DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

茂木健一郎/思考の補助線★拡散と収束

2009-01-30 | 
茂木さんの『思考の補助線』。
すべての学問が、拡散と収束を繰り返す(べき)ものであることへの
自覚の必要性を強く訴えている文章を読み返しながら。

断片にしなければ見えない断面、断片にしてしまうことで見えなくなる全体。
1つが「わかる」ことで、増える新たな「わからない」ことごとは
断面積が増えるのと同じなんだろうな、と体感的に理解。

進化生物学をはじめ、あらゆる知的な営みにおいて、「評価関数」は、つまりは後づけによって与えられる。価値の評価における「収束」は数量における「拡散」によってこそ担保されている。この根本的な両義性、ダブル・バインドな状況の中に、生物現象のみならず、私たちがおよそ人間の精神活動について考えるうえで避けて通ることのできないエニグマがあるように思われる(「収束性」という罠/p214)

後半、多様性と拡散を「よし」とし、「収束」を価値の普遍化として認めつつも警戒する、でも実際は「収束」させねばいつまでも形にならない、そうした茂木さんの葛藤というか焦燥感が伝わるようで、こちらもそわそわしてしまった。
実際に様々な体験に臆さず飛び込みながら、真摯に「思考」に向きあう茂木さんは、本当に凄いなぁ、と子どもが巨人をみあげるがごとく感嘆をもって思います。
同時代に出会えて本当によかった・・・。
とメメはぁと♪なラブレターモードにはいりがち(汗;

で。そういう文章を行きつ戻りつ、ちょっとつっかえながらも飲み下しつつ、
あ、ブログもそうかも、と思い至った。

多様性と専門性、拡散することでの多様性が担保する収束の精度。

1~2年目、とにかくたくさんのブログを訪問し、コメントを残し
TBし、バトン他の多くに参加していただける記事を書き、
オフも経験し、交流する至福も実感し、
向きあった真摯なコメントも、気軽なジョークのようなコメントも、
巡回型・ごあいさつ型のコメントも、通りすがりコメントも、
豊かなるコメント応酬も、
悲惨なるトラブルも、トラブル時に相手をスルーできない「(オロカ極まりなく、でも実はさほど嫌いではない、あは)自分」などなども 
経験し、
時折「ブログを書く意味」を自分に問いかけながら、
経験価値をそれなりに蓄積しながら、
最近は私なりに以前よりも自由度を得て
ブログとは、という問いかけを持ち続けた前半よりも、はるかに
「私のブログ」そのものを楽しんでいる(てか、通常はそういう意識すらないレベルで)。
前半が拡散だとしたら、現時点が一種の収斂なのだろうと思う。
精度は別としても。

・・・・で、いつもながら&まことに残念なことながら
こうして文字化することで、自由度含めての「気ままさ加減」みたいな“なにか”が
損なわれるという、パラドックスも感じつつ。ま、それもいいか。

ついでといってはなんですが、
以下、『思考の補助線』の個人的ドッグイヤーポイント♪

極言すれば、脳は「他人にほめられるように」変化していくのである。(中略)コミュニケーションのダイナミクスが「同化作用」をもたらすか、それとも「個別化作用」をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中にある。(中略)そもそもコミュニケーションがなければ、「同化」も「個性化」もありえない。(「個性」を支えるパラドックス/p081~082)

ここに、コミュニケーションを通じて人々が個性を磨く際のきわめて重要な問題が提起される。すなわち、人間の「個性」とは、他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。(「個性」を支えるパラドックス/p083~084)

「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。(中略)「差別」の対義語として「平等」を借定する思想的態度は、順序関係という写像への信奉によって非常に強く条件づけられている。
「差違は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差違を隠ぺいして、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界がお互いに比較などできない多様なものによって構成されているという豊饒さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。
(中略)
身長が低い人を「垂直方向に挑戦されている」(vertically challenged)
と言い直す。(中略)「エスキモー」というのは「生肉を食べる人」を意味し差別的だということで「人」を意味する「イヌイット」と呼んだりする。(中略)そこに隠ぺいされているのは「みんなちがって、みんないい」という多様性の賛歌ではなく、むしろ本音では単一の価値体系を信じている、単純なる世界観であるということになろう。(「みんないい」という覚悟/p098~099)

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ジャングル大帝★異色コラボだそうです。

2009-01-30 | アニメ・マンガ・特撮TV
「ジャングル大帝」今夏復活!異色コラボも(サンケイスポーツ) - goo ニュース

昨日に引き続きまたまたアニメなコラボネタ。
コナン×ルパンのようなメディア超えたコラボ、
海外含めた実写化、別作家によるリスペクト作品集、etc.
いやコンテンツ産業とはまさに複製と加工・再生文化なのだろうけれど。
でもって、『銭ゲバ』といい、なんだか過去の(あっしの幼少期~子ども時代な)遺産を巡る冒険な様相を呈している今日この頃なTVカルチャー。
それにしても・・・「ジャングル大帝」ですかぁー、うーん。

実は大御所・手塚御大の作品は「凄い!」と思うものの
好きかどうか問われるとけっこう微妙だったりするのでした。
ゆっくりとゆっくりと効く「毒」がある。
個人的に「世界」や「宇宙」「現世」に対する啓示を与えられた、
多分、生涯ベスト1の漫画『火の鳥』ですら。
超メジャーな『鉄腕アトム』や『マグマ大使』ですら。
『きりひと讃歌』『奇子』『アポロの歌』のごとく
読後にばしっと来る即効性のものもあるけれど、
大人になってから気づく、そういう長くゆっくりとしたスパンで。
なんというかとてつもない厭世観や人間に対する不信感、
そういう独特の凝縮されたほろ苦さ。
人間の「情けなさ」「しかたのなさ」のようなもの。
人類愛、宇宙への果てしない憧憬、そういった壮大なテーマの底を
重低音の暗さが流れている。
だからこその光なのかもしれないけれど。

「ジャングル大帝」というと、レオのセイフティブランケットなパンジャの毛皮
(なにげなく見てたけど、父親の骸だと思うと悲壮に切ない;)と、
肉食動物に肉を食べるのを禁じ菜食レストランを運営するお話、
最終話のひげじいさんとの最後の会話を思い出す。
理想と現実の乖離、すべてがしあわせになる世界は難しいことを
子ども心にたたき込まれた。

アニメーションとしては、サバンナの雄大さ、
さまざまな動物のさまざまな動きや営み、
レオとライヤの微笑ましいロマンス、見どころたくさんで
楽しみにしてはいたのですが、ジャングル大帝が好きか?と
問われるとやっぱり微妙なのだな。

ちなみにレオは今でも描けちゃう手塚キャラの1つデス。

あ、テーマ曲はOP、ED共に文句なしに好きです。
カラオケでもけっこうな頻度で歌いマス♪えへ
富田勲スバラシー!!

ジャングル大帝OP

歌詞あり版は、大きな声で歌うと胸が開く感じで気持ちいいっす。
今改めて見ると、回り込みとかナチュラルで、フラミンゴの大軍とか
もうこれだけで世界が現されてるんですねー、やっぱ凄い。

ジャングル大帝ED

弘田三枝子さんのハリのある力強い声、ひさびさに聞き惚れました♪

たまごの赤ちゃん

・・・これ知らなかった;;いいっすねー!

関連:
手塚治虫さん原画初のCDジャケット
・・・なるほど、コンテンツ管理ビジネス=資産運用でもあるわけですね~。
真氏も47歳かぁー
ショーン・レノンのCMをみると何故か彼を思い出す。

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