住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

元政治家や日大の田中理事長逮捕。維新の問題行為。こんなことがいつまでも続く日本

2021-11-29 21:37:28 | 報道

元政治家や日大トップの逮捕、維新議員の問題行為が報道されています。

(TBSニュースから)

山内元文科副大臣1億円横領事件、“もうけ話”もちかけ出資させたか

 山内俊夫元文科副大臣が関連する会社の資金およそ1億円を流用したとして逮捕された事件で、流用された金は元副大臣が地元の不動産業者にもうけ話をもちかけて出資させた金の一部とみられることがわかりました。

 文科副大臣を務めた山内俊夫容疑者(74)は、おととし3月、東京・渋谷区にある自身の関連会社「羽田空港格納庫合同会社」の資金およそ1億円を流用したとして、業務上横領の疑いで逮捕されました。

 その後の警視庁への取材で、山内容疑者が高松市の不動産業者に対し、「羽田空港の格納庫を購入すれば、50億から60億で転売できる」などともうけ話をもちかけ、28億円を出資させていたことがわかりました。

 警視庁は山内容疑者がこのうち2億3000万円ほどを土地の購入代金などに流用したとみていて、金の流れの実態解明を進めています。

(TBSニュースから)

約5300万円脱税で日大田中理事長逮捕

 東京地検特捜部はきょう、およそ5300万円を脱税したとして、日大の田中英寿理事長(74)を逮捕しました。
 日本大学をめぐっては、元理事らが日大附属病院の工事や医療機器の納入をめぐって資金を不正に流出させ、およそ4億円の損害を日大に負わせたとして、背任の罪で起訴。特捜部はこれまで、関係先として、田中理事長の自宅を家宅捜索していました。
 特捜部は田中理事長から任意で事情を聴くなど資金の流れを調べていましたが、きょう、関係業者から受け取ったリベート収入などを除外し、所得を隠す手口でおよそ5300万円を脱税したとして、田中理事長を逮捕しました。元理事らをめぐる背任事件は、国内最大級の私立大のトップが逮捕される異例の脱税事件に発展しました。

日大の暴力体質は50年前からそのまま

(PRESIDENT Onlineから)

日大の暴力体質は50年前からそのままだ 勉強なんて東大に任せておけばいい

少数の権力者たちが学校を私物化するという「歴史」

少数の権力者たちが学校を私物化し、その周りに甘い汁を吸おうという輩が群がり、学生たちが払っている学費をぶんどるという図式である。

危険タックル問題以降、次々に明るみに出る日大の暗部だが、1960年代後半に学生生活を送ったわれわれの世代には、こうした構図に“既視感”をもつ人が多いはずだ。

『文春』で、日大芸術学部出身の作家・林真理子がこう書いている。

「今度のことでわかったと思うが、日大というところは、とことん根が腐っている。こうなったら学生諸君、ぜひ起ち上がってほしい。私は経験していないのであるが、七〇年前後に学生運動という大きなムーブメントがあった。その中でも注目を集めたのは『日大闘争』。学生側が大衆団交して、トップに退陣を迫ったのだ。警察も介入して、あの頃は凄い騒ぎだったと記憶している」

正確には1968年から69年にかけてのことである。

20億円の使途不明金、定員の3倍もの水増し合格、検閲制度、右翼暴力学生の跋扈を許し、時の政治権力と一体となって、わが物顔に日大を牛耳っていた古田重二良会頭をはじめとする理事たちに、敢然と反旗を翻して学生たちが立ち上がったのが、学生運動史に燦然と輝く50年前の日大闘争であった。

(日大闘争の動画)

(週刊誌に掲載された、田中理事長と山口組組長司忍氏のツーショット)

 

(NEWSポストセブンから)

維新・杉本和巳氏が議員会館で「オ~ム~」と唱えるヨガ儀式 秘書が続々退職

一方、日本維新の会国会議員のこんな「問題行為」も報じられています。

維新・杉本和巳氏が議員会館で「オ~ム~」と唱えるヨガ儀式 秘書が続々退職

 大躍進の日本維新の会に、さっそく議員たちの問題行為が浮上している。維新の代議士会会長を務める杉本和巳氏(61)は、「オーム・チャンティング...

NEWSポストセブン

 

 大躍進の日本維新の会に、さっそく議員たちの問題行為が浮上している。維新の代議士会会長を務める杉本和巳氏(61)は、「オーム・チャンティング」というヨガ儀式を地元事務所や議員会館で“信者”を集めて定期的に開催しているとして、議員会館の不適切利用の疑いなどを『週刊文春』に2週連続で報じられた。

 

 

 

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雑学:なぜ「オミクロン株」という名前?なぜ韓国では「産婦人科」という呼び方が問題に?

2021-11-29 07:57:29 | 雑学

ネットで見つけたオモシロ雑学情報です。

➀ 習近平氏に気をつかった?「オミクロン株」という名前

欧州で感染が拡大する「オミクロン株」、相当強力なようです。

この「オミクロン株」という名前、習近平氏への「遠慮」からつけられた、という記事があります。

(東スポニュースから抜粋)

「オミクロン株」命名の裏に習近平氏への “忖度” 国内では「尾身さんへの配慮ないのか?」の声 – 東京スポーツ新聞社

「オミクロン株」命名の裏に習近平氏への “忖度そんたく” 国内では「尾身さんへの配慮ないのか?」の声

 南アフリカなどで確認された新型コロナウイルスの新たな変異株「オミクロン株」の出現に世界中が脅威を抱いている中、WHO(世界保健機関)がこの期に及んで中国の習近平国家主席(68)を忖度し、猛批判にさらされている。

 コロナ対応で後手後手に終始するWHOだが、新変異株の命名を巡ってもすったもんだがあった。当初、発見された国名・地名が使用されていたが、差別につながると今年5月からギリシャ文字に切り替わられた。これまでアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、ラムダ、ミュー株などが使われ、今回の新変異株は順番でいけば、「ニュー」となるところだった。

 ところが、英語の「new」と混同するために見送りに。続く「クサイ」は英語表記だと「xi」となる。これは習近平(シーチンピン)氏の「習」の表記が「xi(シー)」となるため、これまた見送られたとされる。

 米の共和党議員らは「共産党を恐れている」とWHOを批判。折りしも中国べったりで知られるテドロス事務局長が再任される見通しとなったばかりで、中国への忖度が過ぎるというワケだ。

 一方、「人名や国名に気を使うのならば、なぜ?」と声が上がったのは日本国内だ。新変異株は「クサイ」に続く「オミクロン」となったが、ネット上では「尾身さんへの配慮はないのか?」「〝尾身クローン〟株じゃないか」と政府のコロナ感染対策分科会の尾身茂会長(72)の名前とかぶっているとのツッコミであふれた。

(編集部注)
ギリシア語で「オ」と発音する文字は「O(オ)」と「Ω(オー)」があります。
これを区別するため「O」を「オミクロン(小さいオ)」、「Ω」を「オメガ(大きいオ)」と呼んでいます。

➁ 「産婦人科」という呼び方は「日帝残滓(にっていざんし)」?

(Korea World Timesニュースから抜粋)

反日ではなく漢字廃止政策のツケ 韓国李在明の「産婦人科」改称公約 - 北朝鮮ニュース | KWT

反日ではなく漢字廃止政策のツケ 韓国李在明の「産婦人科」改称公約

<産婦人科を女性健康医学科に改称?>

 韓国の次期大統領候補、李在明(イ・ジェミョン)が、診療科目としての「産婦人科」は“日帝残滓(ざんし)”なので「女性健康医学科」に改称するという公約を発表した。

 これを反日政策と見るのは短絡的であり、この問題は、実は韓国の漢字廃止政策に起因するものである。

 与党・共に民主党の李在明は、11月11日より自身のフェイスブックで「小確幸公約」の発表を始めた。

 小確幸(ソファクヘン)とは、小さいけれども確かな幸福という意味。天下国家を論じるような大きな公約とは別に、身近な問題の解決につながる公約をして、女性や若者の支持層を拡げようという狙いがある。

(ブログ編集部より)

ちなみに「小確幸」とは、作家・村上春樹と安西水丸共著のエッセイ集『ランゲルハンス島の午後』の中で用いられた言葉で、「小さいけど確かな幸せ」の略語。韓国の今年の流行語、だそうです。

 11月21日のフェイスブックでは、11番目の公約として産婦人科という名称を女性健康医学科に変えることを公約した。

<「産婦人科という名称は日帝残滓」>

 李在明によれば、「産婦人科という名称は日帝残滓」だということだ。彼は、京畿道知事だった今年3月の三一節で日帝残滓清算を宣言していた。今回の公約もその一環であるという見方をする者もいるが、果たしてそうであろうか。

 フェイスブックには、次のように書かれている。「未婚女性は、産婦人科が既婚女性のためのものという先入観を持っているため、行くことをためらう。産婦人科という名称は、女性を婦人と呼ぶ日帝残滓だ。女性の病気を婦人病と呼ぶ時代錯誤の認識のため、若い女性、未婚女性が病気を治せないでいる」

 日本人はこれを読んで、いま1つピンとこないのではないか。この文章の意味を正しく理解するためには、韓国語の中の漢字語についての知識が必要だ

<婦人と夫人は同音異義語。発音では区別ができない>

 韓国語で婦人(女性)という言葉は、夫人(既婚女性、奥さん)と同音異義語である。これは日本語でも同じだ。ただ、日本語では、読みが同じでも漢字が違うので混同することがない。

 ところが韓国は、原則として漢字を使わないので、ハングルでプイン(부인)と書いてあると、それが婦人を指すのか夫人を指すのか区別がつかない現代韓国語では、プインと言えば普通、夫人を指すので、婦人科を夫人科、すなわち既婚女性の病気を治す科と思ってしまう誤解が生じるのである。

 このような背景を知っていれば、先ほどの文章で李在明が言わんとしてところがわかるだろう。

 故金泳三(キム・ヨンサム)元大統領は1995年、初等教育機関である国民学校を初等学校に改称した。国民学校が日本の戦時中の国民学校に由来するものであり、元々「皇国の国民のための学校」という含意があるからという理由である。これはまさに“日帝残滓の清算”と呼ぶのにふさわしい。

 だが産婦人科のケースは、国民学校とは事情が少々異なる。

<漢字追放はハングル文盲撲滅のため>

 韓国語は、35年の植民地統治期および解放後に、日本語から多くの漢字語を受け入れた。それは法律用語に始まり、政治、経済、学術、文化まであらゆる分野に及ぶ。

 それらの漢字語は、日本が幕末から明治期にかけて欧米の文献を翻訳する際に作り出された和製漢語である。それらは、また韓国の近代化においても必須不可欠の用語であった。産婦人科もその中の1つであるという意味で、日帝残滓というのはあながち間違いではない。

 一方、日本が支配していた時代、教育は日本語で行われたため、解放直後の韓国にはハングルが読めない「ハングル文盲」が多く、社会問題化していた。

 そこで韓国政府は、文盲撲滅のためにハングル専用政策をとり、公文書から漢字を追放した漢字追放は、北朝鮮ほど徹底したものではなかったとはいえ、年を経るごとに公文書以外の文献においても漢字使用率が下がり、今日では新聞でも漢字はほとんど見られなくなっている。

<漢字廃止政策がもたらした副作用とは?>

ところが、漢字廃止はいくつかの副作用をもたらした。同音異義語の区別ができなくなったのである。

 韓国語で「最高」と「最古」、「防火」と「放火」、「連覇」と「連敗」は発音もハングル表記も同じなので区別がつかない。そのような場合、一方は別の言葉に言い換えられていくことが多い。産婦人科や婦人病は、言い換えが行われないまま残った例なのである。

 したがって、産婦人科を女性健康医学科に言い換えるという公約は、決して「反日」から出たものではない。むしろ韓国によるハングル専用、漢字廃止政策のために起こった不都合を遅ればせながら解消しようという提案として理解すべきではないだろうか。

 

 

 

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80年経って、よくわからなくなってきたこと。80年経って、次第に見えてきたこと

2021-11-29 01:11:24 | 歴史

(ブログ読者の方から、興味深い投稿をいただきました。戦争の問題についてはいろいろなご意見があると思います。一つの見方として、戦争を考えるための素材としてお読みいただければ幸いです)

80年経って、よくわからなくなってきたこと。80年経って、次第に見えてきたこと

12月8日は真珠湾攻撃から80年です。二度とああいう戦争を繰り返さないよう、決意も新たにしなければなりませんが、今日はちょっと醒(さ)めた目で、大きな歴史の一コマとして扱ってみたいと思います。

80年前、当り前だったことが、今や現在の我々には理解できないことになっています。今の子供らに、一等兵と二等兵とどちらが上か、とか、師団と連隊はどう違うかとか聞いても、まるでわからないでしょう。また当時を経験した方でも、80年も時間が経つと「さて、どうだったかな」ということが増えてきます。

米英軍と戦争を始めたのは「西太平洋」?でも真珠湾って「東太平洋」だよね

ところで、国民は第一報をNHK(当時はNHKのラジオしかありません)の臨時ニュースで知りました。

12月8日 午前7時に放送されたニュースでは「西太平洋」で戦争を始めた、とだけ放送された。「真珠湾」の名前はまだ出て来ず、軍艦マーチも流れなかった

「大本営陸海軍部発表 12月8日6時 帝国陸海軍ハ本8日未明、西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」

多くの回顧談はこの第一報を聞いて、「やった、やった」と快哉を叫んだ、と言っているのですが、それは本当なのでしょうか。西太平洋ってどこでしょう。ハワイが西太平洋にあると思った人は、まさかいないでしょう。西太平洋と言えば普通は、サイパンやパラオのあたりを指します。勝っているのか、負けているのか。アメリカ艦隊がサイパンまで来ているのだろうか…。むしろ不安に思った人の方が多かったのではないでしょうか。

午前6時の発表をNHKが伝えたのは7時でした。中には、この時、ニュースに続いて軍艦マーチが流れたので日本が勝っているのだとわかった、などと書いている人もいるのですが、その事実もないようです。

昭和16年12月8日のラジオ(一) 午前7時の臨時ニュース「太平洋戦争開戦」|NHK 戦争証言アーカイブス

NHKでは、戦争体験者の証言を中心に後世に戦争の実相を伝えていくために「戦争証言アーカイブス」を公開しています。

NHK戦争証言アーカイブス

 

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。」

その日の午後、日本の「同盟通信社」がアメリカから送ってきたニュースで、やっと「真珠湾」が出て来る

NHKアーカイブスを調べてみると、真珠湾攻撃が報じられるのはこの日も午後になってから、まずいくつかの同盟電によってでした。

昭和16年12月8日のラジオ(三) 午後0時半のニュース「真珠湾攻撃の続報」|NHK 戦争証言アーカイブス

NHKでは、戦争体験者の証言を中心に後世に戦争の実相を伝えていくために「戦争証言アーカイブス」を公開しています。

NHK戦争証言アーカイブス

 

わが海軍航空隊の大編隊がハワイのホノルルに対して最初の空襲を行いました。わが海軍航空隊の大編隊がハワイのホノルルに対して最初の空襲を行いました。

ホノルル発同盟。日本海軍航空隊の大編隊は、ハワイ時間7日午前7時35分、日本の今朝3時5分、ホノルルに初の空襲を開始しました。

ニューヨーク発同盟。ホノルルからのUP電報によれば、真珠湾西方のバーバーポイント沖に、日本軍を乗せた輸送船の影が認められたと伝えております。

次はワシントン発同盟。木材を積んで太平洋を航行中のアメリカ陸軍の輸送船は、サンフランシスコを去る1300カイリの水域で魚雷攻撃を受けたということであります。繰り返します。ワシントン発同盟。木材を積んで太平洋を航行中のアメリカ陸軍の輸送船は、サンフランシスコを去る1300カイリの水域で魚雷攻撃を受けたということであります。

この時はまだ、同盟通信社の記事が届いていたのですね。公式の大本営発表は、午前10時40分「我が軍は本8日未明、戦闘状態に入るや機を失せず香港の攻撃を開始せり。」、午後1時「帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり」と続きます。軍艦マーチが鳴りだしたとすれば、このあたりからのことだったでしょう。

 このように事実は、「やった、やった」と快哉を叫んだとすればそれは午後から夕方の話なのですが、人々の記憶は寒かった早朝の第一報に結びついてしまったのでしょう。

朝のニュースでは「西太平洋」のグァム島で戦争開始、という予定原稿を読み上げていたが、グァムは簡単に占領し、その後ハワイ真珠湾の「華々しい」ニュースが入ったので、「真珠湾で戦争が始まった」と、勘違いした

 ところで、西太平洋の敵はどうなったのか。陸軍が上陸したマレー半島コタバルも南シナ海に面しており、普通、西太平洋とは言いません。実は西太平洋というのは、陸・海軍共同作戦が予定されていたグァム島のことなのだそうです。予定原稿として用意されていたのでしょう。ところが、グァムは簡単に占領できてしまい、人々の目は華々しい戦果が伝えられたハワイに向いてしまった、というのが真相のようです。

真珠湾の記事が新聞に出たのは、翌9日の夕刊?

 80年経ってわからなくなってしまったことの一つとして、新聞の日付があります。昭和16年12月8日は月曜日でした。この日の夕刊には真珠湾攻撃の記事がさぞや大きく出ているのだろうと思って探してみると8日付夕刊は見当たらない。そして、大きな記事が出始めるのは9日付の夕刊からです。

昭和16年12月9日付夕刊 「布哇」はハワイと読みます

当時は、8日の午後に配達される夕刊を「9日付」としていた

これはなぜかというと、当時は8日の午後に配達される夕刊を「9日付」としていたのです。現在のように8日付け朝刊・8日付け夕刊の順になったのは昭和18年10月11日からだそうで、戦後一時期、また翌日付が復活した後、昭和26年10月1日から再び、現在のようになったそうです。新聞資料を調べるときには注意しなければなりません。こんなことも、80年経って今やわからなくなってしまった一例ですね。

(図書館レファレンス)

新聞夕刊の発行日が、以前は作成日の翌日だったのは、なぜですか?発行当日付に変わったのは、いつからです... | レファレンス協同データベース

 ところで、80年経ってよくわからなくなることがある一方で、80年経ったからこそ出てくる事実もあります。「本当は違うのだが、あの人が健在なうちは言えない」と封印されていた話もあるし、各国の公文書が秘密解除によって公開されるようになってきた。ソ連が崩壊して、コミンテルン関係の文書すら見られるようになってきた。まさに「現代」が「歴史」に変ろうとしているとも言えるのです。

 その結果、戦争の全体像も見直しが迫られてきました。世界のどの国も、日米間に戦争が起こるとは予期しておらず、アメリカも開戦を予想していなかったのに、日本だけが無謀にも、ひそかに戦争を選択し、突如真珠湾攻撃に撃って出た―。現在ではこうした見方をする人は少なくなってきました。アメリカは日米開戦という事態を想定していたし、日米以外の第三国に日米戦争の発生を望む動きがあったこともわかってきたからです。そのあたりを整理してみましょう。

ハル・ノートをめぐる各国の攻防

 第三次近衛内閣が倒れ、東條内閣が成立した際、昭和天皇は開戦方針の白紙還元を命じます。自身は開戦派だった東條は持論を捨て、開戦回避に向けた調整に当ります。その結果、甲案・乙案という提案をまとめ、これをワシントンで日米交渉に当っている野村大使に送りました。乙案とは南部仏印に進駐した日本軍を引き揚げるので、アメリカも日本資産凍結を解除してもらいたいという妥協案です。まず、もう少し強い調子の甲案を提示し、アメリカの反発を見極めて乙案で妥協させ、日米戦争を回避しようというものでした。

 これを受けてアメリカは11月22日、乙案に応じて3ヶ月間、資産凍結を解除しようかという「暫定協定案」を作成しました。そして、これで日本と妥協するとしたらどうするかと、蒋介石やチャーチルに意見を求めるのです。

 既に日本との戦争が4年に及んでいる中国も、ナチス・ドイツとの戦いが2年に及ぶイギリスも、この際、アメリカが参戦してくれることを望んでいました。蔣介石の日記には、「暫定協定案」を見て「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」と書かれています。そして、駐米大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と、米政府要人に対する工作を命じたのでした。

 アメリカが参戦して、日本よりもむしろドイツを攻撃して欲しいチャーチルにとっても、「暫定協定案」は歓迎できないものでした。11月26日、ハル国務長官は遂に、「暫定協定案」による妥結を断念します。そして、日米衝突をいちおう回避した後で交渉のテーブルに乗せようとしていた「基礎協定案」をいきなり日本に回答することでルーズヴェルト大統領の承認を得るのです。こうして、日独伊三国同盟の実質廃棄、汪兆銘政権(今の「中国」に作った日本の傀儡政権)の否認、そして日本の「支那」及び仏印からの全面撤兵などを要求する、いわゆるハル・ノートが突きつけられるのですが、日本にとってはこれまでの日米交渉をすべて無にするものとしか思えませんでした。特に「支那」には満州を含み、満州からの撤兵を要求されていると考えた日本政府は、もはや平和的交渉の余地はなくなったと判断したのでした。

編集部の注:「支那」という表現について
投稿者はカッコつきで「支那」という言葉をやむなく使っています。投稿者からは、以前にも以下の投稿を頂きましたが、そこで「Chinaには広狭二義があることを示しています。中華民国とか中華人民共和国の版図(はんと)としてのChinaと、歴史的に漢民族の地であったChinaです。この写真ではこの歴史的なChinaのことをChina Properとしています。
 この万里の長城以南の漢民族の地チャイナ・プロパーを、日本では古来「支那」と呼んできたわけです。

ハル・ノートは、チャイナ・プロパーから撤兵せよ、と言えば良かったのに、あえてボカした。わざと受け取った方が困惑するようにしたのでしょう。」と説明されています。

また、今では「嫌中」と呼ばれる、特定の政治的立場に立つ人たちが中国に対する侮蔑的なニュアンスで「支那」という言葉を使ったりするため、一般には「支那」という言葉は使われていませんが、漢民族の支配するエリア(China Proper)を表す適当な日本語がないため、やむなく「支那」と表現した投稿者の意図を尊重し、ここでは「支那」というカッコつきの呼び方をそのまま載せさせていただきました。

東條内閣発足から80年  (読者投稿) - 住みたい習志野

岸田内閣が発足しましたが、ちょうど80年前、1941年10月18日に成立した東條内閣のもとで日本は太平洋戦争に突入していきました。ブログ読者...

東條内閣発足から80年  (読者投稿) - 住みたい習志野

 

アメリカは日本の特殊潜航艇を砲撃し、沈めたが、「鯨(くじら)を誤射した」と勘違いして、ハワイに警報も出さなかった。そのため1時間後「真珠湾攻撃」を迎えることになった

 12月8日、ハワイ時間では7日の日曜日、朝6時45分、真珠湾をパトロールしていたアメリカの駆逐艦ワード号(Ward)は、潜水艦の司令塔らしき怪しい影を見つけ、砲撃します。手ごたえはあったものの相手は沈んでしまい、報告を受けた海軍司令部は鯨(くじら)でも誤射したのだろうと判断しました。実は、ワード号が沈めたのは日本の特殊潜航艇だったのですが、ハワイには警報も出されないまま、その1時間ほど後、7時55分、日本の艦載機による空襲を迎えてしまうのです。
(この事件については、以下の動画があります。英語ですが…)

(こんなマニアックな動画もあります)

真珠湾より2時間以上早く行われたマレー半島上陸作戦はイギリスに察知されていたので「奇襲」と呼ばれていない

なお、ワード号が特殊潜航艇を撃沈するよりさらに1時間以上早く、ハワイ時間で朝5時30分(日本時間8日午前1時30分)には、日本陸軍がマレー半島に上陸作戦を開始しています。実はマレー作戦は奇襲とはならず、12月6日にはイギリスの哨戒機が、南下してくる日本の大船団を発見しています。7日には日本軍機がイギリスの飛行艇を撃墜したり、ノルウェーの商船を拿捕、自沈させるなど、事態の切迫を告げる事件が起きていました。

 世に真珠湾攻撃は「完全なる奇襲」「ジャップ(日本人を侮蔑する呼び方)のだまし打ち」などと言われるのですが、こうした危険な予兆がなぜハワイに伝わらなかったのかは、80年経ってもいまだに謎に包まれています。そして、真珠湾にいた戦艦群が葬られてしまった割には、空母は偶然、真珠湾にはおらず無事だった…。

その結果、アメリカは嫌でも、空母と艦載機を使って戦わざるを得なくなるのですが、もはや日本海海戦のように、洋上で敵味方の戦艦が大砲を撃ち合って勝敗を決するような時代ではなく、空母から飛ばした艦載機によって一大海空戦を行う時代になっていました。日本は真珠湾空襲とマレー沖海戦でそのことを世界に実証し、わざわざアメリカもそうせざるを得ないように戦艦を沈めた。しかし自らは洋上決戦にこだわり、戦艦大和にこだわった。結局その「不沈艦」大和が、飛行機の威力の前に手も足も出ず沈んでしまったのは、大きな歴史の皮肉というものでしょう。

映画「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年)(カラー化版)

イギリス・中国・ソ連はアメリカの参戦を望んでいた。一方アメリカは「戦争に介入するな」という世論が支配していた。それをひっくり返したのが「リメンバー・パールハーバー」

 ところで、いま述べたように、太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、その2時間ほど前、陸軍の英領マレー、コタバルへの上陸によって火ぶたが切られています。イギリスとの戦争の方が先に始まったのですが、「戦争は真珠湾で始まった」と人々が思い込んでいるのは、なぜなのでしょう。また、イギリスとの間には日米交渉のようなものはなく、いきなり攻撃しているのですが、イギリスはなぜ「マレーのだまし打ち」とか「リメンバー・コタバル」とは言わないのでしょうね。

 アメリカが日本の外交暗号を解読し、日本の戦争決意を知っていたことは、映画「トラ・トラ・トラ」などにも描かれてよく知られています。しかし現在では、アメリカばかりでなくイギリスも日本の外交暗号は解読していたし、ナチス・ドイツもベルリンの日本大使が東京に送っている電報は解読していました。さらにドイツは、アメリカやイギリスが解読していることも知っており、日本大使に重要なことは話せないと警戒していました。また、上に述べたように、イギリスはマレー半島に南下してくる大船団も事前に発見していました。

 そこでチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』を読んでみると、意外なくだりが出てきます。チャーチルは真珠湾攻撃を知ると、直ちにルーズヴェルトに電話をかけ、イギリスも対日宣戦布告をすると約束しています。つまり、ハワイに対する攻撃はイギリスに対する攻撃でもあるといった、いわゆる集団安全保障のような理屈付けで、イギリスの側から対日戦争を始めたように書いているのです。2時間前に自分の英領マレーが攻撃されているにも関わらず…。そして、いずれアメリカが対独戦も始めるだろうという確信を述べ、有名な「我々は勝った」という言葉が出てくるのです。

 当時アメリカは、ヨーロッパや東洋の戦争に介入すべきでないという世論が強く、それを一気に変えるには「ジャップのだまし打ち」「リメンバー・パールハーバー」を鼓吹する必要がありました。ところが、既にヒトラーと2年以上戦っているチャーチルは国民の戦意を煽る必要はないし、あえて「コタバルのだまし打ち」などと自分の落ち度にもなるようなことを叫ぶ必要はなかったのです。

 こうして「戦争は真珠湾で始まった」という「常識」が生れるのですが、チャーチルが「我々は勝った」というには、もう一つ条件が必要でした。日独伊三国同盟では、日米間の戦争にドイツが参戦する義務はなかったのです。アメリカが日本を攻撃した場合にはドイツに参戦義務が生じますが、逆に日本がすき好んでアメリカを攻撃したのですから、ドイツに参戦義務はありませんでした。それなのにチャーチルは、これでドイツにも勝てると喜んだ。つまり、必ずアメリカとドイツの間も戦争になるという確信を持っていたのですが、それは日本の外交暗号解読から得た情報だったといいます。これについては、後ほど改めて考えることにします。「暫定協定案」に対するチャーチルの態度を見れば、「我々は勝った」とは、アメリカを戦争に引っぱり込むのに成功したぞ、これでヒトラーにも勝てるぞ、という意味なのでしょう。

 

 中国、イギリスと並んで日米間が戦争になることを望んでいたのはソ連です。スターリンは元々、資本主義国どうしがつぶし合い、その荒廃と混乱の中から共産主義革命が起こることを戦略としていました。また、真珠湾攻撃の半年前に発生した独ソ戦でドイツの猛攻にさらされていたスターリンは、アメリカの参戦を求めるようになります。

 現在では、当時ルーズヴェルト政権内部にソ連=コミンテルンのスパイが多数入り込んでいたことが知られています。「ハル・ノート」の原案を起草したハリー・D・ホワイトという男もその一人でした。アメリカが「暫定協定案」を断念する経過の中に、彼らの影がちらつきます。

 また、スターリンの工作は日本に対しても行われていました。ゾルゲ事件は、ゾルゲ・グループが日本政府の機密を盗み出し、ソ連に通報した事件として知られていますが、その逆に、日本政府がソ連の望む方向に動くよう工作をしかけた事件でもあったのです。

最初、東京からゾルゲが、ドイツはソ連侵攻を考えているという重要情報を送った際、スターリンは信用しなかったと言います。しかし、それが現実化してしまった後、スターリンの懸念は、日本がドイツに呼応してシベリアに攻め込んでくるのではないか、ということでした。そこでゾルゲに、日本がシベリア侵攻をあきらめ、代りに南方に進むよう、ひいてはアメリカと衝突するように誘導せよという工作を命じているのです。

三国同盟では、ドイツがすき好んで始めた独ソ戦に日本が参戦する義務もありませんでした。近衛首相側近の尾崎グループの工作もあって、対ソ攻撃論は下火になります。日本が南に進むことになった、という報告を受け安心したスターリンは、極東ソ連軍を引き抜いてドイツ軍攻撃にふり向けます。その結果、ドイツの快進撃は止まり、独ソ戦は泥沼化の様相を呈してきました。東京でゾルゲ・グループが摘発されるのは、第三次近衛内閣が倒れ東條内閣が成立した10月のことでした。

なぜスターリンは第二次大戦でモスクワを救った諜報員を見捨てたか

ゾルゲの恋人「石井花子」さんへのインタビュー
<インチェールビュ ス ハナコ イシイ(1967)>

ナチス・ドイツとの「単独不講和協定」

 外国の身勝手な思惑が日本の運命を決めていった過程の中でもう一つ重要なのが、ナチス・ドイツです。

 ヒトラーは独ソ不可侵条約をかなぐり捨て、ソ連侵攻を始めた際、日本もソ満国境からシベリアに侵攻して欲しいと語ったといいます。しかし日本がこれに応じないので、次にシンガポール攻撃を勧めるようになります。日米戦争は困るが日英戦争ならば、チャーチルが弱るだろうという戦略です。実際、ドイツとアメリカの間は険悪なものになっていました。アメリカは中立を破って、あからさまにイギリスを支援しています。大西洋上ではドイツ軍艦とアメリカ軍艦のトラブルが多発していました。しかしヒトラーも挑発には乗らず、巧妙にアメリカとの戦争を回避していました。それなのに日本は、真珠湾を叩いて、わざわざアメリカを戦争に引き入れてしまいます。

 ここでヒトラーとしては、日本が独ソ戦を助けてくれないのだから、日本が勝手に始めた日米戦争など知らないよ、と言うことは可能でした。しかし実際には12月11日、ドイツからアメリカに宣戦布告をします。イギリスとの戦争が決着しないままソ連に侵攻し、さらにアメリカと戦うという「三正面作戦」になってしまい、結局これがナチス・ドイツの命取りになったわけですが、三国同盟上参戦義務がないヒトラーがなぜ、対米戦に踏み切ったのかは、一つの大きな謎とされています。これについては、ドイツが対米戦を始めてやれば、日本も改めて対ソ参戦を考えざるを得ないだろうと考えたのだとか、この直後から「ユダヤ人問題の最終解決」と称してアウシュヴィッツなどの殺人工場をフル稼働させるようになったことから、ヒトラーは自分の「世界征服」も最終段階に至ったと判断したのだろう、といったことが言われています。

 しかし、もう一つ見落としてはならないのは、この時、日本側からドイツの対米参戦を焚(た)き付けていることです。対米参戦してくれれば、日本が先にアメリカと講和してしまうようなことは決してしないから、ということでドイツの参戦を求めており、結局、ドイツがアメリカに宣戦布告した12月11日、「日独伊単独不講和協定」が締結されています。

 この日本側がドイツの対米参戦を求めている動きが、暗号解読によってチャーチルやルーズヴェルトに知られてしまったのです。日米戦争が起これば必然的に、ドイツとアメリカの間も戦争になる。アメリカは正面切ってヒトラー打倒に立ち上がれる。まさにチャーチルは「これで勝った」と思ったわけです。

なお、この単独不講和協定は、日本にとって足かせとなってしまいます。昭和19年、サイパン陥落から東條内閣退陣に至った際、日本政府部内では早期和平が唱えられますが、昭和天皇は、それではドイツに対する背信になってしまうのではないか、という懸念を示します。一方のアメリカも、「国家の無条件降伏」を受諾しなければ和平交渉になど応じないと声明を出す中で和平の検討は進まず、特攻、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦と、まったく無駄な1年余を過ごしてしまうことになるのです。もともと信頼するに値しないヒトラーなど見捨てて、早く和平工作に取り組んでいたならば、と思うのは、「歴史のif」というものでしょうね。

80年経って思うこと

 80年経って次第に秘密が解除される中、各国がそれぞれ自国のことばかり考えてうごめいていた様子が見えてきました。国際政治のリアルな姿、ということでしょうね。しかし、こうした“机上の棋譜(きふ)”の先で、膨大な兵士が死に、無辜(むこ)の民の命が奪われ、大変な損害が生れたのです。

 また、天皇の“聖断”で終戦が出来たのだから、天皇は開戦を避ける聖断こそすべきだったのではないか、という声もあります。敗色が濃くなってからも「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」(和平を勧めた近衛上奏への昭和天皇の回答)とズルズル戦争を続けたために全国での空襲、広島・長崎、沖縄の悲劇が起こり、沖縄は今も苦しんでいる、と考える方も多い。しかし、これだけ各国の思惑が複雑に絡み合う中で、日米戦争を望むような流れが生れてしまうと、日本一国がブレーキさえ踏めばあの戦争は避けられたのかどうか。これも議論が分れるところでしょうね。

 

 アメリカでもクリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作のように、日米戦争を冷静に描く映画が作られるようになってきました。あの戦争は本当に必要なものだったのか。あの戦争は本当に避けられないものだったのか。日米間に、あれだけの大戦争をしなければ解決できないような懸案は本当にあったのか―。戦争の興奮が収まってみれば、こうした問いかけが生れてきたわけです。それにも80年の時間を要した、ということですね。

日本人は“言霊信仰”がありますから、戦争の話をすると本当に戦争になってしまうのではないか。戦争はいやです、という方が多い。「あんな戦争は二度とごめんだ」と思うのは当然です。しかし、戦争の話などせず、「平和」の二文字を念じてさえいれば平和でいられるのだ、と考える方には、イギリスの戦史家バジル・リデル=ハート(1895~1970)の次の言葉をご紹介したいと思います。「平和を欲するならば、戦争を理解せよ。 If you wish for peace, understand war.」

 

 

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12月、1月のイベントのご案内

2021-11-28 12:13:59 | 催しなど

12月4日(土)13:30〜

オスプレイいらない!習志野・八千代・船橋市民集会

船橋市 薬円台公園(新京成「習志野」駅から徒歩7分)

さまざまな個人、団体が色とりどりのノボリや旗で「オスプレイ、ノー!」の声をあげ、大きな広がりを見せた昨年11月7日の集会

 

12月5日(日)習志野シニアクラブ

<DVD観賞と対話>中村哲氏追悼「干ばつの大地に用水路を拓く」
(74分)アフガンに真の平和をもたらすのは武力ではなく伝統工法の用水路だった。江戸時代の工法を採用した治水事業は、農業土木の原点との評価

アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く

DVD発売中!ご注文は日本電波ニュース社まで。http://www.ndn-news.co.jp/shop/index.html

youtube#video

 

 

13時30分〜 袖ヶ浦公民館 司会・進行 上岡・仲野
 
 

参加費 大人200円(予約不要) 学生は無料
問い合わせ先 仲野  090-4613-9851

(「絵本でテツガク対話」、16日は習志野市、17日は千葉市です。お間違えのないようにお願いします)

絵本でテツガク対話

12月16日(木)

午前10時〜11時30分 市民プラザ大久保
「ちっちゃいこえ

 

千葉2区市民連合講演会

12月16日(木)

13:00開場 13:15開会 
菊田公民館3階講堂

「野党共闘の評価・その手を離すな」

講師 東海林 智(とうかいりん さとし)氏

(毎日新聞社編集局社会部記者・元新聞労連委員長)

 

12月17日(金)

12時30分〜14時 すぽっと幕張
「ちっちゃいこえ」

12月18日(土)午後2時~午後4時半

主催:みんなで안(アン)녕(ニョン)

コリアを知ろうvol.7  

ドキュメンタリー映画「標的」全国公開を前に語る
新聞記者は、なぜ国家の標的になったのか  

お話: 植村隆さん(元朝日新聞記者、現在「週刊金曜日」発行人)

日時:2021年12月18日(土)午後2時~午後4時

(植村さんを題材にした映画「標的」を紹介する韓国のニュース)

     会場:すぽっと幕張 

(千葉市花見川区幕張町5-408-54アイランド幕張)

      会費:500円(会場、オンラインとも)

    (千葉市花見川区幕張町5-408-54)

参加申込先 
メール spotmakuhari@gmail.com  (このアドレスをコピーしてメールの「宛先」に貼り付けてください)

お問い合わせ 080-3210-2818(ひぐち)

12月25日(土)習志野シニアクラブ

<公開対話>日本は”やさしくない国”なのか?
「おもてなしの国」と絶賛されるが、実は世界一やさしくなかった?
新刊「やさしくない国ニッポンの政治経済学」の斬新な視点から

  司会・進行 仲野
13時30分〜 谷津公民館

参加費 大人200円(予約不要) 学生は無料
問い合わせ先 仲野  090-4613-9851
 
 

1月6日(木)11時30分〜12時15分
ときめきランチタイム
ワンコイン500円プチコンサート

プラッツ習志野が奏でる〜新春-2022年ーの響き〜

会場 プラッツ習志野市民ホール(京成大久保駅 徒歩2分)

大和やまとが歌う! 拓未たくみが歌う!
津田沼高校オーケストラ部が奏でる!

プログラム

「O SOLE MIO」「丘を越えて」「長崎の鐘」
「閉じておくれ 僕の眼を」第一次世界大戦時、習志野収容所でハンス・ミリエスが作曲

ミュージカル”エリザベート”より
死神と皇太子の二重唱「闇が広がる」
ミュージカル”サウンド・オブ・ミュージック”より「エーデルワイス」

出演

<歌>テノール 喜久田 大和(やまと) バリトン 木村 拓未(たくみ)

<オーケストラ>県立津田沼高校オーケストラ部

<指揮>    山岡 健

 

1月8日(土)習志野シニアクラブ

<DVD観賞>「赤い風車」画家ロートレックの生涯
(123分、1952年制作) 足の不自由な有名画家が通い詰めたムーランルージュ(赤い風車)を舞台にした傑作
(11月7日習志野シニアクラブで上映した、ミュージカル「ムーラン・ルージュ」とタイトルが似ていますが、別の映画です)
13時30分〜 袖ヶ浦公民館 司会・進行 上岡
 
 

参加費 大人200円(予約不要) 学生は無料
問い合わせ先 仲野  090-4613-9851

 

 
 
 

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Narashino Geography 58  「新しい資本主義」

2021-11-28 01:24:41 | 地理学

「新しい資本主義」

 

「新しい資本主義」ではなく「新しい資本論」が求められている?

岸田文雄氏が自民党総裁・首相になり、「新しい資本主義」を看板に掲げました。しかし、今さら「資本主義」を掲げるのはあまりに陳腐です。世界はすでに資本主義に食いつぶされて行き詰っています。ボクなら「新しい資本論」をと言いたいところです。

「人新世(ひとしんせい:アントロポセン)の資本論」、おかたい本なのに39万部のベストセラー

1991年12月に「ソビエト連邦(ソ連)」が崩壊し、1992年5月に「ロシア連邦」が正式に成立しました。日本ではソ連崩壊で社会主義は失敗し、過去の遺物という見方が広がりましたが、欧米ではイデオロギー的な問題から開放されて、新たな資本主義(資本論)研究の局面を迎えました。その後の30年で欧米の研究は蓄積されて、資本主義批判の新しいトレンドが生まれていますが、日本は大きく取り残されていると言えます。パリ郊外に生まれたトマ・ピケティ(1971~)の「21世紀の資本」(2013)や、米国の生態学者、ストーマーが1980年代に提唱した「アントロポセン(人新生)」が2000年のメキシコ・クエルナパカで開かれた国際会議でオランダのクレッツェン(大気化学者)の指摘でブレイクし、大きな反響が起こりました。日本でも斉藤幸平(1987~)の「人新生の『資本論』」(2020/集英社新書)は、ベストセラーとなりました。

英国の地理学者デヴィッド・ハーベイ(1935~)の「資本主義の終焉」(2017/青木書店)など、すでに多くの研究の蓄積があります。

日本ではそうでもないが、欧米ではマルクスが再評価されている

しかし、日本ではソ連崩壊で、資本論(第一巻・1867、第二巻・1885、第三巻・1894)もネガティブに評価され、価値を失ったと考えられたようです。しかし、欧米では東西冷戦下でのマルクス主義イデオロギーから開放され、資本論研究が進みました。マルクス(1816~1883)とエンゲルス(1820~1895)は当時の労働者の実態を調べて、資本主義の実情を批判的に明らかにしました。その様子は映画「マルクス・エンゲルス」(2017/ラウル・ペック監督)に描かれています。

この映画をみると、マルクスとエンゲルスが当時の工場労働者の現実から資本主義を批判的に学んでいったことが理解できます。資本論の価値が色あせないのは、このリアリズムにあると思います。さて、岸田文雄首相に現実の労働者の姿が見えているとは思えません。彼の言う「新しい資本主義」というものが、資本主義の断末魔を描くことができれば、価値がありそうですが、どうもそうではないようです。

(資本主義の断末魔を描いた?マイケル・ムーア監督の「キャピタリズム」)

資本主義そのものが問題になっている時に、「新しい資本主義」?それって「革命」のこと?

岸田首相は「『成長と分配の好循環』と『コロナ後の新しい社会の開拓』をコンセプトとした新しい資本主義を実現していくため」として内閣に「新しい資本主義実現本部」を設置しました。
「新しい資本主義の実現に向けたビジョンを示し、その具体化を進めるため」と言うのですが、これが「資本主義」の名に値するのかは疑問があります。「新しい資本主義」を掲げるならば、まず、現在の資本主義の批判的研究から始める必要があるはずです。わずかな時間で「新しい資本主義」像を示すことなどできるはずがないでしょう。さらに行き詰った資本主義に代わる「新しい社会」を実現する、というのは、現在の資本主義を否定する「革命」を意味します。岸田首相は自らが言っていることの意味が理解できているのかと疑問が湧きます。

世界の「富」の82%を1%の富裕層が独占。「資本主義のままで」再配分するのは容易ではない

ボクは「新しい資本論」が必要だと思っていますが、それは、地球を食いつぶし、格差を生じさせることによって余剰を手にする現在の資本主義を否定するものでなければならないからです。具体的には大きなものは小さく、集中しているものは分散させるというアイデアです。世界の「富」の82%が1%の富裕層に集中しています。富裕層のパワーの源泉は金融資産です。その資産を相続することが富裕層のパワーの源になっています。この強力な富裕層に集中した「富」をいかに再配分するか容易ではありません。このブログを読んでいる方に世界1%の富裕層に属している方はいないと思います(たぶん?)が…。

資本主義のパラダイムシフトのヒントになると最近思うのは「社会連帯経済」や「ベイシックインカム」です。このお話は次回のお楽しみです。(近)

 

 

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