治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

支援じゃなくて接待なんです。

2017-05-25 08:58:10 | 日記
さて、今日も「多様性を許容する社会を作るための提言」と「ギョーカイは二次障害を治すか」は後回しになってしまいます。nonmamaさんと発芽玄米さんのコメント(部分)を引用させていただきますね。

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努力しなくていいなんて (nonmama)
2017-05-24 17:49:17
NHKの2つの番組はどちらも見ていませんが
4月から高校生になり頑張っている息子を毎日見ていると
努力しなくていいなんていう言葉は到底言えません。
親だってもっと頑張らなきゃと思いますよ。
年月が経ち何も変わっていない事柄を見聞きすると
本当に残念に思います。



同感です (発芽玄米)
2017-05-24 19:59:45
今朝の“あさいち”、私も浅見さんと同じ箇所で、クスッと笑ってしまいました。
「努力しない人はどうするんですか?」のところです。
あの梅永さんという人がどういう方なのかは存じ上げませんけれど。

そして、nonmamaさんのコメントに、全く同感です。
私の息子も4月から高校生になりましたが、高校入学するまでも、
入学後もほんとうに頑張っている様子を見ると、
親ももっと頑張ろう!って思います。

「努力しなくていい」という部分だけを鵜呑みにして、
学校や周囲に、理解してよ、支援してよ、と騒ぐ親がますます増えなきゃいいけど。

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あの先生を存じ上げない、というところに時代は変わった、健全にセグメント化された、ということを感じます。連帯ではなく健全な分断の向こうにしか当事者の社会参加はない、と私は言っていますがその方向に進んでいるのだとうれしくなります。
十数年前、あの先生のことを知らない人はいなかったと思います。就労支援の第一人者でしたから。

先生が当時教えていた学校のゼミの集まりに私も参加したことがあります。ちゅん平さんを連れていきました。そのころはちゅん平さんに経験値を積ませたくて誰かと会う機会を探していたのです。特別支援教育を学ぶ学生たちと学食で大学生にありがちな乾きものビュッフエの懇親会でした。「光とともに」の故・戸部先生もいらしてました。ギョーカイがちいさくてみんな仲良くてという牧歌的な時代です。
当時のちゅん平さんは二の腕が今の半分くらいで、顔が青白くて、ほっぺがへこんでいて、学食独特の油のにおいにやられたり、ビュッフェだけど自分では選べなかったりしました。でも特別支援教育を学ぶ学生さんたちはちゅん平さんに優しかったです。選べないちゅん平さんに食べ物をとりわけてあげて、ちゅん平さんを囲んでお話をしていました。健全な学生の姿でした。それでも彼らには悩みがありました。教員免許をとってもなかなかその大学からは採用されないというのです。採用されるのは、いわゆる有名大学の人です。有名大学の人はある程度偏りなくお勉強できる人ですから、凸凹な人たちの気持ちがわかりにくいかもということでした。本当にそうだ、と思いました。

今の先生は教員採用試験でも有利そうな有名大学に移り、ボス猫烏賊としても高額のセミナーやって免許を下す立場におられるようですから、ギョーカイ活動は先生ご自身には実り多いものだだったようですね。
昨日こういうつぶやきを大久保さんがしてました。
これを地で行ったギョーカイ人のおひとりではないでしょうか。

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「自閉症の人達に努力させるのは残酷だ」と言い、環境調整を推進し、「支援者の質がー」と研修とライセンスに引っ張ってきたギョーカイ。
その結果、大量の治せない支援者を作り、自閉っ子達の努力と成長する機会、力を奪い、自立の目を摘む。
誰のための言葉だったのか?
「敵は味方のふりをする」

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私はあの時であった教員採用試験で不利な大学の学生さんたちにはなんら反感を感じませんでした。
反感を感じたのは就労支援講演でした。ルサンチマン系の各種飛び道具を揃え、社会への恨みつらみをぶちまけさせ、この人たちに努力をさせてはいけない努力でカバーできることには限界があると公衆の面前でいうのです。まともな人なら発達障害者を雇いたくなくなるようなセミナーです。


そしてその後、私はこの先生のやってることにさらに疑問を感じるようになります。
私は当時、積極的に当事者の人たちに会っていました。会いたいと言われれば会いました。そして中には、この先生のもとで自助会的な何かをしているという人がいっぱいいました。私は裁判を起こす前であり、支援者は教育者でもあると思っていたので、有名な支援者のもとで自助会などやっている人はそれなりに物事を教えられた人たちだと思っていました。

逆でした。
そうした自助会活動をやっていない人の方が、ずっと常識がありました。
先生のもとで活動している人たちは、非常識で、そして高飛車でした。臆面もなくいろいろな要求をしてきました。今なら「支援を受けるほどだめになる」のはわかります。でも当時は内山医師がYTを治すのを期待していたほど私はバカでしたから、先生のもとで自助活動しているはずの人たちにどうしてこうも社会が受け入れにくい人が多いのか謎でした。

でもあたりまえですね。
自分の誤学習に基づいたうらみつらみをぶちまけてもたしなめられない。
そればかりか、「社会が理解すればいい」と言われる。
「社会が理解すればあなたたちは生きやすくなるのだ」とウソを教えられる。
「努力をしなくていい。努力でカバーできることには限界がある」と言われる。

そういう環境にいる当事者の人たちが、社会で生きることを目標に修行をしていた人たちと状態が違ってくるのは当たり前なのです。

だから昨日、柳沢アナウンサーが「努力しない人はどうするんですか?」ときいたとき「よく言ってくれた」と快哉を叫んだのでした。

「努力でカバーできることには限界がある」と当事者が言うのも、多くの場合ただのオウム返しでしょうね。木っ端ギョーカイ人が「生まれつきの脳障害で一生治らない」とオウム返ししているのと同じです。
ほとんどの当事者は限界まで努力したことなどないでしょう。したこともない努力を無駄だとオウム返ししているだけ。そしてそれが伝言ゲームでくるくる回るだけです。
そして支援者のもとではそれが正当化されますよね。
正当化されて努力しない。その結果を引き受けるのは当事者です。
そしてその間にギョーカイ人は、他人に努力しなくていいいと説くことで出世して金儲けしていきます。そういう仕組みです。

私がギョーカイに愛想をつかし、このブログを始めてからも、先生は講演で集合写真など見せて、そこにはちゅん平さんと私が映っていて、面識があることを好意的に語られていたらしい。
ということは花風社が「治す」「修行」路線をやっていることも、このブログの存在もご存じないのでしょう。
某所で十年ぶりに講演を受けた人の話によると、レジュメは十年前と同じもののひ孫コピーみたいなもんだったということなので、人は変わらないと思っているのかもしれません。

でも人は変わります。
今の私はわかるのです。
ギョーカイ人にとっての「支援」は「当事者接待」だったのだと。
なぜかというと、固定資産になってくれる当事者たちが、ケージの中で卵を産み続けてくれるめんどりだからです。鍛えるよりダメにしておくほうが彼らの利益になるのです。

皆さんは生涯をめんどりとして暮らしたいですか?
自分のお子さんをめんどりにしたいですか?
お子さんが四十になったとき、クマ抱いてテレビに出てたらうれしいですか悲しいですか?

一人一人が決めればいいのです。
ギョーカイとは違うオプションを、花風社は用意しておきます。