賜杯返還、優勝額除幕式、横綱土俵入り、と長年応援してきたのに体験してこなかったお祝い事をいっぺんに味わった幸せな私たち。「そういえば、取組あったね、忘れてた」っていう感じでした。
「しかも東の正横綱だから初日は結びだ」「わ~そういうことなんだね東の正横綱って」と盛り上がります。となりの茨城の乙女たちとも声を合わせて弟弟子の高安関を応援。快勝。高安関、あと九勝で大関です。
進行は順調でした。というか早めでした。皇太子殿下ご夫妻がお帰りになるところまでテレビに映さないといけないんだろうなあ、と思っていました。みたけうみ関がかくりう関を破り、座布団が舞います。私たちは投げませんでした。
そして、結び前土俵下に入ってきた稀勢の里。
かなり頑丈なテーピング。
やっぱり相当悪いのかな、と心配になりました。
そしてくるくる回る懸賞の行列を見て、これだと毎回相手も絶対勝つ気でくるだろうなと思いました。
そしてあの結果。
最初に出たのは「やっぱりね~」でした。今日はいいことが続き過ぎて、こういうところでがっかりさせてくれるのがきせ関の資質です(ブ)。今まで肝心なところで勝てなかった分を先場所の千秋楽で一気に取り戻し国民的ヒーローになってしまいましたが、ある意味変わっていない。それに・・・
「そういえば私は横綱昇進披露宴で嘉風と握手していただき応援していますとか言っちゃった」という私。「それだ!」と受けるお友だち。愛甲さんに至っては嘉風関と2ショット取って喜んでいました(とても優しい関取です)。「もしかしたら私たちが嘉風を応援しちゃった?」
でもいいや、というさばさばした雰囲気、「やっぱりね~」と受け止める余裕が私たちにはありました。これもようやく悲願を達成したあとだからこその余裕でしょうね。ある意味安心した。中の人が変わってなくて。これが稀勢の里だ! でもそれは、猿烏賊ギョーカイ方面が言う「ありのままを受け止める」では決してないのです。
自分たちのやっている無作為を「ありのままを受け止める」と美しく語り、治ってほしいという保護者、治りたい当事者を残酷なことを言っているように批判する卑怯なギョーカイの言論(吉川徹等)が本当に大嫌いでした。だってさ、愛があるからこそ治ってほしいんじゃないの? 少しでも自由な人生を送ってもらいたいから修行に励むんじゃないの? そういう頑張り屋の人たちを「障害受容がなってない」とけなして利権に走る支援者と負け惜しみの代弁をしてくれるからそれに乗っかって頑張る方面の保護者をけなす猿烏賊(そらパパ、ベム等)が本当に嫌いでした。
修行系の親御さんたちは、なんとか治ってほしいという親御さんたちは、子どもにより幸せな、自由な人生を望んでいるだけです。
その他人の決断に口を出さずにいられない。
それは自分の「つかみどころのない不安」を自分で解消できないから。
エビデンス以外によりどころがないから。目の前の子どもの反応よりエビデンスを重視するのは「究極の他人軸への依存」ですからね。
昨日みたいなところで負ける稀勢の里を私たちは応援します。でもずっと負けてほしいとは思わない。愚直で不器用でガチンコで、その稀勢の里がどう大横綱になっていくか、それを見守りたいのです。「肝心なところで負ける資質をありのままに受け止めたい」なんて決して思わない。
相撲の神様はなかなか勤勉で、苦労して横綱にしたあとすぐ、これまでにない大怪我という試練を与えました。私は南雲さんの言葉を思い出しました。「障害は個性じゃない。障害をどう乗り越えるかが個性」。そして私たちは、今度はそれを見守るのです。不器用で、愚直で、でもついに頂点に立った横綱が、どう大怪我を乗り越えていくのかを見守り応援するのです。
横綱昇進披露宴で、突然「ゆず」という人たちが来て「栄光の架け橋」という歌を歌いました。その歌詞が稀勢の里そのものだと、泣いていた人たちがいました。私もNHKのオリンピックテーマソングだとしか認識していなかったのだけれど、これって稀勢の里ソングだなあと思いました。
でも考えてみれば、アスリートなんて、ましてやオリンピアンなんてみんな「人には見せない泪」があったはずで、みんな「悔しくて眠れない夜」があったはずで、別に稀勢の里に限らず何かを頑張ってきた人なら経験することだと思いました。
そして南雲さんにしろちゅん平にしろ、何かを乗り越えてきた人はみんな共感するだろうと思いました。だからあの歌は南雲さんソングでありちゅん平ソングでもあると思いました。そしてもちろん私も。裁判・ギョーカイの死んだふり・猿烏賊・鳥烏賊・猫烏賊。そういうものを乗り越えてきました。そしてもちろん私だって夢の途中なのです。
それでも私実は、先日の横綱昇進披露で取った自分の写真にびっくりしました。
五年前の大関昇進のときに比べ、顔が穏やかになっているのです。
愛甲さんに見せたら「ほんとですね」と言われました。
おそらく「愛着障害というものがある」と知っただけで相当腑に落ちたと思うのです。
ああ、あのわけのわからん人たちはそれなんだ、と。
共感はしなくても理解はしたのだと思うのです。
理解したけど、でも「そうかかわいそうなんだ」とは思わないのです。
だってそう思うのって失礼だしね。対等な人間なんだから。
私が愛着障害を抱えた支援者たちに思うのは
愛着障害なのは構わないけど、プロなんだったら治してくれないかな、っていうことです。
じゃないと当事者が治らない。
花風社の本を読む気になる支援者の人たちだけにでも治してもらいたい。
そしてその中のおひとりが先日ご結婚なさったというご報告をくださった支援者の方だと思います。
愛甲さんが証明しているとおり
支援者は愛着障害を自ら乗り越えるとよりよい支援ができるようになるんだし。
皇太子ご夫妻のお見送りがあったせいでしょうか、国技館を出るのはいつもより時間がかかりました。
でも出てきてもまだ明るいのが五月場所。
国技館の敷地にはお社があります。
「お参りしていきます」
と私は言いました。
何度も何度もここで、「稀勢の里を横綱にしてください」とお願いしてきました。
その願いがついにかなえられたのだから、お礼をしなくては。
手水を使いお賽銭を投げ、礼、柏手。
ありがとうございました。
そして触れ太鼓の響く中、両国を後にしてきました。
完