能登へはこういう応援職員さんが派遣されていたのですね。
13年前の自らの体験を生かして被災者に寄り添う彼は頼もしい存在です。
段々忘れられてゆく能登地震の事も3月11日が近付くことで
こういうまとめ方をした読売新聞の記事が秀逸。
「頑張ろうな!」と励まされた「あの日の中学生」、今度は能登で「きっと戻るよ」と元気づける
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[東日本大震災13年 あの日から]<5>
故郷を訪れた横山さん。県職員として地域の未来を見届けるつもりだ(2月25日、宮城県南三陸町で)=富永健太郎撮影
能登半島地震で1000棟超の住宅が全半壊した石川県能登町。「仮設住宅はどうなるの?」「住むところがない」……。1月29日夜。避難所の町立小木中学校で、被災者らがストーブを囲み、口々に今後への不安を吐露していた。 【定点空撮】59か所で13年間、空から記録した復興の歩み
輪に加わる宮城県職員の横山零さん(27)には、気持ちが痛いほどわかった。避難所運営の応援に入って3日目。少しでも勇気づけたい。中学生だったあの日の自分が、心細さを埋めてもらったように。
いつまで待っても迎えは来なかった。同級生たちは親と無事の再会を喜びながら次々と帰って行く――。
当時、宮城県南三陸町立志津川中の2年生。13年前の3月11日、教室のカーテンの隙間から、街をのみ込む津波を見た。教室で一夜を明かした。翌朝。迎えに来た親と一緒に帰る友人らの背中をただただ見送った。「取り残されたなあ」
両親も、小学生の妹も、消息はわからないまま。教室の床に段ボールを敷いて過ごす夜。毛布もなく、学校にあった暗幕にくるまった。寒くて、ひもじくて、心細くてたまらなかった。
数日後、小学校に避難していた妹の無事がわかった。父親とも連絡がついた。しかし、母親の行方はわからない。妹は先生がいる小学校、持病がある父親は病院に身を寄せ、それから数週間は一人で避難所になっていた志津川中で過ごした。
「頑張ろうな!」。ボランティアの励ましがうれしかった。炊き出しの温かいみそ汁は、体に染み渡る。ある日、頼まれて物資運搬をしていると声をかけられた。「ありがとう。若い力があると助かるよ」。沈みがちな気持ちが晴れ、率先して手伝うようになった。
1か月以上が過ぎた頃、母親の由美さん(当時42歳)=写真=の遺体が見つかった。近所の人と手をつないで避難中に引き返し、津波に巻き込まれたようだった。
「宿題はやったの?」が口癖の教育熱心な母親。しばしば叱られた。でも、それ以上によく笑う人だった。編み物が趣味で、小学生の頃、教わりながらマフラーを編むと、「上手にできたね」と褒めてくれた。