治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

「治ろうよ」を被害的に取る人たちのセオリーオブマインド

2017-05-03 11:53:06 | 日記
障害が治る、というのはいいことだと思っていた私。
何度も書くが、自閉っ子たちと知り合いになってその身体感覚のバグに気づき「これなら社会でやっていくのはつらいだろう。治らないのだろうか」と思った赤心が出発点である。だけど「治るなんて差別!」が巻き起こってキツネにつままれたような気分であった。

こっちが「ありのまま系」と揶揄し始めると、「ありのままはそのままで無教育でいいわけではないと言っているわけではない」とぼそぼそいう人たちもいるが、そもそも最初修行している子や親を見て「残酷だ!」と非難していたのは自分たちであることを忘れているもしくは棚に上げていると思う。頑張っている親子を揶揄するのだから「一切頑張りたくないんだな」と思うのは当たり前ではないか。でもそうじゃないんだよね。自分たちにできないことやっている人を見ると負け惜しみを言いたくなっただけなんだよね。

なんだっけ。

そうだ。なぜ「治る」と言われることを被害的に取るか。

愛着の問題もあると思う。
「愛着障害は治りますか?」に書いたコピー。

「自分が自分であることを、祝福されなかった」

経験を持つ人たちは、ようやく見つけた「障害だったんだ」という安心感を返上させられるように思うのだろう。
そして「障害のままではいけないのか?」と息巻く。

あのねえ。障害のままではいけないかどうかについて、私の考えなどに左右されること自体が間違い。自分が「障害のままでいい」と思うのならそれでそれが主体的な決断じゃないですか。私は治りたい人のために情報提供している。治る人が増えた方がいい世の中になると思っている。だから最近「このままではいけないというのか!」という憤りには「そのままでいいんですね?」と質問でお答えするようにしています。そのままでいいのならどうぞそのままで。ただ、自分で決めたことだから不便は自分で引き受けてね。社会の理解を促すのはご自由に。ただ、ゆっくりしか進まないと思うよ。治る方が速いと判断するための情報は提供し続ける、つもり。


そして「人間脳の根っこを育てる」を作って

皮膚について知って

ああ、「障害が治る=自分が自分でなくなる」と思い込む人たちはやはりボディイメージが弱いんだろうなあと思いました。

あのさあ、考えてみれば

障害が治るくらいで自分が自分でなくなるわけがないのよ。

だって自分っていうのは

皮膚と皮膚の間にある身なんだから。

皮膚と皮膚の間にある身は生涯変化し続けるけど、「究極の自分」である皮膚と皮膚の間にある限りそれは自分。障害があろうとなかろうと軽くなろうと重くなろうと自分。

これは私の「自己意識」。
言葉以前の「自己意識」を言語化したもの。

だから「障害がなくなる=自分がなくなる」という思い込み自体

「もしかして固有受容感覚の入力が弱いのかな?」と私は思います。

だから治ると思う。
治したいのならね。

といってまた「治さなければいけないというのか?」と息巻かれたら
「治らなくていいんですね?」と質問で返します。
(以下同)