武家政権以前
迷彩の中世
いきなりの多量の武士の画像。この男性たちは中世に活躍した人のごく一部。約800年間の日本の中世は新たな人々や集団が次々と登場した。乱世は魅力的な人物や事件が無尽蔵にあるが、この連載は女性の歴史がテーマなので、時代の経緯を追うことに大きなスペースを割くことができない。しかし、時代説明を省略しては女性のくやしさはわかってもらえないので、仕方なくイントロの画像だけ?
(左上⇒右上⇒左下⇒右下の順でご覧ください)
以下の8名は時代区分の変わり目にいた人たち
●源頼朝 北条泰時 新田義貞 足利尊氏
●足利義昭 後醍醐天皇 織田信長 豊臣秀吉
次の8名は個人的に気になる人物
●クビライ 平将門 平清盛 木曽義仲
●源義経 楠木正成 高師直(こうのもろなお)山名宋全
深く考えないで。単なる私の趣味です。
ややこしい時代区分
平安時代のあとの時代区分、江戸時代まで、覚えている? なにかこんがらがっている人が多いね。私もそう。時代区分は、鎌倉、室町(南北朝)、安土桃山。
●時代区分
平安時代は794年桓武天皇の平安遷都から1185年まで。
鎌倉時代は1185年源頼朝が征夷大将軍になったときから、1333年に執権の北条得宗が新田義貞に滅ぼされたときまで。
室町時代は1336年に足利尊氏が京都に入ったときから、15代の足利義昭が京都から追放された1573年まで。
南北朝時代は1336年に後醍醐天皇が足利尊氏によって都から追放されて、大和吉野に南朝を樹立し、1392年に南北朝が統一されるまで。
安土桃山時代は、1573年に織田信長が足利義昭を追放してから1603年に家康が征夷大将軍になるまで。
時代の流れとしてはつながっているのに、時代区分がこんがらがるのは、天皇と武士の不思議な共存や、武家政権でも源氏が途中で滅び、北条氏に代わったけど、征夷大将軍じゃなくて執権だし、幕府は鎌倉のままだから「鎌倉」でまとめちゃおうみたいな? 朝廷が京都と吉野に分かれたり、それに信長と秀吉だけじゃないから戦国時代にすればいいのに、天下統一ちょっとやったから安土桃山にしよう。そんな感じ?
日本の中世は、朝廷は絶対王政ではなく、天皇の位を退いた上皇が主導する院政。武士が登場し、主役になり全国を統治するようになる。内乱はあちこちで起き、それは朝廷の内部だったり、武家どうしだったり、対外国だったり。主だったものだけでも、天慶(てんぎょう)の乱(平将門、藤原純友)、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役、保元・平治の乱。治承・寿永の乱(源平合戦)。応仁の乱。権力と関係ない庶民にとっては迷惑この上ない。鎌倉新仏教と呼ばれる仏教の変革がおきて力をもつようになる。中国の宋や元との貿易、蒙古襲来…。
権力が分立しているが、迷彩柄のように組みあって、結びついている。あ~ぁ、ややこし。どうするべ? 教科書じゃないんだから、迷彩は迷彩のまま、興味のあるところを切り取っていくことにしました。その時々の時代をみながら、女性がどう生きていたかを考えていきます。
どうして武士が登場したか?
まず、鎌倉で武家政権ができる前まで。
武士とは何か?いつ、どこで誕生したか? そんなことぶっ飛ばして、女性の問題から始めてもいいのですが、武士(男社会)や戦争は女性にとって大問題。鎌倉時代から武士の政治は7世紀もつづきます。武士という警備や軍事という職能集団がどうして人民を統治するに至ったか?
戦争への痛烈な悔恨から軍隊を持たないことにしたのに、また「新しい戦前」なんて…
明治からの近代も軍事に頼った政治。今日の日本も、急速な軍事国家に向けて「新しい戦前」と言われています。憲法で軍隊を持たないはずなのに戦争準備で、南西諸島を基地化し、自衛隊を臨戦態勢に整え、アメリカからどんどん武器を買っているなんておかしい。軍隊がなければ戦争も動乱も不可能。戦後日本は、戦争への痛烈な悔恨から軍隊を持たないことを決断した。なのに、戦前なんて…。
今より1300年前からの奈良時代からの律令政治は、天皇は自前の軍隊は持たなかった。なぜなら、一般農民である公民1戸から1人を徴兵する仕組みにより、巨大な軍隊を持っているのと同じだったから。でもその徴兵制が廃止された後でも、天皇のための軍隊を整備しようとした気配はない。武芸に秀でた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)みたいな貴族はいた。それが蝦夷征伐で軍功をあげて郎党と共に朝廷から独立して武士になった、というわけではない。武士の中心にいたのは朝廷外の平家と源氏。武士が朝廷を滅ぼしたのではなく、朝廷が武士の台頭と成長を許し、朝廷と武士政権の不思議な共存が始まる。
天皇の軍隊不所持という決断。軍事化コストを国民に押し付ける岸田政権より現実的だった?
まず私は、蝦夷(えみし)とか隼人(はやと)とかに対してはかなりの侵略体質であった天皇(貴族階級)がどうして軍隊をもたなかったのか?について考えてみた。
遣唐使派遣や防人(さきもり)などの経験から、大陸の中国や朝鮮からの侵略に対しては、大陸からの侵略の恐れが少ない。海を越えるという多大なコストをかけて、こんな財力もない国を滅ぼしにくるだろうか?これまで過剰防衛だったのかも?と、お公家さんたちは学んだのだと思う。防人廃止、大宰府(だざいふ)廃止…。
岸田政権の「敵基地攻撃能力保持目的で軍事予算倍増」より古代貴族の「コストがかかりすぎるので軍隊停止」のほうがよほど現実的だし、誠実だ。アメリカの追随のために危機をつくりだし、その軍事化コストを国民に押し付ける岸田政権。律令国家体制の人民は荘園支配に苦しんでいた。今の私たちも税金など国への負担に苦しんでいる。状況は千年たっても変わらない。
中世より明らかに劣化している今の政治
政治は中世より明らかに劣化している。当時のお公家(くげ)さん会議は、今の閣僚会議より戦略的には優れている。
院政の森喜朗(86歳)、麻生太郎(82歳)は、白河、鳥羽、後白河の足元にも及ばない。
女性も美福門院(びふくもんいん)、待賢門院(たいけんもんいん)は主役級の働き。キャラが立っていてドラマだねぇ。昭恵、高市早苗、杉田水脈じゃ端役すぎて下品でお話しにならない。
上から ●美福門院 ●鳥羽上皇 ●待賢門院
●保元・平治の乱合戦図屏風
武士のルーツは上皇の側近や天皇の子孫。農民がルーツだなんてあり得ない
武士の起源は諸説ありますが、いつものようにkokiの偏見と好みで筆を進めます。
武士の起源は、教科書には「地方の富裕な農民が、開墾した土地を貴族から守るために、武装して武士になり領主となった」と書かれているらしい。これはデタラメに近い。
活躍した武士のルーツを調べると、源頼朝は祖父が上皇の側近、平清盛は桓武天皇の子孫。
足利尊氏は父が鎌倉幕府の御家人など。農民がルーツなんて一人もいない。
それに荘園から武士が生まれたというのも、荘園面積が拡大すると守るには武士が必要だろうと関連付けただけ。
武士の、弓矢を持ち馬上で戦う技術の習得は、農民生活の空き時間にはやれないし、武士のルーツが貴族階層だというのは、朝廷から追放された不遇の貴族が武士として復活というほうが説得力があるし証明もされている。
また、ただの荘園警備隊のチンピラ同士のグループ闘争の結果、幕府設立までいくだろうか?武士が弓矢と乗馬のスペシャリストというのは第一条件だが、領主というのは武士の必要条件なのだろうか?
朝敵とされた平将門(たいらのまさかど)は「兵(つわもの)」という兵士身分で「武士」ではないし、荘園の領主という記録もない。なのに、将門以前の源氏(子孫には源頼朝や足利尊氏などがいる)のルーツの源頼義が「武士」なのはなぜだ?
中世がわかりにくく、武士の起源を「農民が武士化した」とか、「朝廷の軍事部門が武士として独立した」とかにしちゃった方がわかりやすい。こういうご都合主義の教科書で小学校から高校までの歴史の授業。受験のために、時代を追わずに事件だけを暗記語句にしていては、歴史から学ぶことはできない。
高校生に自衛隊から募集パンフが送られてきて、「サムライにっぽん」「サムライブルー」のノリで軍服着せられて、訓練の途中で、女性自衛官にレイプまがいのことをして、そんなのは「歴史をきちんと学んでいたら、ありえない」と…、私は言い切ってもいい。
天皇も武士も、土地(公地であれ荘園であれ)と税がなければ生きていけない人たち。人民が税を払わなきゃ成立しないのだよ。農民が米をつくっているのに、毎日の食事は粟(あわ)やキビのおかゆ。食うや食わずでも年貢はきっちり取られる。
土地なんて耕さなくても、まず自分たちが食っていけなきゃねと、人々は土地を離れて自由な民となった。それが「中世の自由」。土地を所有しなくても「自由」はある。そんな網野善彦さんの歴史観が一時期ブームになった。私もファンだった。
武士は戦士身分から中央の官職を経て、武家の棟梁(とうりょう)は国家の軍事司令官、やがては軍事的決着を経て国家権力を掌握する。その武士は朝廷を滅ぼすことなく、朝廷の官位をもらって権威付け。武士が天下をとるというのもなんか中途半端。
摂関政治から院政へ
公地公民制というのは、土地も人民も天皇のものだから天皇に税をとる権利があるというものだけど、誰も天皇に搾取されるためだけに土地を開墾したりしない。だから自分で開墾した土地は私有を認めるという「墾田永年私有法」ができる。
公有農地があってそのそばに「荘園」ができる。土地は土地を使用している者が支配しているが、もっと強い者に寄進しておけば、奪われにくくなると考え、農民から地方の貴族へ、さらにもっと上位の公家とか寺社などの所有へと何段階も寄進の連鎖を繰り返すようになった。「荘園公領制」と言われたりする。
連鎖は天皇まで届かない。だから、後三条天皇が荘園整理令を出し、新たに荘園を設置することを禁止、さらに遡って設置の手続きに不明な荘園を廃止した。
●慈円
摂関の子である僧の慈円は、天皇の位について「幽玄の境」といい、宮中の奥でありがたく畏れ多い雰囲気をたたえている存在価値のないものとし、幼帝が多く、40歳までに若死している現状での摂関政治の重要性を説いた。
後三条天皇はお飾り的存在では人々の心を安定させることはできない、譲位後も政務を担当すべきと、在位5年で白河天皇に譲位し、政治の中心は天皇の位を退いた上皇(院)へと移っていった。最初、院政を支えたのは院の近臣の中下級貴族たちだったが、やがて、摂政・関白なども天皇でなく院に仕えるようになる。
1086年に白河天皇が譲位してから1180年の鎌倉幕府成立までの180年ほどは院政期と呼ばれる。具体的には白河・鳥羽・後白河の3人の院政。武士の台頭と結びつき、激動の院政時代。
●院政期の天皇系図
武家政権になるまで
武家政権の始まりは鎌倉幕府といわれるが、武家とは武力行使を家業とする家柄。多くの武家は平氏と源氏につながる。両方とも系統があり、源氏は文徳源氏(もんとくげんじ)、清和源氏、平家は桓武平氏、伊勢平氏、奥州藤原氏は、源氏・平家とは別で、秀郷流藤原氏。
最初は「京武者」と呼ばれていた武家は公家からすれば、野蛮で異端扱いだったが、源氏も平家も朝廷から官位を与えられて、朝廷と結びつく。
●保元・平治の乱 関係図
1156年の保元の乱、朝廷は後白河天皇と崇徳(すとく)上皇に分かれて権力争い。平清盛と源義朝は後白河天皇側につく。清盛10名の武士に対し、義朝は75名の動員(「保元物語」)なのに、天皇からの恩賞は圧倒的に清盛に厚く、義朝の平氏討伐の密かな火種となった。
平治の乱の後、1159年に源義朝は後白河天皇の寵臣信西(しんぜい)と組んだ平清盛を打倒しようと挙兵し、後白河を幽閉し、信西を殺害したが清盛に敗れ、義朝は敗走後死亡。
清盛は武家の最有力になり、最後は太政大臣。3か月で引退して出家し神戸福原に遷(うつ)るが、政治的な影響力は強く、子どもたちを朝廷の官職につけ、さらに娘婿の高倉天皇の親政で、要職についていた40人もの貴族を解任したり、後白河上皇を幽閉して院政停止。政治は高倉天皇と平氏の内儀(秘密会議)で決め、「平家にあらずんば人にあらず」の事実上の平氏政権。
武士の起源
武士の起源については、私は桃崎有一郎氏の新書(ちくま新書「武士の起源を解きあかす」)を読んで、疑問が解け、すごく納得したので興味のある方にはおすすめです。武士は地方の豪族と都に由来する貴族のハイブリッド。地方(牛乳)に酵母(貴種)を加えたチーズが武士。こういうたとえ大好き。
一時は平氏が朝廷を牛耳るが、すぐに失敗し、結局は東国の源氏がうまくいく。でも、頼朝にしたって天皇を滅ぼそうという選択肢はなく、権力が空洞化した朝廷から「征夷大将軍」をうやうやしくいただく。朝廷を滅ぼす選択肢もあったはず。それがわからん。大河ドラマの「鎌倉殿の十三人」でもスルーしていた。
敗戦で天皇制をやめることもできたし、平成天皇の生前退位は天皇制を考えるいいチャンスだった
最近では第二次大戦の敗戦で、天皇制をやめることもできたのに、GHQの預かり。直近では2019年に平成天皇が自ら象徴天皇の座から退位する。オウンゴール的行為だ。天皇制を考えるいいチャンスだった。
今の政権は憲法改正で再び「天皇バンザーイ」の社会にしようとしている。スポーツ界では「侍ジャパン」や「サムライブルー」と浮かれているが、私は「サムライ」に違和感を覚える「変態体質」だ。自衛隊も愛称化を検討しているという。「ミリタリージャパン」?「ソルジャージャパン」?のスカウトなら若者はついてくる?若者たちもなめられたもんだね。
なにがなんだかわからない。
サムライというなら平将門(たいらのまさかど)。朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に強気をくじき弱きを助け、「帝(みかど)を打ちとりたてまつらん」。自分は「新皇」だ。関東は独立だ。あげく逆賊になり、打ち取られてしまう。首は平安京で晒(さら)され、数カ月たっても目を開いたり閉じたり、「もう一度首をつなげて戦う」と叫び、故郷の東国へと飛んでいった。このわかりやすさなら私は理解できないではない。
●「秀郷草紙」 将門の首を掲げて入京する藤原秀郷
●歌舞伎 「忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)~将門」
・平将門の「首塚」
今回は女性が出るチャンスがなかった。代わりにスポーツ界でも女性の「〇〇ジャパン」なら、こんなにステキ。応援しよう!
●なでしこジャパン(サッカー)
●マーメイドジャパン(アーティステックスイミング)
●フェアリージャパン(新体操)
●火の鳥NIPPON(バレーボール)
次回は、時代の流れのつづきを簡単にやって、鎌倉という武家政治、封建時代に生きた女性たちに筆をすすめたいとおもっています。(koki)
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