治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

当事者・保護者は主体かどうか

2013-12-16 07:40:07 | 日記
さて、昨日はゆっくりとランチに行きました。
そこで家族と会話して、前の日に抱いた違和感に決着がつきましたのでそのご報告。

質疑応答の中でアスペルガー医師のロンさんが「当事者も努力するのが平等な社会の実現」とおっしゃったのに対しギョーカイの人は
「努力したら報われる場を提供するのが企業の役目(キリッ)」みたいなことを言っていて
よくギョーカイ人に感じる「何言ってんだろうこのひと」感を強く感じて帰ってきたのです。
そのまんま、その違和感のもとは深く追求しなかったんですけど
家族にこう言われて「ああなるほど」と思いました。

「働きに行って給料が支払われる。努力は報われているでしょ」

おおお、その通りだ。
だから支払うに足る子に育てあげるのはギョーカイの役目なのに
いつものとおりそこをすっ飛ばして話していたんだな。

努力できないっていうのは、明らかに自閉症の特性ではありません。
努力と自閉症について知りたかったらこの本読んでね。



まあ明らかに、ニキさんにせよロンさんにせよきちんと努力して仕事を維持している方なんですからね。
だから努力できないのは障害特性ではなく、育ちの問題です。

そしてその「育ち」には環境も含まれます。当然。

私はそこで、ロンさんがおっしゃってたことを思い出しました。
他責的になると成長できない(大意)っていうことです。
これって「おおたしかに」と思ったのです。

そしてどうしてギョーカイ活動に熱心なほど成長できないのか
それがわかった気がしました。
ギョーカイのお仕事は「社会の理解ガー」すなわち「他責」だからです。

ローカルギョーカイ活動していらっしゃるらしき方の手記を読んだことがあります。

「いとしご増刊 かがやき 2010 NO.6」(発行元 社団法人 日本自閉症協会)から抜粋します。


「本人の声に耳を傾けて! 誇りを持って生きることができる社会に
――親の立場から」より。


「変わらなければならないのは彼らではなく、”社会”の方だ。つまり、私たちが何より力を入れなければならないのは、療育機関を増やすことや、支援者を養成することよりも”社会を変えること(溜めを増やすこと)”なのだ。もちろん、幼少期から支援を受けることが有効であることは、自身の体験からもじゅうぶん理解している。障害の特性を知ることで、彼らの認知の特性にあった情報提供を行ったり、感覚の過敏などの日常的な苦痛を取り除いたり、彼らのQOLを上げ、円満な親子関係をはぐくめるメリットは高い。しかし、そこで培った自己肯定感をエネルギーにできたとしても、彼らがいずれ参加していかなければならない今の社会は、あまりにも荒んでおり、過酷すぎる。
 誤解を恐れずに言えば、愛する息子には、「こんな社会に迎合するための社会性ならば、身につける必要がない」と伝えたい」(前掲書 P41~P42)


もし保護者がこういう活動に励んでいたら、素直なASDの人は
「そうか社会が変わればいいんだな」と思うだろうなあと思いました。

でも現実に、この人たちの望んでいる社会は来ません。
それは「ケーキ屋さんになりたいな」っていうほど現実感のない話で
そしてそういう社会が実現するのは、正しいことではないからです。

それと

「本人の声に耳を傾けて!」というのも
実はギョーカイ、あまり上手じゃないですよね。

先日このブログでも触れた「知的障害と裁き」(佐藤幹夫著)
昨日の朝日新聞に書評が出ていました。
ネタバレ書評ですけど、ネタバレの箇所引用します。

著者は、当初の主任弁護人の保護的な弁護活動が、被告のプライドを傷つけたことが(主任弁護人)辞任の遠因とみる。

人権派は障害者が起こした事件だから群がった。
でも本人は障害者として裁かれたくなかったんです。

別に司法に限らないかもよ。
診断がつき、親としては障害者として生きていってほしいと思っても
それが本人の望みではないかもよ。


実は今度の森嶋さんの本
当初から「うちではお子さんの写真は使わない」という方針を森嶋氏に告げたんですよね。

できあがりの本には実写の写真もたくさん入っています。
正しい動きを見せるために、イラストより写真の方がいい場面もたくさんある本なので
チットチャットのインストラクターの方に協力していただきました。
イケメン揃いなので皆さんお楽しみに。

ただしお子さんが必要な場面は、全部画伯にイラストに差し替えてもらったんです。
それでもマンガチックにならないように、正しい身体の動きになるように
結構細かく注文つけました。ラフ見たあとの電話のやりとりでも、「ほら、今立ってみて。片足挙げてみて、身体の傾き、自然にはこうならないでしょ。だからこの脚の角度を描き直してください」とか言いながらなるべくマンガチックな動きにならないよう気をつけて描いてもらいました。

なぜここまでして「子どもの写真を出さない」ことにこだわったかというと
私の方針として、栗林先生が大地君に告げたことが正しいと思っているからです。

「障害があるかないかは自分で決めていい」

大地君をあくまでペンネームで出したのも
身元を守るのも
障害者として生きていくかどうかは、彼が大人になったとき、自分で決めることだと思っているからです。

佐藤氏の本の書評はこう続きます。

被告人を「責任を帰することのできる主体」とみるか、「福祉的保護の必要な人」とみるか。

ここで「福祉的保護の必要な人」と思いがちな人が、ギョーカイ活動するのだと思います。
でもそれが、すべての当事者に合っているものかどうかはわかりません。

それと

こういう保護的な態度を、当事者以外の人にも押しつける癖が、支援者たちにはあると感じています。

自閉症協会の全国大会でギョーカイメジャーが
「治療法を研究するのはかまわない。でも発表しないでほしい。人心が安定しない」とおっしゃったとき
この人にとって、保護者は責任ある選択権のある主体ではないんだろうなあと感じました。
ある意味、対等な人間と見ていないから出てくる発言です。

その人たちの言い分を、どこまで本気にしていいか
それは皆さんの自己責任です。

自己責任。この言葉ロンさんも使っていらっしゃいましたけど
主体的に生きていきたい個人にとって
これほど優しい言葉はありません。

ギョーカイではなぜか、忌み嫌われていますけどね。