Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

私はピアノ演奏の趣味を、あきらめた訳じゃあないですよ!

2024-03-11 21:25:39 | 音楽楽器・演奏・歌・楽典楽譜・ハーモニカ・カリンバ・電子ピアノキーボード
 私はこの所のブログ記事群で、何か一方的に、電子ピアノを辞めた形にはなっているが、決して、ピアノをあきらめた訳じゃないのです。
 その存在が、自身の趣味の中では、影が薄くはなっているが、全くあきらめた訳じゃない。いざとなれば、このコタツの台の上にのせて、今はそろばん、PCが一番に載せているが、電子ピアノとの交代劇も重々、あり得る訳なのです。
 ピアノを決して、敵対視している訳じゃありません。むしろ、いまだに素晴らしい憧れの存在として自身の中で輝き存在し続けています。
 それも、昨日の日蓮正宗無量山寿海寺での御講で、否、携帯での通話だったか、栃木のKさんに、そんなに多趣味ならば、日替わりメニューで、自分で予定や計画を立てて、趣味の時間の切り替えを行えばよい、の、励ましの言葉が大きいです。
 何も、一つに集中するばかりが能じゃない。私は、それらを、今日来た福祉関係者にも、その人のせいにして、曲一曲を、弾けるようになったら弾いて下さいね、と言われたのがプレッシャーになった、それも、その人以外にも、私の金銭管理を担う社協のあんしんサポートの方にも言われて、ダブルショックで、取りやめたのは事実かも知れませんが。
 私自身の努力学習不足を人のせいにしている事は否めませんね。実に卑怯です。
 しかし、栃木のKさんは、そんなのはお世辞で言ってるんだから、気にする必要などないし、言ってくれるのが有難いと、そこは受け取らなくちゃ、と言われました。
 その、今日来た、福祉の女性も、聞かせて、というのは、私は本当に聞きたいから言ったのに、と言われて、私は、片手で、「チューリップ」のドレミの歌位しか弾けないですよ、というと、「いいじゃない」と言って、まあ、私のこれも一人相撲の様相だったので、今までの考えが自身、凝り固まっていたな、とは思いました。
 向こうとしても、私を応援したくてふいに出て言った言葉でもあり、悪気などこれっぽっちも無かった訳ですからね。これは私が悪い。むしろ、善意に受け取らないといけない所、筈でしょう、ここは。
 でも、あの、88鍵の、ヤマハのピアノP-225は、音やタッチ、重厚な質感は最高に良い楽器、電子ピアノであり、演奏するには完璧なのは判り切っているから、お気に入りなのは今でも変わりません。が、いかんせん、場所も取るし、重量も重たい。
 だから、ここはカシオの、CT-S1の、電子ピアノか、それ以外にもまだうちには、ヤマハの61鍵、又、カシオの44鍵のキーボードが、これだけ持てれば、音楽三昧が、十分出来得るであろう、との、音楽人生には事欠かない、道楽者で物好きの私であります故。
 だから、本格的に弾くならば、ヤマハ88鍵。普段は61鍵、44鍵と、練習を、計画的に、予定を立てても良いのかな、とも思います。
 でも、計画を立てて、それが崩れるのを見たくない私は、おそらく、予定や計画は立てないで、やるのかどうか、です。
 計画倒れは、学生時代で身に染みて、判った事だからやらない、私に計画などは似合わないと思うのですが、これは私の信条、ともいえるのですが。
 けれども、それですら思い付きであって、大した信条でもないのです。
 先日から、だいぶ、「思い付き」という言葉がこのブログには出て来ましたから。ゴーイングマイウェイな私の事ではございますが。
 それが間違いならば、自分自身で、自動的に軌道修正する位の可能性、応用力は私は秘めて、持ち合わせています。だから、予定計画もあり、です。
 人生、どんとこい。それが有用ならば、やってみる価値はあるのだろうと考えます。
 飽きたり、諦めた訳じゃない、という事が、この稿では最も言いたかった事です。
 それは、ピアノと平行して、私のライフワークの趣味の、最近出て来た算盤や、PC、タブレット、スマホ、ラジオ聴取、複音ハーモニカ、カリンバ、デジタルカメラ撮影、音楽鑑賞、読書、短歌の作歌活動、その他、色々様々な趣味に応用していこうと、私なりに、考え、思っています。
 ラジオがあるなら、テレビ鑑賞も、私はこれはこれで、それなりに、立派な趣味だと思っています。
 私にとっては、ハッキリ言えば、なんだって趣味になり得る、という話なのであります。
 とにかく、意固地になったって、何にもいい事などありはしないのです。私は、心を、もっとより柔軟にフレキシブルにしなやかに、ニコニコと、笑顔で過ごす生活でいられる毎日でありたいと切に願い望んでいます。
 御本仏宗祖日蓮大聖人様の「懲りず候」(新編御書)の心境が、この年にして、改めて初めて判って来たような心地が致します。これをも、自行化他の折伏行にも応用していこうと、念じつつ、思い考えております。

 勿論、これらの趣味・楽しみ事の中心、基礎、基盤、土台となり得るものは、大仏法仏教哲学の金剛の如くの、日蓮正宗の御信心、日頃からの勤行唱題の御題目、それに応じた利他の折伏の慈悲の実践行。この仏道修行にのみこそあれ、それこそが正に芸を助けるのだ、人生を潤(うるお)すのだ、道を開拓してゆけるのだ、という事は、私を含めて万人にも匹敵して受用されるべく、遥かに凌駕して尽きせぬ想いであり、この信心以外には他には求めるべきものが全くなく、有り得ない事は、言うまでもない事でございます事を、ここに付言して、掉尾を飾りつつ、キーを叩き終えます。

 まあ、余計な付け足しですが、自分の事ばかりおしゃべりして、かつての日本の習いの昔の侍武士のように、「不言実行」が出来れば、一番に良かったであろう。

 現代人の私は、一言多すぎる。こういう時は、武士らしく、一言の言い訳もせず、潔く、ただ、単に、実行に移す。有言実行よりも不言実行の言葉の方が、私は真理のような気も致しますが。

 世界的には、日本人は何を考えているのか分からない、不気味だ、と思われて、有言実行という概念が出て来たのか。

 私は、やっぱりいつも、実行力がいまいち伴わないので、不言実行でも良いのかな。その時は失敗しても言い訳をしなくて済むから。幾らでも実行出来て、成功すればその時改めて自己主張出来る、と余計な弱気な事も思う、昭和の人間の私であります。

 とにかく、最初に一歩を踏み出す勇気を持つ事。そして、ただ、やれば良い。やり切る事。やり遂げる事。それは、何事も、やらないから出来ないんだ。その、やる為には、手段を択ばず。何が何でもやり抜く。山の頂上を見つめて、目指して、黙々と、決して愚痴・文句を言わずに目の前の事だけに一直線に取り組む。一足一足、歩を進めてゆく。他人と比べず、過去、現在、未来の、自分のみをじっと見つめ続ける。実行力・行動力が全て。つべこべ文句は言わない。まずは初めにやって見なさい。それからものを言いなさい。正にこれですね。至言。

 これらの教えは、全て日蓮正宗の御教えから教わった事。それらの縮図が今の以上の言葉。

 以上。よしなに。長文失礼。wainai

福祉相談室長、K女史、我が家へ来訪-今までの事は無しに、打ち解けて話し合う関係性

2024-03-11 15:48:34 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 福祉相談室長のK女史、が我が家へ来訪した。
 私はちょうどトイレに入っている所で、バツが悪かったが、何食わぬ顔で、対面した。 
 そして、私の話を聞いて、色々考えていた風で、最後には、相手側も、この年になり、あんまり、心臓にも体にも良くない事、一方的であった私であり、もう、本当に私が辞めるのかと思ったそうである。悪い事をしてしまった。

 それでも、私は調子よく、一人しゃべりを続けて、Kさんは、半分、眠くなったように、居眠りしながら私の話を聞いているので、そんなに私の話が眠くなる、説教がましいのかな、と個人的には思った。

 とにかく、その後、福祉まるごと相談のS藤氏にその後の一報を電話で入れると、私からも、個人的に済まなかったと、相談室側へはショートメールでは謝罪の言葉を入れていて、今回、丸く収まったので、良かった、と私もS藤さんも言い、それに対して同意のお言葉も頂き、私は恐縮した。
 
 今日は、私から正式に、謝罪を告白するのは控えめだったきらいがあったのが、それを今は後悔をしている。何度も謝るのが、何か、こちらが引け目を感じて、卑屈になり過ぎるのではないのか、との考えが私を支配する、これも、一種の被害妄想であろうが、謝っていれば、もっと相互の理解も今以上に深まったろうに。
 謝罪する事が、自分で恥ずかしいとの、照れ、もこの年でも勿論ある。有り過ぎる位、有る。それらが分かってもらえないもどかしさ。

 とにかく、福祉相談室長のK女史は、私が、個人的な悩みは、そうやって、すぐムキになって怒ったり、時には涙を流して悲しんでみたり、感情の起伏が激しいのは、これは私の年の初めの、今年は平和主義者で行く、との、想い、理念にも反する行為なので、K女史も言うのだ。それは、仏教的な世界観からも外れた行為なんじゃないの、と。
 
 それ以外にも、私の買い物が、どうしても、アメリカ発の、アマゾンでばかり買い物をしているので、時には、地産地消を心掛けたら、と言われたが、それは私も同意なのだが、今回の算盤は、どうやら郡山市内には売っていない感じだ。昔はやまのいカルチャーセンターがあった時が華だったのに、というと、あそこはなくなったの?と聞き返され、とっくに無くなった、と私は答えた。
 とにかく、市内の文房具屋のどこを探しても、算盤など買えない、というと、大槻の文具房という、大型文具店はどう、と言われたが、あそこも今は知らないが、その、二十何年前に既に私は確認済みで、無い、と言われた事を言った。
  
 とにかく、私のこの、相談室とのお話しも、一時間を経る前に、午後一時四十五分頃から始まったのだが、二時半を回ると、これから三時から、別の約束があるのだ、と言って、Kさんは颯爽とうちを出て行かれた。

 その後に、福祉まるごと相談の電話窓口に電話した訳だ。
 とにかく、今日は、関係性が終わりだと思われながらも、必死で、ショートメールが元で、印象が悪くなったのを、その後の同じメールで、謝罪に次ぐ謝罪で火消しに躍起となり、それが奏功したのかな、との想いが非常に強い。

 一度は許されても、おそらくは、二度目は、許される事などないのではないのか。しかし、私とは、そこの相談室とは、これで何度目の衝突だったろうか。何度か心配をかけている。そこが、私の配慮が足りない所であり、症状、病気の所なのだと思う。

 こうやって情けを掛けて頂いている、その事実、その結果に、ただ、喜びと感謝を捧げなければ、これは、虚妄、恩知らずの汚名を着た事になる。

 これは、相手が女性達だから、私はあと腐れもなく、何とか許されているのかな、とも思うが、そんな性差などは、この場合、きっと関係はないのかも知れない。

 その相談室のK女史さんも、今は、セクハラ(セクシュアルハラスメント)、パワハラ(パワーハラスメント)、カスハラ(カスタマーハラスメント)、モラハラ(モラルハラスメント)、ストーカー行為等々…、と、幾つものハラスメント、つきまとい、嫌がらせ行為が沢山概念が出来上がり、コンプライアンスで法的にも、違反、違法となり得る難しい厳しい時代だから、利用者さんと言えども、昔の様には振舞えなくなって来ている。利用者が加害者と成り得る事共も同時にあり得る事を、強く訴えておられた。

 口は災いの元、とはよく言ったものだ。一時の感情だけで人と話してはいけないのだ。自分の中でよーくと噛んで含んで咀嚼して、考えを巡らせて、用意周到に発言する。その際は、自分に非はありはしないか、を十分弁えて、細心の注意を払って、気を付けて発言をして、それに責任を持つ、一人の大人として。その一言で、誰か傷つく人はいないか、それを良く深く考える事。

 しかし、折伏に於いては、相手におもねるのは厳禁だ。しかし、相手の話にじっと注目し、傾倒、傾聴して、よーくお話を聞かせて頂くのは、これは鉄則だ。自分が語るよりもまずは、相手の言い分を徹頭徹尾、徹底して聞く。聞き役に徹する。

 その上で、反論が必要ならばする。その折伏の正論を述べるのは、相手の話の最後の最後に、こちら側が最終的に打って出る事である。相手の間違いを破折する。決して相手の人格までは否定しない。その依って来たる思想の誤り間違いを指摘し批判しつつ、やんわりと折伏する。
 こういったスタンスが、日蓮正宗の折伏行ではなかろうか。感情的になるなどは以ての外で、御法主日如上人猊下様が常々非難申し上げている、「折伏はケンカでは決してない」を信徒として守っていない事となる。それは一番に、避けなければならない事である。

 昔、孔子は「論語」で、巧言令色鮮し仁、といって、言葉が巧みで、発言を多くする人には、誠の、仁、愛や、慈悲はまれで少ない人が多い。むしろ、寡黙で、言葉を慎み、発言を控えて抑えている人の方の味方を、立派な御仁だと、孔子様は制したのだ。正に、今の議論は、それだ。(おしゃべりの私には痛い言葉だが)

 ただしゃべっていれば、無駄口叩いていれば、思い付きを話せば、いいと言うものでは決してない。そういうのを仏法上でも「愚痴」と言う。言わば、仏教でも御法度の「貪瞋痴」の三毒、小罪・大罪なのである。

 言葉とは余程、選んで人と話さなければならない、との想いを強く懐いた、今日この頃である。

 以上。よしなに。wainai