goo blog サービス終了のお知らせ 

たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

秦氏の来日

2020-07-13 09:02:30 | 古代の出雲

<伏見稲荷大社 ふしみいなりたいしゃ>

 

日本列島への「三段階渡来モデル」

(参考書籍:日本人の源流~斎藤成也)

==========================

《第三段階後半》 約1,700年前~現在

引き続き、第三波の渡来民(弥生人)の子孫が、
西だけでなく西南ルートも通り、
朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住。

それまで東北地方に居住していた
第一波の渡来民(縄文人)の子孫は、
古墳時代に大部分が北海道に移動し、
のちにオホーツク文化人と混血 ⇒アイヌ民族へ。

その空白を埋めるようにして、
第二波渡来民(※※※)の子孫を中心とする
人々が北上して東北地方に居住 ⇒エミシへ。

日本列島南部(沖縄エリア)では、
グスク時代の前後に、
主に九州南部(鹿児島地方)から、
第二波渡来民(※※※)の遺伝子を
受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、
さらに江戸時代以降には、
第三波の渡民系(弥生人)も加わる ⇒現在の沖縄人へ。

==========================

 

縄文後期から晩期にかけ、

気候の寒冷化により激減していた

日本列島の人口は、弥生時代に入ると、

その減少分を上回る勢いで

爆発的に増えて行ったそうです。

 

その理由としては、

「第三波の渡来民」がかなりの規模であり、

彼らによって持ち込まれた水田稲作が

食料供給を安定させたからだと思われますが、

恐らく、弥生時代の人口爆発の陰には、

3世紀から4世紀ごろに渡来したとされる

「秦氏」の存在が深く関与していたのでしょう。

 

現在のところ、「秦氏」がどの系統の遺伝子を

保有していたのかはわからないものの、

もしかすると「秦氏」の渡来により

「O系遺伝子」の主となるタイプが持ち込まれ、

縄文由来のD系遺伝子との割合が

拮抗する結果になったのかもしれません。


第三の渡来民

2020-07-12 09:57:52 | 古代の出雲

<妻木晩田遺跡>

 

日本列島への「三段階渡来モデル」

(参考書籍:日本人の源流~斎藤成也)

==========================

《第三段階前半》 約3,000年前~約1,700年前

弥生時代に入ると、朝鮮半島を
中心としたユーラシア大陸から、
第二波渡来民(※※※)と遺伝的に近いが、
少し異なる第三波の渡来民(弥生人)が、
主に西ルートを通って日本列島に到来し、
水田稲作などの技術を導入。
彼らとその子孫は、日本列島中央部の
中心軸に沿って東に居住域を拡大しながら、
急速に人口を増やして行った。

しかし、日本列島中央部中心軸以外では、
第三波の渡来民(弥生人)と
その子孫との混血の程度が少なく、
第二波の渡来民(※※※)のDNAがより濃く残る。
日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)、
および中央部の北部(東北地方)では、
第三波渡来民(弥生人)の影響はほとんどなかった。

==========================

 

約3,000年前~約1,700年前といいますと、

およそ弥生時代から古墳時代に

かけての期間に相当します。

この時期に渡来してきた人々は、

「第三波の渡来民」に分類され、

第二波渡来民と遺伝的に

より近かったと考えられることから、

恐らくこれらの集団の中には、

「O系遺伝子」のDNA型を所有する

人々も含まれていたのでしょう。

 

第二波・第三波の渡来民はともに、

一度ではなく何度も繰り返し

やってきたと思われますが、

比較的小規模な集団(50人~100人程度?)

を形成していた第二波渡来民に比べ、

「第三波の渡来民」に関しては

大集団が主であったと想像されます。


水先案内人

2020-07-11 09:01:26 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文後期・晩期に、「穀物」を

栽培していた西日本の縄文人を、

考古学では「園耕民」と呼びます。

通常「園耕民」とは、「稲」以外の作物を

栽培していた耕作民を指しますが、

実は、縄文中期後半(約4,500年前)

に制作された土器の表面には、

稲籾の圧痕が付着していた事実が判明しており、

縄文時代にすでに稲作が行われていた

可能性が囁かれているのです。

 

そして、それらの文化を持ち込んだのが、

縄文時代中期前半(約5,000年前~約4,500年前)までに、

「蛇」など「長物」の信仰を伝えた海人族の一派で、

彼らは「第二波の渡来民」よりはるか以前に、

縄文人と交流を持っていた可能性が伺えるのですね。

 

つまり、日本列島への「三段階渡来モデル」において、

約4,400年前~約3,000年前に日本へと渡来した

「第二波の渡来民」とは、海人族と言うよりも、

海人族によって導かれてきた大陸人、

および大陸のどこかで海人族と混血した

大陸人だったのかもしれません。

 

もしかすると、海人族の一派である「龍蛇族」が、

水先案内人となって「彼ら」を導く姿を、

出雲の神有祭に出現する「セグロウミヘビ」

という存在に投影させた可能性もあります。


混在する人々

2020-07-10 10:58:25 | 古代の出雲

<出雲市大社町>

 

約4,400年前~約3,000年前に、

すでに縄文人と交流があった

長江近辺の呉越の人々(龍蛇族)が、

大陸を通過してきた人々を先導し、

西~南西ルートを航海して

日本へとやってきたと仮定すると、

龍蛇族に代表される縄文系海人族の人々と、

ごく早い段階でユーラシア大陸を

横断してきた人々とが混在する形で、

「第二波の渡来民」となって日本へ

たどり着いたという図式が描かれます。

 

先日ご紹介した、「三段階渡来モデル」において、

「第二波の渡来民」を(※※※)として記したのも、

この時期(縄文後期)の渡来の状況が

非常に複雑な経緯をたどるため、

「●●人」「●●系」とひとくくりに

できない部分があるからなのですね。

恐らく、縄文人の血統を受け継ぐ「海人族」の人々が、

繰り返し日本へと渡航する間に、

「海人族」自体が「渡来民」という

位置づけになってしまった可能性もあります。

 

個人的な感覚では、海人族と呼ばれる人々は、

縄文人と同じD系の遺伝子を持つ人々が大多数かつ、

「第二波の渡来民」とされる集団の「本体」ではなく、

ユーラシア大陸の東端までたどり着いた

「ある一族の人々」を、日本へと導く

役目があったような気がするのです。


海人族の媒介

2020-07-09 09:54:51 | 古代の出雲

<宇佐神宮 うさじんぐう>

 

約4,400年前~約3,000年前に

日本へと到達した「第二波の渡来民」は、

主に漁労を主とした採集狩猟民、

あるいは園耕民だったといわれております。

彼らは、第一段階の渡来民(縄文人)よりも、

第三段階の渡来民(弥生人)と

遺伝的に近いという話ですから、

大陸由来のO系統遺伝子の保有者か、

縄文由来のD系統遺伝子とO系統遺伝子保有者

との混血であるとも考えられるのでしょう。

 

ただし、弥生遺伝子と呼ばれる

O系統(特にO1b2系統)の遺伝子の中でも、

O1b2a1という日本人男性の

約3割を占める特殊な型は、

日本列島内で発生したという話もありますし、

何よりもDNA解析に関しては

日進月歩のスピードで進展しております。

 

ゆえに、細かいDNA型を追求するのは控えますが、

恐らく「第二波の渡来民」が流入した時点では、

「縄文系のD系遺伝子」を持つ人々が、

極端に減少しなかった可能性も大です。

その理由のひとつとして、スンダランド

(タイ・マレーシア・インドネシアが

地続きだった時代の広大な陸地)の水没によって、

縄文時代以前に日本へと逃れてきた(との噂もある)、

「海人族」の媒介があげられるのかもしれません。


出雲の縄文

2020-07-08 09:51:28 | 古代の出雲

<佐比賣山神社 さひめやまじんじゃ>

 

先日、「一部の東北縄文人が山陰地方へと

移動した」という話をご紹介しましたが、

それらの内容と日本列島への

「三段階渡来モデル」を統合するなら、

約4,500年前頃、寒冷化などの影響で南下した

一部の東北縄文人を含む出雲縄文人と、

約4,400年前~約3,000年前に渡来し、

西日本の沿岸部から上陸したと思われる

「第二波の渡来民」とが山陰地方とで混血し、

いわゆる「出雲族」と呼ばれる人々に

なった可能性が浮かび上がります。

 

つまり、出雲族というのは「渡来人のみ」

で構成されていたわけではなく、

「出雲に居住していた縄文人」と

「第二波の渡来民」とが混血した

集団とも想像できるのですね。

 

恐らく、出雲の人々の遺伝子が他の西日本人

と比べて「より縄文的」になったのも、

縄文中期に行われた「東北縄文人の流入」

が影響しているのでしょう。

『出雲国風土記』の「国引き神話」

で描かれていた光景とは、

「第二波の渡来民」&東北縄文人&龍蛇の信仰

を持つ人々などが、時代を越えて出雲へと

到達したことを示しているのかもしれません。


遺伝子の類似性

2020-07-07 09:46:28 | 古代の出雲

<斐伊川>

 

もともと西日本という場所は、

縄文人の数が少ないだけでなく、

東日本に比べて集落の規模も小さかったため、

「土地」や「定住」に対する執着が

薄かったとの話があります。

ゆえに、「第二波の渡来民」が、

寒冷地を避け温暖な西日本に留まったとすれば、

比較的早い段階で両者の融合が進んだのでしょう。

 

一方、出雲を含む山陰地方に関しては、

「東北縄文人との交流」の形跡があるだけでなく、

近年のDNA分析により「出雲人と東北人の

遺伝子の類似性」が指摘されています。

つまり、出雲の人々は他の西日本人よりも、

「縄文人寄り」の思考・文化を持っていた可能性が高く、

「第二波の渡来民」が到来する前に、

東北縄文人が出雲へと移住してきたことで、

「出雲の弥生化」を防ぐ流れになったのかもしれません。

 

さらに、縄文時代中期前半(約5,000年前~約4,500年前)、

すでに日本に到達していたと推測される「龍蛇族」の人々も、

両者の関係に深く関与していたと思われるのです。


第二の渡来民

2020-07-06 09:39:20 | 古代の出雲

<宗像大社 むなかたたいしゃ>

 

日本列島への「三段階渡来モデル」

(参考書籍:日本人の源流~斎藤成也)

==========================

《第二段階》 約4,400年前~約3,000年前
日本列島の中央部に、第二の渡来民(※※※)の波。
恐らく、朝鮮半島、遼東半島、
山東半島に囲まれた沿岸域、
およびその周辺の「海の民」が、
日本の西~西南の海を通過して渡来したと思われる。
彼らは、漁労を主とした採集狩猟民あるいは園耕民で、
日本語の祖語をもたらした可能性がある。

第一段階の渡来民(縄文人)よりも、
第三段階の農耕民である
渡来人(弥生人)と遺伝的に近縁。
第二波渡来民(※※※)の子孫は、
日本列島の中央部の南部(西日本)において、
第一波渡来民の子孫(縄文人)と
混血しながら少しずつ人口を増やして行った。

一方、日本列島中央部の北側地域(東北地方)と、
日本列島の北部(アイヌ居住地)
および南部(沖縄エリア)では、
第二波の渡来民(※※※)の影響はほとんどなかった。
注:(※※※)に関しては後日解説

==========================

 

第一段階の渡来が完了したタイミングを、

「スタート地点」として捉えるならば、

第二段階で来日した人こそが、

いわゆる「渡来系」の流入の始まりなのでしょう。

 

ちなみに、約4,400年前~約3,000年前というのは、

縄文中期後半から縄文晩期に当たり、

気候の悪化による人口減少が進んだ時期です。

この頃の日本列島の人口分布を見ますと、

基本的には東日本が大多数を占めるものの、

東北地方がほぼ横ばい、

関東・東海・北陸地方がほぼ半減した一方で、

逆に関西・中国四国・九州地方に関しては

2倍に増えるなど、縄文中期前半のピーク時に比べ、

西日本の人口が増えていることがわかります。


縄文人の到来

2020-07-05 09:35:12 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

日本列島への「三段階渡来モデル」

(参考書籍:日本人の源流~斎藤成也)

==========================

《第一段階》 約40,000年前~約4,400年前
縄文人の祖先となる人々、
もしくは縄文人そのもの(採集狩猟民)が、
ユーラシア大陸の様々な地域から、
日本列島全体に渡来。考えられるルートとしては、
1.千島列島、樺太島を通る北方ルート
2.朝鮮半島を通る西寄りルート
3.東アジア中央部を通る西南寄りルート
4.台湾を通る南方ルート…… など。

==========================

 

4,400年前といいますと、縄文中期中頃に当たり、

日本列島の人口がピークに達した時期です。

当時の人口分布図は、極端に東に偏っておりましたから、

数万年をかけて渡来してきた人々の多くが、

東海・北陸・関東・東北などに居住し、

いわゆる縄文人と呼ばれるようになったのでしょう。

恐らく、この頃の日本列島の男性のほとんどは、

「ハプログループD1b」のY染色体

の所有者だったのかもしれません。

 

ちなみに、以前ご紹介した「蛇」の文様を

特徴とする「勝坂式土器」が制作されたのは、

縄文中期前半(約5,000年前~約4,500年前)ですので、

もしかすると揚子江(長江)の

下流付近にいた呉越の人々(龍蛇族)は、

第一段階の終盤にはすでに日本に到着していたか、

あるいは海を通じて縄文人との

交流を深めていたものと思われます。


三段階渡来モデル

2020-07-04 09:25:00 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

***** 古代の出雲2 *****

日本人の起源をDNAの観点から推測しますと、

古代には大きく分けて「三回」の渡来人の波があり、

これを日本列島への「三段階渡来モデル」と呼ぶそうです

(参考書籍:日本人の源流~斎藤成也)。

何でも、大きく三回に分けられる「渡来の波」のうち、

第二波にあたる渡来民の流れが、

「古代出雲」とつながっているらしいという話を聞き、

早速当時の渡来人の様相を「DNA」と

照らし合わせてみることを思いつきました。

 

いかんせん、何分科学に疎い素人の妄想記事ですし、

また聞きなれないワードを多用するのは

たいへん恐縮ではありますが、

前出の書籍の内容をご紹介しつつ、

現時点での「個人的な解釈」を加えたものを、

つらつらと記してみたいと思いますので、

よろしければしばらくお付き合いください。

 

まずは参考までに、日本人男性が所有する

「Y染色体」の主なハプロタイプを、

ざっくりと列挙してみましょう

(縄文をテーマにした過去ブログも

ご覧いただければ幸いです)。

 

【ハプログループD1b】
日本列島固有のD系統Y染色体。
いわゆる縄文遺伝子。
日本人男性の約35%程度が所有。
YAPと呼ばれる変異型を持つ。

【ハプログループO1b2】
日本列島で発生したと考えられるO系統Y染色体。
いわゆる弥生遺伝子。
日本人男性の約30%程度が所有。

【ハプログループO2】
弥生時代以降(主に4世紀~7世紀頃?)に、
中国大陸および朝鮮半島から流入した
と思われるO系統Y染色体。
日本人男性の15%程度が所有。

他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、
O1b1系統が低頻度で出現。

 

* 記事内の名称や数値などは精査しておりますが、

誤った内容も含まれているかもしれません。

また、遺伝子分野に関しては、

現在進行形で様々な研究が進んでいるため、

のちに加筆・訂正を行う可能性もありますがご了承ください


里帰り

2020-07-03 09:17:47 | 古代の出雲

<東北の民族資料>

 

昨日、東北人の祖先とされる「蝦夷」の人々が、

「出雲人」と関連するのではないか

という話をしましたが、

実は「出雲人」は「東北の縄文人」であり、

およそ4,500年ほど前に、

気候の冷涼化に伴い出雲まで

南下して来たという伝承が、

出雲界隈で伝わっておりました。

 

4,500年前といいますと、

縄文中期中頃に相当する時代で、

徐々に日本列島を寒冷化の波が

襲い始めた時期とも重なります。

また、縄文後期には、中国・四国地方の

人口が急増したと聞きますから、

もしその話が本当だとすれば、

一部の東北縄文人が居住に

適さなくなった豪雪地帯を避け、

日本海ルートを通じて山陰地方へと

移動して行った可能性も出てきますね。

 

そして、時代を経て弥生時代に入ると、

今度はヤマト朝廷の勢力に押された、

「出雲人」たちが逆に北のほうへと移動し、

祖先の地である東北へと移住したのでしょうか……。

恐らく、のちに蝦夷と呼ばれるようになった人々とは、

先祖の故郷である東北へ「里帰り」をした、

出雲の人たちだったのかもしれません。


北東北での動き

2020-07-02 09:13:17 | 古代の出雲

<東北の民族資料>

 

縄文DNAを色濃く引き継ぐ沖縄人と、

距離的に近い九州南部の人々との間に、

明確な遺伝子の類似傾向が見られる一方で、

縄文DNAの最大の保有者であるアイヌ民族と、

同じ縄文文化圏を築いていた

北東北の人々の遺伝子には、

これといった共通性が

見て取れないという話を聞きます。

 

この理由としては、北海道南部に

居住していたアイヌの人々が、

古墳時代以降にオホーツク文化人

と呼ばれる北方系渡来人と、

遺伝的な交流(その後ヤマト人とも混血)

をしたためと推測されるのだとか……。

つまり、現在の東北地方の人々には、

アイヌ人のDNAがほとんど混じっておらず、

東北人の祖先とされる蝦夷も、

アイヌの人々とは異なるルーツを

持っていた可能性が伺えるのです(諸説あり)。

 

恐らく、北東北に暮らしていた縄文人が、

ヤマト朝廷の勢力拡大に伴い

北海道南部へと追いやられたのちに、

同じくヤマトから逃れてきた東北以南の人々

(のちの蝦夷)が、先住民のいなくなった

北東北へと移動してきたとも考えられるのでしょう。

もしかすると、現東北人の祖先である彼らの中には、

日本海を通じて北東北へと移住した、

「出雲人」と呼ばれる人々が

混じっていたのかもしれません。


辺境の地の人々

2020-07-01 09:09:57 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

日本列島に住む現代人のほとんどは、

旧石器時代から縄文時代を通じて

居住していた「縄文人」と、

弥生時代以降を中心に日本列島に

渡来してきた「弥生系渡来人」

との混血であることが判明しています。

以前の記事内でも示した通り、

日本人男性の3割ほどが、

縄文人特有の系統である

「ハプログループD1b」の

Y染色体を引き継ぐといわれており、

特にアイヌ民族および沖縄人など、

日本列島の南北の端に居住する人々は、

これら縄文人由来のDNAを

高い割合で保有するのだそうです

(アイヌ民族に関しては80%以上、

沖縄の人たちは50%弱)。

 

なぜこのような傾向が強まったかと申しますと、

弥生時代に大陸からやってきた渡来人が

日本列島で縄文人と混血した際、

列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちと、

交流を持つ機会が少なかったためなのだとか……。

厳密に言えば、北方ルーツのアイヌ民族と

南方ルーツの沖縄人とが持つ縄文遺伝子には、

細かな違いがあるようですが、

「辺境の地」に住む人々の間に、

縄文人につながるDNAが受け継がれている

という事実には俄然興味がわいてきますね。


出雲と東北

2020-06-30 09:01:44 | 古代の出雲

<湯野神社 ゆのじんじゃ>

 

一説に、ズーズー弁と呼ばれる北東北の言葉と、

出雲の人々が日常会話で使う方言とが、

非常に良く似ているという噂があります。

これらの話は、松本清張の小説の中でも、

物語を解くカギとして取り上げられるなど、

マニアの間では周知された事実ではありますが、

出雲の縄文遺跡から東北地方の土器が発掘されたり、

東北地方の一部にワラヘビ文化が伝わっていたり……

等の事例を踏まえれば、両地域の間に古くから

交流があったことは明らかなのでしょう。

 

もしかすると、両地域の人々は「交流」という

レベルを越えて、「同じ血筋」をも

共有する間柄だったのかもしれません。

 

実は、近年のDND鑑定技術の進展により、

日本人の詳しいDNA分析が

行われるようになった結果、

「東北人と出雲人とが遺伝的に

似た傾向を示す」ことがわかったそうです。

立地条件や渡来人との接触の痕跡などから、

「大陸由来のDNA型」が多数派になると

予想された出雲人が、ほんのわずかではあるものの、

縄文人のDNAを多く保有する「東北人」に

近い位置にあるということが判明したのでした。


蛇とタケミナカタ 

2020-06-29 09:59:14 | 古代の出雲

<諏訪湖>

 

縄文中期前半、「稲作文化」とともに

やってきた「龍蛇族」の人々が、

信州や関東一円に「蛇」への信仰を

広めたと仮定するなら、

なぜ「龍蛇神信仰」の聖地である出雲地方で、

「蛇」をモチーフとした土製品が

見つからないのかが不思議と言えば不思議です。

普通に考えれば、縄文時代の

中国地方の人口密度の低さが、

土製品のバリエーションの

少なさに関係すると思われますが、

それにしても縄文時代の「蛇」

の分布が偏りすぎている裏には、

表に出ない何らかの理由があったのではないかと、

個人的には怪しんでしまうのですね。

 

そんなことをつらつらと妄想しながら、

出雲神話の本を読んでいる最中、

ふいに頭に浮かんだのが、

「タケミナカタ」に関する物語でした。

もし仮に、タケミナカタの

出雲から信濃地方への逃亡劇が、

「龍蛇族」の移動と関係しているとすれば、

諏訪近辺に広がる「蛇文様」の土製品の

謎を解くカギになるかもしれません。

果たして、「龍蛇族」の人々と出雲、

そして諏訪とのつながりはいかなるものか、

これらについては改めて考察することにしましょう。