8月1日の習志野俘虜収容所にちなんだ音楽会に千葉女子高校の
オーケストラ部も特別参加することになりました。
日時:8月1日(水)13:30 場所:習志野市民会館
(東京新聞7/23記事)
8月1日の習志野俘虜収容所にちなんだ音楽会に千葉女子高校の
オーケストラ部も特別参加することになりました。
日時:8月1日(水)13:30 場所:習志野市民会館
(東京新聞7/23記事)
旧習志野市役所跡地の利用について様々な意見が集まっていますので紹介します。
【Aさん】
【Bさん】
🔹市民に必要な施設がほしい。
乳幼児から高齢者までもが利用できる施設。
・生涯学習センター
・地域交流センター
・児童館などの機能があるセンター
・市民交流カフェ
🔹市の歴史などの保存
・郷土資料館も兼ねて
・図書館、アーカイブスなど
【Cさん】
鷺沼城があった土地に建てられた旧市役所です。
土地が持つ、土地が辿った時間を多くの市民に、まず知らせたいです。そして、そこに役所が建ったいきさつも伝えたいです。
ヨーロッパ(と言いきれませんが)は、“まち”が教会や市庁舎を中心に、放射線状につくられています。
私は、この旧跡地を“まち”の軸にしたいです。
新庁舎もありますから打ってつけです。
運行しているハッピーバスは必ず通ります。
商業ベースではなく、“まち”が見え、住む人が見える場所にしたいです。
ただ、具体案は浮かびません。
私たちの声が反映されるよう努力したいです。
【Dさん】
●大事な一等地です。絶対に売らないで、市民が集える場所にしたいです。ただし、建物自体が危険な状態なので、急いで取り壊しをさせたいです。
●生涯学習の拠点としたいです。
●子ども高齢者も一緒に集える場所。
①高齢者施設(特養など)
②保育所
③小さな図書館
④手軽に使える会議室
⑤お祭りなどの拠点…などなど
【Eさん】
一般の人たちにとって、市役所は手続きに行くだけのものでしかありません。もし、役所に行くことで、たくさんの楽しみがあれば、大勢の人で賑わうでしょう。
旧庁舎の跡地は、毎日が習志野キラッと祭のように、人々が集う習志野銀座になったら、と夢見ています。緑の公園の中に、市民ギャラリー、コンサートホール、習志野物産展、レストラン、いくつもの集会場。
跡地は習志野市民の絆の場所にして、賑わいの場所にしたいです。
【Fさん】
この頃、知人に習志野市内を案内し、習志野らしい街並みがないのに気づきます。
三つの主要な駅を持っているのに!!結局、どこにでも短時間で行ける便利さが、わが街意識を忘れさせていくのかも知れません。
JR津田沼―京成津田沼―新習志野駅と結ぶと、立派な街並みになると思うのです。
その中心に新庁舎、そして旧庁舎をと思います。
静かな街並みも良いのですが、市民が買い物をし、食べる店があって、街は栄えると思うのです。
街並みをよくする底力は、やはり毎日買い物をする主婦だと言えます。主婦として残念なのは、農協の野菜などの店がなくなり、ガレージになったことです。
“野菜売るより、ガレージの方が儲けがある”と言っていると知り、残念に思いました。
私は旧跡地をいつまでも空き地にしておかないで、“道の駅ならしの”としてスタートさせ、習志野の産物を売る店、素敵なパン屋さん、カフェなどが出来たらと思います。
そしてその周りには、あの木立の中にひっそりと図書館、児童館をつくったら、若い人たちからお年寄りまで利用できるし、他の町の人も利用できるのでは…。
人口が少なくなる心配がある今、市民だけでなく、フリーの人も呼ぶことが、長く続けるためには必要と考えます。
レイバーネットにも掲載されています。
http://www.labornetjp.org/news/2018/1530665090619takaheims
習志野市はソーセージを大々的に売り出し中です。なぜか。
それは日本でのソーセージ発祥の地が習志野だからです。なぜか。
それはドイツ兵たちが収容されていた習志野俘虜収容所があったからです。
時は第一次世界大戦終結前の大正5年頃。当時、日本人一般には肉食は
普及されていませんでしたが、騎兵連隊の所在地である大久保には、
数件の食肉納入の御用商人がいました。ドイツ兵は捨てられる豚の腸を惜しみ、
ソーセージ作りを始めました。 その噂を聞きつけた千葉市の農商務省畜産試験場の
飯田技師が、国民の栄養向上に役立つ食品としてソーセージに注目し、収容所の所長に交渉
ソーセージ職人から作り方の秘伝を伝授してもらいました。
さて収容所の所長ですが、ご存じでしょうか。西郷隆盛の嫡男寅太郎です 西南の役に敗れ、
遺族となった寅太郎は11歳。明治天皇の配慮でドイツのポツダムにある陸軍士官学校へ留学。
13年間、ドイツで生活をしました。
寅太郎だったからではないでしょうが、日本はハーグ陸戦法規を遵守し、労役についた捕虜たちには
階級相当の給与を支払っていました。
収容所の中では音楽、演劇、映画、勉強会、スポーツ、出版、とさまざまな活動がおこなわれおり、
音楽はオーケストラ、男声合唱団、弦楽四重奏団、軽音楽団などがあり、ある捕虜の日記には
「毎週日曜と、金曜には大音楽会をおこなった」と記されています。 1000人の捕虜のうち、
音楽家は多く、そのほとんどが上海の疎開地で活動していました。演奏レベルは高く、プログラム
構成はしっかりしています。
そしてお酒です。収容所内では将校の飲酒は自由。下士官、兵卒もビールだけは許されており、
彼らの好みの銘柄はキリンで、クリスマスの三日間に、総計3000リットルのビールを売り上げたとか。
酒場では“豚”という言葉が使われていたようで、子豚…20リッターのビール樽、大豚…30リッター、
雌豚…一番大きいビール樽、だったそうです。
「柵を越えたMUSIK(ムジーク(音楽))~ドイツ兵はキリンビールがお好き?」
町の音楽好きネットワークは習志野在住(だった)の、音楽を生業としている仲間たちです。
「柵を越えたMUSIK」は、同じ市にあった収容所で奏でられていた曲を、私たちが再現する音楽会です。
今回はドイツ兵が好きだったキリンビールの話を、麦酒醸造家の倉田さんから伺ったり、資料から紹介したり、収容所で醸造されていたというビールはどんな味だったのかを探っていきます。
演奏は歌、ヴァイオリン、ピアノですが、数曲、県立千葉女子高オーケストラ部(有志)と共演します。
「閉じておくれ 僕の眼を」、「ハンガリー舞曲」、「ユモレスク」、「トロイメライ」、「春の声」、「美しく青きドナウ」
などです。
習志野に積まれた時間。その上で生活する私たちの音楽もまた、時間と共に積まれていきます。
積もった土地から、いつも音楽が聞こえる町にしたいです。
問合せ&チケットの申込先:
戸田志香(“町の音楽好きネットワーク” 千葉県習志野市 声楽家)