このように事実は、「やった、やった」と快哉を叫んだとすればそれは午後から夕方の話なのですが、人々の記憶は寒かった早朝の第一報に結びついてしまったのでしょう。
朝のニュースでは「西太平洋」のグァム島で戦争開始、という予定原稿を読み上げていたが、グァムは簡単に占領し、その後ハワイ真珠湾の「華々しい」ニュースが入ったので、「真珠湾で戦争が始まった」と、勘違いした
ところで、西太平洋の敵はどうなったのか。陸軍が上陸したマレー半島コタバルも南シナ海に面しており、普通、西太平洋とは言いません。実は西太平洋というのは、陸・海軍共同作戦が予定されていたグァム島のことなのだそうです。予定原稿として用意されていたのでしょう。ところが、グァムは簡単に占領できてしまい、人々の目は華々しい戦果が伝えられたハワイに向いてしまった、というのが真相のようです。
真珠湾の記事が新聞に出たのは、翌9日の夕刊?
80年経ってわからなくなってしまったことの一つとして、新聞の日付があります。昭和16年12月8日は月曜日でした。この日の夕刊には真珠湾攻撃の記事がさぞや大きく出ているのだろうと思って探してみると8日付夕刊は見当たらない。そして、大きな記事が出始めるのは9日付の夕刊からです。
昭和16年12月9日付夕刊 「布哇」はハワイと読みます
当時は、8日の午後に配達される夕刊を「9日付」としていた
これはなぜかというと、当時は8日の午後に配達される夕刊を「9日付」としていたのです。現在のように8日付け朝刊・8日付け夕刊の順になったのは昭和18年10月11日からだそうで、戦後一時期、また翌日付が復活した後、昭和26年10月1日から再び、現在のようになったそうです。新聞資料を調べるときには注意しなければなりません。こんなことも、80年経って今やわからなくなってしまった一例ですね。
(図書館レファレンス)
新聞夕刊の発行日が、以前は作成日の翌日だったのは、なぜですか?発行当日付に変わったのは、いつからです... | レファレンス協同データベース
ところで、80年経ってよくわからなくなることがある一方で、80年経ったからこそ出てくる事実もあります。「本当は違うのだが、あの人が健在なうちは言えない」と封印されていた話もあるし、各国の公文書が秘密解除によって公開されるようになってきた。ソ連が崩壊して、コミンテルン関係の文書すら見られるようになってきた。まさに「現代」が「歴史」に変ろうとしているとも言えるのです。
その結果、戦争の全体像も見直しが迫られてきました。世界のどの国も、日米間に戦争が起こるとは予期しておらず、アメリカも開戦を予想していなかったのに、日本だけが無謀にも、ひそかに戦争を選択し、突如真珠湾攻撃に撃って出た―。現在ではこうした見方をする人は少なくなってきました。アメリカは日米開戦という事態を想定していたし、日米以外の第三国に日米戦争の発生を望む動きがあったこともわかってきたからです。そのあたりを整理してみましょう。
ハル・ノートをめぐる各国の攻防
第三次近衛内閣が倒れ、東條内閣が成立した際、昭和天皇は開戦方針の白紙還元を命じます。自身は開戦派だった東條は持論を捨て、開戦回避に向けた調整に当ります。その結果、甲案・乙案という提案をまとめ、これをワシントンで日米交渉に当っている野村大使に送りました。乙案とは南部仏印に進駐した日本軍を引き揚げるので、アメリカも日本資産凍結を解除してもらいたいという妥協案です。まず、もう少し強い調子の甲案を提示し、アメリカの反発を見極めて乙案で妥協させ、日米戦争を回避しようというものでした。
これを受けてアメリカは11月22日、乙案に応じて3ヶ月間、資産凍結を解除しようかという「暫定協定案」を作成しました。そして、これで日本と妥協するとしたらどうするかと、蒋介石やチャーチルに意見を求めるのです。
既に日本との戦争が4年に及んでいる中国も、ナチス・ドイツとの戦いが2年に及ぶイギリスも、この際、アメリカが参戦してくれることを望んでいました。蔣介石の日記には、「暫定協定案」を見て「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」と書かれています。そして、駐米大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と、米政府要人に対する工作を命じたのでした。
アメリカが参戦して、日本よりもむしろドイツを攻撃して欲しいチャーチルにとっても、「暫定協定案」は歓迎できないものでした。11月26日、ハル国務長官は遂に、「暫定協定案」による妥結を断念します。そして、日米衝突をいちおう回避した後で交渉のテーブルに乗せようとしていた「基礎協定案」をいきなり日本に回答することでルーズヴェルト大統領の承認を得るのです。こうして、日独伊三国同盟の実質廃棄、汪兆銘政権(今の「中国」に作った日本の傀儡政権)の否認、そして日本の「支那」及び仏印からの全面撤兵などを要求する、いわゆるハル・ノートが突きつけられるのですが、日本にとってはこれまでの日米交渉をすべて無にするものとしか思えませんでした。特に「支那」には満州を含み、満州からの撤兵を要求されていると考えた日本政府は、もはや平和的交渉の余地はなくなったと判断したのでした。
編集部の注:「支那」という表現について 投稿者はカッコつきで「支那」という言葉をやむなく使っています。投稿者からは、以前にも以下の投稿を頂きましたが、そこで「Chinaには広狭二義があることを示しています。中華民国とか中華人民共和国の版図(はんと)としてのChinaと、歴史的に漢民族の地であったChinaです。この写真ではこの歴史的なChinaのことをChina Properとしています。 この万里の長城以南の漢民族の地チャイナ・プロパーを、日本では古来「支那」と呼んできたわけです。
ハル・ノートは、チャイナ・プロパーから撤兵せよ、と言えば良かったのに、あえてボカした。わざと受け取った方が困惑するようにしたのでしょう。」と説明されています。
また、今では「嫌中」と呼ばれる、特定の政治的立場に立つ人たちが中国に対する侮蔑的なニュアンスで「支那」という言葉を使ったりするため、一般には「支那」という言葉は使われていませんが、漢民族の支配するエリア(China Proper)を表す適当な日本語がないため、やむなく「支那」と表現した投稿者の意図を尊重し、ここでは「支那」というカッコつきの呼び方をそのまま載せさせていただきました。
東條内閣発足から80年 (読者投稿) - 住みたい習志野
岸田内閣が発足しましたが、ちょうど80年前、1941年10月18日に成立した東條内閣のもとで日本は太平洋戦争に突入していきました。ブログ読者...
東條内閣発足から80年 (読者投稿) - 住みたい習志野
アメリカは日本の特殊潜航艇を砲撃し、沈めたが、「鯨(くじら) を誤射した」と勘違いして、ハワイに警報も出さなかった。そのため1時間後「真珠湾攻撃」を迎えることになった
12月8日、ハワイ時間では7日の日曜日、朝6時45分、真珠湾をパトロールしていたアメリカの駆逐艦ワード号(Ward)は、潜水艦の司令塔らしき怪しい影を見つけ、砲撃します。手ごたえはあったものの相手は沈んでしまい、報告を受けた海軍司令部は鯨(くじら)でも誤射したのだろうと判断しました。実は、ワード号が沈めたのは日本の特殊潜航艇だったのですが、ハワイには警報も出されないまま、その1時間ほど後、7時55分、日本の艦載機による空襲を迎えてしまうのです。 (この事件については、以下の動画があります。英語ですが…)
VIDEO
(こんなマニアックな動画もあります)VIDEO
真珠湾より2時間以上早く行われたマレー半島上陸作戦はイギリスに察知されていたので「奇襲」と呼ばれていない
なお、ワード号が特殊潜航艇を撃沈するよりさらに1時間以上早く、ハワイ時間で朝5時30分(日本時間8日午前1時30分)には、日本陸軍がマレー半島に上陸作戦を開始しています。実はマレー作戦は奇襲とはならず、12月6日にはイギリスの哨戒機が、南下してくる日本の大船団を発見しています。7日には日本軍機がイギリスの飛行艇を撃墜したり、ノルウェーの商船を拿捕、自沈させるなど、事態の切迫を告げる事件が起きていました。
世に真珠湾攻撃は「完全なる奇襲」「ジャップ(日本人を侮蔑する呼び方)のだまし打ち」などと言われるのですが、こうした危険な予兆がなぜハワイに伝わらなかったのかは、80年経ってもいまだに謎に包まれています。そして、真珠湾にいた戦艦群が葬られてしまった割には、空母は偶然、真珠湾にはおらず無事だった…。
その結果、アメリカは嫌でも、空母と艦載機を使って戦わざるを得なくなるのですが、もはや日本海海戦のように、洋上で敵味方の戦艦が大砲を撃ち合って勝敗を決するような時代ではなく、空母から飛ばした艦載機によって一大海空戦を行う時代になっていました。日本は真珠湾空襲とマレー沖海戦でそのことを世界に実証し、わざわざアメリカもそうせざるを得ないように戦艦を沈めた。しかし自らは洋上決戦にこだわり、戦艦大和にこだわった。結局その「不沈艦」大和が、飛行機の威力の前に手も足も出ず沈んでしまったのは、大きな歴史の皮肉というものでしょう。
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映画「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年)(カラー化版)
イギリス・中国・ソ連はアメリカの参戦を望んでいた。一方 アメリカは「戦争に介入するな」という世論が支配していた。それをひっくり返したのが「リメンバー・パールハーバー」
ところで、いま述べたように、太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、その2時間ほど前、陸軍の英領マレー、コタバルへの上陸によって火ぶたが切られています。イギリスとの戦争の方が先に始まったのですが、「戦争は真珠湾で始まった」と人々が思い込んでいるのは、なぜなのでしょう。また、イギリスとの間には日米交渉のようなものはなく、いきなり攻撃しているのですが、イギリスはなぜ「マレーのだまし打ち」とか「リメンバー・コタバル」とは言わないのでしょうね。
アメリカが日本の外交暗号を解読し、日本の戦争決意を知っていたことは、映画「トラ・トラ・トラ」などにも描かれてよく知られています。しかし現在では、アメリカばかりでなくイギリスも日本の外交暗号は解読していたし、ナチス・ドイツもベルリンの日本大使が東京に送っている電報は解読していました。さらにドイツは、アメリカやイギリスが解読していることも知っており、日本大使に重要なことは話せないと警戒していました。また、上に述べたように、イギリスはマレー半島に南下してくる大船団も事前に発見していました。
そこでチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』を読んでみると、意外なくだりが出てきます。チャーチルは真珠湾攻撃を知ると、直ちにルーズヴェルトに電話をかけ、イギリスも対日宣戦布告をすると約束しています。つまり、ハワイに対する攻撃はイギリスに対する攻撃でもあるといった、いわゆる集団安全保障のような理屈付けで、イギリスの側から対日戦争を始めたように書いているのです。2時間前に自分の英領マレーが攻撃されているにも関わらず…。そして、いずれアメリカが対独戦も始めるだろうという確信を述べ、有名な「我々は勝った」という言葉が出てくるのです。
当時アメリカは、ヨーロッパや東洋の戦争に介入すべきでないという世論が強く、それを一気に変えるには「ジャップのだまし打ち」「リメンバー・パールハーバー」を鼓吹する必要がありました。ところが、既にヒトラーと2年以上戦っているチャーチルは国民の戦意を煽る必要はないし、あえて「コタバルのだまし打ち」などと自分の落ち度にもなるようなことを叫ぶ必要はなかったのです。
こうして「戦争は真珠湾で始まった」という「常識」が生れるのですが、チャーチルが「我々は勝った」というには、もう一つ条件が必要でした。日独伊三国同盟では、日米間の戦争にドイツが参戦する義務はなかったのです。アメリカが日本を攻撃した場合にはドイツに参戦義務が生じますが、逆に日本がすき好んでアメリカを攻撃したのですから、ドイツに参戦義務はありませんでした。それなのにチャーチルは、これでドイツにも勝てると喜んだ。つまり、必ずアメリカとドイツの間も戦争になるという確信を持っていたのですが、それは日本の外交暗号解読から得た情報だったといいます。これについては、後ほど改めて考えることにします。「暫定協定案」に対するチャーチルの態度を見れば、「我々は勝った」とは、アメリカを戦争に引っぱり込むのに成功したぞ、これでヒトラーにも勝てるぞ、という意味なのでしょう。
中国、イギリスと並んで日米間が戦争になることを望んでいたのはソ連です。スターリンは元々、資本主義国どうしがつぶし合い、その荒廃と混乱の中から共産主義革命が起こることを戦略としていました。また、真珠湾攻撃の半年前に発生した独ソ戦でドイツの猛攻にさらされていたスターリンは、アメリカの参戦を求めるようになります。
現在では、当時ルーズヴェルト政権内部にソ連=コミンテルンのスパイが多数入り込んでいたことが知られています。「ハル・ノート」の原案を起草したハリー・D・ホワイトという男もその一人でした。アメリカが「暫定協定案」を断念する経過の中に、彼らの影がちらつきます。
また、スターリンの工作は日本に対しても行われていました。ゾルゲ事件は、ゾルゲ・グループが日本政府の機密を盗み出し、ソ連に通報した事件として知られていますが、その逆に、日本政府がソ連の望む方向に動くよう工作をしかけた事件でもあったのです。
最初、東京からゾルゲが、ドイツはソ連侵攻を考えているという重要情報を送った際、スターリンは信用しなかったと言います。しかし、それが現実化してしまった後、スターリンの懸念は、日本がドイツに呼応してシベリアに攻め込んでくるのではないか、ということでした。そこでゾルゲに、日本がシベリア侵攻をあきらめ、代りに南方に進むよう、ひいてはアメリカと衝突するように誘導せよという工作を命じているのです。
三国同盟では、ドイツがすき好んで始めた独ソ戦に日本が参戦する義務もありませんでした。近衛首相側近の尾崎グループの工作もあって、対ソ攻撃論は下火になります。日本が南に進むことになった、という報告を受け安心したスターリンは、極東ソ連軍を引き抜いてドイツ軍攻撃にふり向けます。その結果、ドイツの快進撃は止まり、独ソ戦は泥沼化の様相を呈してきました。東京でゾルゲ・グループが摘発されるのは、第三次近衛内閣が倒れ東條内閣が成立した10月のことでした。
なぜスターリンは第二次大戦でモスクワを救った諜報員を見捨てたか
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ゾルゲの恋人「石井花子」さんへのインタビュー <インチェールビュ ス ハナコ イシイ(1967)>
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ナチス・ドイツとの「単独不講和協定」
外国の身勝手な思惑が日本の運命を決めていった過程の中でもう一つ重要なのが、ナチス・ドイツです。
ヒトラーは独ソ不可侵条約をかなぐり捨て、ソ連侵攻を始めた際、日本もソ満国境からシベリアに侵攻して欲しいと語ったといいます。しかし日本がこれに応じないので、次にシンガポール攻撃を勧めるようになります。日米戦争は困るが日英戦争ならば、チャーチルが弱るだろうという戦略です。実際、ドイツとアメリカの間は険悪なものになっていました。アメリカは中立を破って、あからさまにイギリスを支援しています。大西洋上ではドイツ軍艦とアメリカ軍艦のトラブルが多発していました。しかしヒトラーも挑発には乗らず、巧妙にアメリカとの戦争を回避していました。それなのに日本は、真珠湾を叩いて、わざわざアメリカを戦争に引き入れてしまいます。
ここでヒトラーとしては、日本が独ソ戦を助けてくれないのだから、日本が勝手に始めた日米戦争など知らないよ、と言うことは可能でした。しかし実際には12月11日、ドイツからアメリカに宣戦布告をします。イギリスとの戦争が決着しないままソ連に侵攻し、さらにアメリカと戦うという「三正面作戦」になってしまい、結局これがナチス・ドイツの命取りになったわけですが、三国同盟上参戦義務がないヒトラーがなぜ、対米戦に踏み切ったのかは、一つの大きな謎とされています。これについては、ドイツが対米戦を始めてやれば、日本も改めて対ソ参戦を考えざるを得ないだろうと考えたのだとか、この直後から「ユダヤ人問題の最終解決」と称してアウシュヴィッツなどの殺人工場をフル稼働させるようになったことから、ヒトラーは自分の「世界征服」も最終段階に至ったと判断したのだろう、といったことが言われています。
しかし、もう一つ見落としてはならないのは、この時、日本側からドイツの対米参戦を焚(た)き付けていることです。対米参戦してくれれば、日本が先にアメリカと講和してしまうようなことは決してしないから、ということでドイツの参戦を求めており、結局、ドイツがアメリカに宣戦布告した12月11日、「日独伊単独不講和協定」が締結されています。
この日本側がドイツの対米参戦を求めている動きが、暗号解読によってチャーチルやルーズヴェルトに知られてしまったのです。日米戦争が起これば必然的に、ドイツとアメリカの間も戦争になる。アメリカは正面切ってヒトラー打倒に立ち上がれる。まさにチャーチルは「これで勝った」と思ったわけです。
なお、この単独不講和協定は、日本にとって足かせとなってしまいます。昭和19年、サイパン陥落から東條内閣退陣に至った際、日本政府部内では早期和平が唱えられますが、昭和天皇は、それではドイツに対する背信になってしまうのではないか、という懸念を示します。一方のアメリカも、「国家の無条件降伏」を受諾しなければ和平交渉になど応じないと声明を出す中で和平の検討は進まず、特攻、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦と、まったく無駄な1年余を過ごしてしまうことになるのです。もともと信頼するに値しないヒトラーなど見捨てて、早く和平工作に取り組んでいたならば、と思うのは、「歴史のif」というものでしょうね。
80年経って思うこと
80年経って次第に秘密が解除される中、各国がそれぞれ自国のことばかり考えてうごめいていた様子が見えてきました。国際政治のリアルな姿、ということでしょうね。しかし、こうした“机上の棋譜(きふ)”の先で、膨大な兵士が死に、無辜(むこ)の民の命が奪われ、大変な損害が生れたのです。
また、天皇の“聖断”で終戦が出来たのだから、天皇は開戦を避ける聖断こそすべきだったのではないか、という声もあります。敗色が濃くなってからも「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」(和平を勧めた近衛上奏への昭和天皇の回答)とズルズル戦争を続けたために全国での空襲、広島・長崎、沖縄の悲劇が起こり、沖縄は今も苦しんでいる、と考える方も多い。しかし、これだけ各国の思惑が複雑に絡み合う中で、日米戦争を望むような流れが生れてしまうと、日本一国がブレーキさえ踏めばあの戦争は避けられたのかどうか。これも議論が分れるところでしょうね。
アメリカでもクリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作のように、日米戦争を冷静に描く映画が作られるようになってきました。あの戦争は本当に必要なものだったのか。あの戦争は本当に避けられないものだったのか。日米間に、あれだけの大戦争をしなければ解決できないような懸案は本当にあったのか―。戦争の興奮が収まってみれば、こうした問いかけが生れてきたわけです。それにも80年の時間を要した、ということですね。
日本人は“言霊信仰”がありますから、戦争の話をすると本当に戦争になってしまうのではないか。戦争はいやです、という方が多い。「あんな戦争は二度とごめんだ」と思うのは当然です。しかし、戦争の話などせず、「平和」の二文字を念じてさえいれば平和でいられるのだ、と考える方には、イギリスの戦史家バジル・リデル=ハート(1895~1970)の次の言葉をご紹介したいと思います。「平和を欲するならば、戦争を理解せよ。 If you wish for peace, understand war.」
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