ニキさんが時々「障害学」についての本に一文を寄せています。
詳しくはニキさんのサイトを見ていただければと思いますけど
私はニキさんが他社で本を出すと、献本は断り、必ずご祝儀に一冊自腹で買って読みます。
「障害学」がどういうものかまだよくわかっていませんが
ニキさんが寄稿する本は面白いですね。
色々な障害を持つ人が、障害を持つというのはどういうことか書いています。
今回、大地君の原稿を読んでいて
ああ、大地君も障害学を始めたのだなあと思いました。
小学校三年生になる前に、「アスペルガー」という診断が下りた大地君。
障害があるということはどういうことか、よく考えた一年だったらしいですよ。
例のそらパパのレビューにしても
内容ではなく編集方針を批判しているとかいう言い訳をして
「あのレビューは正当だ」と主張する人たちがいますね。
そういう人に限って、本は読んでいないんですけど。
先日もこういうやり取りを見ましたけど
支援者で、一応資格を持っている人間が
この程度の認識の軽さ。
支援者はいればいいってもんじゃないってよくわかりますね。
支援を受ける皆さんは
支援者の資質を見分ける目が必要ですね。
さて
藤居学が、そして周囲で読まずにあれこれ言うおバカさんたちがわかっていないことは
この冒頭の1Pをそこまであしざまに言うことを
大地君はこう感じていたということ。
=====
僕は「生まれてこなければよかった」と思いました。僕が生まれてきて、生きていて、頑張ろうと思うことでたくさんの人が傷つけられる結果になりました。僕は我慢が出来ませんでした。僕は正々堂々と手紙を書きました。その時は相手にもされなかったようです。今もなお返事すら来ません。
=====
その後も藤居一味による、名誉健常者だのキラキラ差別だの
頑張る障害者にとっては「揶揄」と受け取られるバカらしい議論はネット上で続き
そのたびに民度の低い藤居一味から、大地君一家に嫌がらせが続いています(イマココ)。
それは、大地君のご両親から藤居の代理人を通して伝えてありますが
それでも藤居はなんにもする気ない。
要するに、嫉妬でしょうね。藤居一味の。
自分の子どもは、発達しない。率直に言って。
そもそも大地君ほどまじめに取り組む気を見せない。
だって連中を見ると、愚痴ばっかり。やってるつもりの働きかけも、ダメダメ、効果がない。
入力と出力だけ見て下手な仮説を立て対処する→結果はかばかしくない。
連中が繰り返しているこの無駄な試みを私は「たまごっち」と呼んでいます。
「発達しないにはワケがある」っていう本を作れそうですよ。作らないけどね。そんな後ろ向きの本。
私は大大大博士祭りに乗ってバカ騒ぎした人々と、神田橋先生の本を先入観なく読んだ人々の発達の違いを
10年くらい見守るつもりですから。
行動しか見ない人と、体感を見る人の違いを
ずっと見守るつもりですから。
脳の可塑性を療育に入れる人と入れない人の違いも観察し続けますからね。
皆さんが私をヲチしてあれこれ言う権利があるように
私にもそういう権利があるからね。
先日も大地君の本に関して
「自分の子どもと比べてしまう気がして、なかなか読めなかった。読んだらいい本だった」という反応をいただきましたけど
大地君は特別な子じゃないですよ。
普通の子です。
会えばわかります。
笑っちゃうくらいふつうのあどけない小学生です。
でもラッキーだと思う。
なぜなら
わからないことをわかるように教えてもらっているから。
わからないことをわかるように教えてもらっているからやる気が出るんです。
修行が必要。
それは人間だから。
障害者だから修行するんじゃない。人間だからです。人間はみんなやっているんです。大地君のパパママだって。横綱白鵬関だって。天皇陛下だって。
それぞれの立場で修行があるんです。
大地君の本は、彼がどうやって教えてもらっているかがわかる本なんですけどね。
さて、どうして私が三冊目に
「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」というタイトルをつけたか。
大地君は諸々の事象を合わせ考えたんですね。
障害者であるということ
一生障害者であるということはどういうことか。
頑張るだけで揶揄されるやっかいな立場。
それが障害者。
それでいながら
きっと、頑張ってもみんなと同じにはできないことが多い。
配慮してもらわなくてはいけないことも多い。
でも昨日もここに書いたように
障害者だけで生きている世界はないんです。
障害者も社会の一部。
それに大地君は気づいたんですね。
僕はみんなと一緒に生きたい。
そのために何ができるか。
それを考えて実行した一年でした。
というわけで、タイトルをつけるとき
「社会」に「みんな」というルビを振ろう、と最初に決めました。
それからアートワークの相談に入って
社会の象徴として、街の風景を全面に敷くことに決めました。
暑い中小暮画伯が、暑苦しく汗を流しながら、細かな街の絵を描いてくれました。
この絵の中の公園にあるタコやカバの遊具は
すぐ怪我の責任を問う現代の風潮の中、廃れちゃったみたいですね。
今の公園には遊具はあんまりない。
このタコやカバは、小暮画伯が東京のど真ん中で育った少年時代に遊んだ公園の記憶です。
大地君自身にタイトルやアートワークに口を出す権利はありません。
ママにもありません。
これは花風社の事業だからです。
大地君やママは本の外側を作るプロではありません。そして私は素人ではなくプロを採用する方針を持っています。プロの人たちの力を借ります。そして最終的な決定権は私が持っています。
花風社の投資案件だからです。
だからラフが出来上がるまで、ママにも大地君にも見せませんでした。
でも大地君は、気に入ってくれたみたい。
ただ「転んでも泣かない」そうです。
それと「タコの上には危ないから乗らない」そうです。
わはは! たしかに大地君は転んでも泣かないし、タコの上には乗らない子だなあ。
けれども画伯に描きなおして、なんて言いません。
イラストは画伯の作品ですからね。画伯が持ったイメージで描けばいいんです。
そう、社会っていうのはね
どこからどこまでは誰々が決めていい、って決まってるんです。
それがわからないのも社会性の欠如。
社会性がなく
自分の発言権の範囲を理解できていない人たちが、「冒頭の1ページ目にあの文章を持ってきたのは編集上どうか」等無駄に話し合っていましたが
えてして保護者って「官」と「民」の区別がついていない人が多いですよね。
「官」と「民」は別々の論理で動いているので
その人たちに編集方針に口を出す権利はありません。
それで傷ついたのなら、読まなければいいだけです。
傷つかない人、勇気をもらう人、あるいはスルーできる人が読めばいい。
大地君みたいに、「社会(みんな)の中で生きたい」と思う人が読めばいい。
一生どこかで守られることを前提に
自分の子どもを接待され上手に育てたい保護者向けの本ではないです。
特別支援教育が始まったときには「ニートにしない」ことが大きな目的の一つだったはずなのに
だんだんだんだん「ゆとり」みたいになってしまい
なんだかなあ、と思っていたときに大地君の親子に会って、あのやり取りを見て
私は出版を決意したのです。
それがいやなら、最初から向かない本なのですから。
専門性のある支援者がほしい、と皆さんおっしゃるし
それは正当な要求だと思います。
でも有資格者でも、上記のような軽い判断をする人もいるのです。
「祭り」に乗っかって、まだ出ていない本の内容をはずして大騒ぎするような教師も実際現場にいるのです。
学校への配慮を親が求めても
「問題行動をとってもお味噌扱い」から「一人前の社会人にして」まで
親の要求もバラエティに富んでいるのです。
そのような混沌とした状況の中で、大地君の本は
「社会(みんな)の中で生きる」ことを目標にする人たち向けアイテムです。
少なくともマーケティングする側は、そう考えています。
子どもたちの方が、よく見えていることも多いようです。
お母さんが「本を出すような小学生とうちの子は違う」と思い込んでいても
大地君の本を読んだご本人が「僕と大地君はおんなじだ!」と喜ぶ。
お子さんの方が正しいですね。
お母さんが読み終わったあと、お子さんが読んでいて
「この本ひどい批判を受けているのよ」と例のレビューを見せると
「立ち読みの分際で何この人?」って言ったお子さんもいたそうです。
これも正しい判断のお子さんですね。
明日の講演に来てくださる方の中には
重度のお子さんに読み聞かせしている先生もいるようです。
なんだか響くものがあるらしいですよ。
画伯の描いた大地君の顔をなぞったり。
「体のスイッチ」の絵を見て毎日自分の体を起動させたり
色々な使い方をしてくださっているようです。
さて、札幌行ってきます。
今晩はすすきので前夜祭です。
明日本番ですから、飲みすぎないようにします(当社比)。
詳しくはニキさんのサイトを見ていただければと思いますけど
私はニキさんが他社で本を出すと、献本は断り、必ずご祝儀に一冊自腹で買って読みます。
「障害学」がどういうものかまだよくわかっていませんが
ニキさんが寄稿する本は面白いですね。
色々な障害を持つ人が、障害を持つというのはどういうことか書いています。
今回、大地君の原稿を読んでいて
ああ、大地君も障害学を始めたのだなあと思いました。
小学校三年生になる前に、「アスペルガー」という診断が下りた大地君。
障害があるということはどういうことか、よく考えた一年だったらしいですよ。
例のそらパパのレビューにしても
内容ではなく編集方針を批判しているとかいう言い訳をして
「あのレビューは正当だ」と主張する人たちがいますね。
そういう人に限って、本は読んでいないんですけど。
先日もこういうやり取りを見ましたけど
支援者で、一応資格を持っている人間が
この程度の認識の軽さ。
支援者はいればいいってもんじゃないってよくわかりますね。
支援を受ける皆さんは
支援者の資質を見分ける目が必要ですね。
さて
藤居学が、そして周囲で読まずにあれこれ言うおバカさんたちがわかっていないことは
この冒頭の1Pをそこまであしざまに言うことを
大地君はこう感じていたということ。
=====
僕は「生まれてこなければよかった」と思いました。僕が生まれてきて、生きていて、頑張ろうと思うことでたくさんの人が傷つけられる結果になりました。僕は我慢が出来ませんでした。僕は正々堂々と手紙を書きました。その時は相手にもされなかったようです。今もなお返事すら来ません。
=====
その後も藤居一味による、名誉健常者だのキラキラ差別だの
頑張る障害者にとっては「揶揄」と受け取られるバカらしい議論はネット上で続き
そのたびに民度の低い藤居一味から、大地君一家に嫌がらせが続いています(イマココ)。
それは、大地君のご両親から藤居の代理人を通して伝えてありますが
それでも藤居はなんにもする気ない。
要するに、嫉妬でしょうね。藤居一味の。
自分の子どもは、発達しない。率直に言って。
そもそも大地君ほどまじめに取り組む気を見せない。
だって連中を見ると、愚痴ばっかり。やってるつもりの働きかけも、ダメダメ、効果がない。
入力と出力だけ見て下手な仮説を立て対処する→結果はかばかしくない。
連中が繰り返しているこの無駄な試みを私は「たまごっち」と呼んでいます。
「発達しないにはワケがある」っていう本を作れそうですよ。作らないけどね。そんな後ろ向きの本。
私は大大大博士祭りに乗ってバカ騒ぎした人々と、神田橋先生の本を先入観なく読んだ人々の発達の違いを
10年くらい見守るつもりですから。
行動しか見ない人と、体感を見る人の違いを
ずっと見守るつもりですから。
脳の可塑性を療育に入れる人と入れない人の違いも観察し続けますからね。
皆さんが私をヲチしてあれこれ言う権利があるように
私にもそういう権利があるからね。
先日も大地君の本に関して
「自分の子どもと比べてしまう気がして、なかなか読めなかった。読んだらいい本だった」という反応をいただきましたけど
大地君は特別な子じゃないですよ。
普通の子です。
会えばわかります。
笑っちゃうくらいふつうのあどけない小学生です。
でもラッキーだと思う。
なぜなら
わからないことをわかるように教えてもらっているから。
わからないことをわかるように教えてもらっているからやる気が出るんです。
修行が必要。
それは人間だから。
障害者だから修行するんじゃない。人間だからです。人間はみんなやっているんです。大地君のパパママだって。横綱白鵬関だって。天皇陛下だって。
それぞれの立場で修行があるんです。
大地君の本は、彼がどうやって教えてもらっているかがわかる本なんですけどね。
さて、どうして私が三冊目に
「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」というタイトルをつけたか。
大地君は諸々の事象を合わせ考えたんですね。
障害者であるということ
一生障害者であるということはどういうことか。
頑張るだけで揶揄されるやっかいな立場。
それが障害者。
それでいながら
きっと、頑張ってもみんなと同じにはできないことが多い。
配慮してもらわなくてはいけないことも多い。
でも昨日もここに書いたように
障害者だけで生きている世界はないんです。
障害者も社会の一部。
それに大地君は気づいたんですね。
僕はみんなと一緒に生きたい。
そのために何ができるか。
それを考えて実行した一年でした。
というわけで、タイトルをつけるとき
「社会」に「みんな」というルビを振ろう、と最初に決めました。
それからアートワークの相談に入って
社会の象徴として、街の風景を全面に敷くことに決めました。
暑い中小暮画伯が、暑苦しく汗を流しながら、細かな街の絵を描いてくれました。
この絵の中の公園にあるタコやカバの遊具は
すぐ怪我の責任を問う現代の風潮の中、廃れちゃったみたいですね。
今の公園には遊具はあんまりない。
このタコやカバは、小暮画伯が東京のど真ん中で育った少年時代に遊んだ公園の記憶です。
大地君自身にタイトルやアートワークに口を出す権利はありません。
ママにもありません。
これは花風社の事業だからです。
大地君やママは本の外側を作るプロではありません。そして私は素人ではなくプロを採用する方針を持っています。プロの人たちの力を借ります。そして最終的な決定権は私が持っています。
花風社の投資案件だからです。
だからラフが出来上がるまで、ママにも大地君にも見せませんでした。
でも大地君は、気に入ってくれたみたい。
ただ「転んでも泣かない」そうです。
それと「タコの上には危ないから乗らない」そうです。
わはは! たしかに大地君は転んでも泣かないし、タコの上には乗らない子だなあ。
けれども画伯に描きなおして、なんて言いません。
イラストは画伯の作品ですからね。画伯が持ったイメージで描けばいいんです。
そう、社会っていうのはね
どこからどこまでは誰々が決めていい、って決まってるんです。
それがわからないのも社会性の欠如。
社会性がなく
自分の発言権の範囲を理解できていない人たちが、「冒頭の1ページ目にあの文章を持ってきたのは編集上どうか」等無駄に話し合っていましたが
えてして保護者って「官」と「民」の区別がついていない人が多いですよね。
「官」と「民」は別々の論理で動いているので
その人たちに編集方針に口を出す権利はありません。
それで傷ついたのなら、読まなければいいだけです。
傷つかない人、勇気をもらう人、あるいはスルーできる人が読めばいい。
大地君みたいに、「社会(みんな)の中で生きたい」と思う人が読めばいい。
一生どこかで守られることを前提に
自分の子どもを接待され上手に育てたい保護者向けの本ではないです。
特別支援教育が始まったときには「ニートにしない」ことが大きな目的の一つだったはずなのに
だんだんだんだん「ゆとり」みたいになってしまい
なんだかなあ、と思っていたときに大地君の親子に会って、あのやり取りを見て
私は出版を決意したのです。
それがいやなら、最初から向かない本なのですから。
専門性のある支援者がほしい、と皆さんおっしゃるし
それは正当な要求だと思います。
でも有資格者でも、上記のような軽い判断をする人もいるのです。
「祭り」に乗っかって、まだ出ていない本の内容をはずして大騒ぎするような教師も実際現場にいるのです。
学校への配慮を親が求めても
「問題行動をとってもお味噌扱い」から「一人前の社会人にして」まで
親の要求もバラエティに富んでいるのです。
そのような混沌とした状況の中で、大地君の本は
「社会(みんな)の中で生きる」ことを目標にする人たち向けアイテムです。
少なくともマーケティングする側は、そう考えています。
子どもたちの方が、よく見えていることも多いようです。
お母さんが「本を出すような小学生とうちの子は違う」と思い込んでいても
大地君の本を読んだご本人が「僕と大地君はおんなじだ!」と喜ぶ。
お子さんの方が正しいですね。
お母さんが読み終わったあと、お子さんが読んでいて
「この本ひどい批判を受けているのよ」と例のレビューを見せると
「立ち読みの分際で何この人?」って言ったお子さんもいたそうです。
これも正しい判断のお子さんですね。
明日の講演に来てくださる方の中には
重度のお子さんに読み聞かせしている先生もいるようです。
なんだか響くものがあるらしいですよ。
画伯の描いた大地君の顔をなぞったり。
「体のスイッチ」の絵を見て毎日自分の体を起動させたり
色々な使い方をしてくださっているようです。
さて、札幌行ってきます。
今晩はすすきので前夜祭です。
明日本番ですから、飲みすぎないようにします(当社比)。