に居住していた石押分之子という人物は、

贄持之子や井氷鹿と比べると、

山祇族の要素が強かったともいわれています。


壮大な旅の過程

2016-07-13 10:36:21 | 名草戸畔・神武東征

<井光地区 いかりちく>

 

井氷鹿(いびか)という国津神は、

「吉野首(よしのおびと)部」の祖であり、

熊野の荒坂の津で神武一行の窮地を救った、

高倉下とのつながりが示唆されています。

つまり、高倉下がそうであったように、

神武一行が紀伊半島に到着するころには、

縁ある天孫一族や海人族の人々が、

すでに各地に配置されていたわけですね。

 

贄持之子や井氷鹿そして石押分之子の三人は、

名草戸畔や丹敷戸畔のように抵抗はせず、

最初から恭順の姿勢を示しました。

もしかすると名草戸畔や丹敷戸畔も本心では、

争うつもりなどなかったのかもしれません。

 

神武東征という物語は、

単に神武天皇が日本を征服する話ではなく、

天孫族と地祇との和合を推し進め、

「現代の日本に向けて」

日本人の心をひとつにまとめるための

壮大な旅の過程でもあったのでしょう。


東征の難所

2016-07-12 10:32:06 | 名草戸畔・神武東征

<井光川 いかりがわ>

 

とにもかくにも今回の旅の中で、

一番不安だったがこの井光への道のりでした。

日本随一ともいわれる雨の多いエリアで、

梅雨の大雨も懸念される中、

一方通行の細く急な山道を、

どうやって安全に往復しようかと、

当日の朝まで思案しておりました。

 

幸い、夜から降り続いていた大雨は、

川上村に着くころには小雨になり、

無事神社にお参りすることができたのですが、

もし神武天皇がここを訪れていたとするなら、

やはりこの土地特有の複雑かつ急峻な地形と

雨量の激しさに、手こずったのは確かでしょう。