治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

意気揚々と支援を離れたと思いますか?

2017-05-29 11:05:00 | 日記



昨日はブログ書いてから五本指シューズで海と山と温泉がある町に遠足に行きました。
温泉に入って船盛を食べました。今朝は向島電機の倒産をロビーで見知らぬおじいさまおばあさま方と見届けました。「あらまあ大変」と心はひとつ。

その間にも昨日のブログに関する反応をいくつかいただきましたが
これは言っておかなければならないな、と思うことがあったので書きます。

皆さん今のちゅん平さんみてると誤解するかもしれないけど、「それいゆ」(当時)の支援を切ったとき、「やった―治った治った! 前途洋洋だぜ」って思ってたわけじゃないですよ。
まだまだ予断を許さない状況でしたよ。身体も弱かったしね。たぶん切られた支援側は「いったいどうするつもりだろう」って思ってたんじゃないかな。「どうせろくなことにならない」とまで思っていたんじゃないかな。その後の快進撃は予測していなかったんじゃないかな。いや、快進撃というのは少したってからのこと。それまでは反動で家から出にくい時期もあり、ようやく出かけた職安ではけんもほろろにされ、ということから就労移行支援、作業所、ハローワーク、実習、みたいにつながったんです。そして就職してからも雇止めされたり。っていうかみんな「30歳からの社会人デビュー」読んでよそのへんは。読まないであれこれ言うのは怠慢だよ全く。


まだまだ不安定なことを重々知りながらなぜ私は「やめなよ」って言ったのか。藤家さんはやめようと思ったのか。
それは私の中にはもって生まれた(あるいは育ちの中で育まれた)自己肯定感があって、「こんだけ本人をバカにする支援者にこの先もろくな支援はできないだろう」と思ったからですね。

つまり、たとえ治ったとはまだまだまだ言えない状態でも、少なくともその人をばかにする、めんどり扱いする支援者から離れた方が治る、っていうことです。自分を貶めるやつからはきっぱり離れる。たとえどんなに社会的に評価が高い人でも。私がそれをやるのを皆さんは目撃してきたわけですね。そしてYTの件を知っててぽかんとしていたのがギョーカイである以上、ほぼギョーカイの全部が私にとってはいつでも離れていい死んだふり野郎なんです。だから思ったことはどんどん言います。

それに対して多くの人が支援者の人間性に疑問を持ちながら、「ここを離れたら行く場所がないから」とかしがみついてるんじゃないの? だから治らないんだよね。支援者の人間性に疑問が出てきたということはそれだけ成長したということ。主体的に利用するか、あるいはきっぱり離れればいいんです。勇気のない人は知らないことだけど、何かを手放すと必ず次に何かを得られるんです。

これが、若いころから「その生き方では損をする」と言いながらなんだか結構トクしてる私がやってきたことじゃないかな。自分を貶める支援者にしがみついてるなんて、DV夫から離れられない殴られっぱなしの妻みたいだよね。私は自分を貶める人からはきっぱり離れるしきっちり落とし前つけるからたくさんの人と喧嘩してきたけど、一方でそのきっぱりさのおかげで私生活は幸せなわけです。


そもそも「それじゃあ損するよ」っていう人ってみみっちいよね。損得が人生の目的なのかよ、っていう。同じように「無駄な努力」っていう言葉も大っ嫌いです私。南雲さんがうまいこと言ってた。

=====

「無駄な努力」という言葉自体、おかしな表現ですね。

そもそも、成果は約束されていなくとも、成長は約束されているのが「努力」です。

種を蒔き続ければ、思わぬ所から芽がでる。これを人は「運」と呼ぶんです。

だから、誰が何を言おうと、成長の種は蒔き続けることが大切ですね。

=====

本当に暑苦しいですね(ほめてます)。そして本当のことです。

なんだっけ。

そうそう、損得ばっかり考えるからうまくいかない人が世の中多いねっていうこと。得しようと思って自分の魂を押し殺して我慢する。そういうやり方を踏襲していたらね、ちゅん平さんはまだまだそれいゆにしがみついていたでしょう。そして治らず、在宅で、めんどり人生を歩んでいたでしょう。毎月それいゆに貢いでいたでしょう。それいゆがまだあるかどうかもよく知らないけど。

自分をバカにする人からはきっぱり離れる。
それが健全な人間だと思います。