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ナチス・ドイツ国家は「消滅」したが、日本は戦前の国家が「改名」しただけ、という問題(2・11読者投稿PART1の「補足」)

2024-02-15 08:02:09 | 歴史

(読者投稿です)

建国とは何か?(読者投稿PART1) - 住みたい習志野

について「補足」の投稿です。

ナチス・ドイツ国家は「消滅」したが、日本は戦前の国家が「改名」しただけ、という問題

敗戦によって国家が崩壊し、消滅してしまったドイツでは、どうやって新国家を樹立し、新憲法を制定したのか。これを見ておくことで、日本は国家が消滅などしていないし、新憲法を制定したわけでもないということが、よりはっきりしてくるのだろうと思います。

ベルリン宣言で国が「消滅」し、連合国の軍政下におかれたドイツ

 昭和20年(1945)4月末、ヒトラーが自殺し、後継にフレンスブルク政府(デーニッツ政府)というものが出来ますが、間もなくベルリンは陥落。フレンスブルク政府の閣僚は全員逮捕されてしまいます。そして6月5日には連合国軍の最高司令官であるアイゼンハワー元帥(米)、モントゴメリー元帥(英)、ド・タシニー大将(仏)、ジューコフ元帥(ソ)から「ベルリン宣言」Berliner Erklärungというものが出され、ドイツ中央政府の不存在が宣言されます。

 これによっていわゆるワイマール憲法(既にヒトラーへの全権委任法によって有名無実化していた)も完全に失効し、ドイツには国家や憲法は存在しないことになりました。ドイツは米・英・仏・ソ四ヶ国の分割占領と軍政の下に置かれましたが東西冷戦は激化し、昭和23年(1948)6月には通貨改革(西側はドイツマルク、ソ連側はいわゆる東マルク)をめぐって「ベルリン封鎖」が起ります。

「ドイツ憲法制定70年」の動画(ドイツ語)

 新国家樹立の話が出てくるのは、この年に入ってからでした。2月からロンドンで、米・英・仏とベネルクス三国により「ロンドン会議」と呼ばれる会議が行われます。

ロンドン会議 (1945年) - Wikipedia

そして、ソ連占領地区を除外した地区に憲法を制定すべきであるとし、これを米・英・仏の各軍政長官に勧告することが合意されました。また、何もないところから新憲法を作るための手続き案が検討されます。まず、ドイツの各ラント(州)※の首相を集めて会議を開き、憲法制定会議を開催させること。

※ Land(ドイツ語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 独和辞典
Landは日本語で「国」あるいは行政区画としての「州」。独立性が強く、Landの首長は「首相:Ministerpräsident」と呼ばれる

憲法制定会議は人口75万人ごとに1人の割合で各ラント代表を選出させ、それで構成されること。憲法制定会議の決定は、各ラントの住民投票による批准で3分の2以上の賛成を得たとき効力を生じること、などの手続き案が定められました。

ロンドン会議の決定を受け、この年7月1日、米・英・仏の各軍政長官は、フランクフルトに各ラントの首相を集め、新憲法について3つの指示文書(フランクフルト文書)を手交します。ここで将来の国家像や、9月1日までに憲法制定会議を開くことなどが、初めてドイツ側に突き付けられたのです。各ラント首相や世論からは激しい反発が起こりました。7月8日から10日にかけて開かれた各ラント首相の会議(リッターシュルツ会議と呼ばれます)では、新憲法は制定するがそれは「ドイツの国民が自由な自己決定を行えるまでの暫定的なもの」として「基本法」と称すること、憲法制定会議のかわりに各ラント議会の代表からなる「議会評議会」を開くこと、その他、フランクフルト文書に対するドイツ側の対案が決定されます。しかしアメリカ軍政長官ルシアス・クレイはリッターシュルツ会議の決定を拒否します。ラント首相らは再度協議を行い、「基本法」という名称は維持した上で、議会評議会の決定に対する批准は住民投票ではなく、各ラントの議会が行うという妥協案を提案します。7月26日には軍政長官側もこの意見を受け入れ、これで新憲法制定への動きがレールに乗りました。

国家は消滅していたため、ラント(地方政府:州)代表で新国家を創設。東西に分かれた二つの「ドイツ」ができた

9月1日には、各ラント代表で構成された議会評議会が初会合を行い、翌昭和24年(1949)5月まで協議が続きます。また軍政長官側からは、ちょっと日本のマッカーサー草案を思い出させるような、種々の干渉的な意見書が示され、これに対して議会評議会側が反発をする、といった場面が繰り返されます。

軍政長官側と議会評議会の対立は結局、ドイツ側の主張を大筋で認めることになり、昭和24年(1949)5月8日、議会評議会は基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)を採択しました。連合国側の承認の後、5月18日から21日にかけて各ラント議会で批准の採決が行われ、バイエルン州を除きすべてのラントで批准されたため発効しました。そして5月23日、ボンを首都とする連邦共和国臨時政府が発足(初代大統領ホイス、首相アデナウアー)します。

一方、怒ったソ連側は10月7日にドイツ民主共和国を建国し、冷戦の最前線として東・西ドイツが並立することとなりました。

その後、ドイツ連邦共和国は昭和30年(1955)5月5日に主権の完全な回復を宣言します。また再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。

東ドイツ消滅後に残された5つのラントがドイツ連邦共和国(西ドイツ)に加盟する形でドイツ統一

平成2年(1990)のドイツ統一においては、東ドイツ消滅後、旧東地区に残された5つのラントが10月3日をもってドイツ連邦共和国に加盟する形でドイツ統一が達成されました。統一までの暫定憲法とされていた基本法でしたが、統一によってこれに代る憲法が制定されることはありませんでした。

国破れて山河あり。憲法がなくなっても、「地方自治の本旨」や基本的人権は、なくならない

 以上がドイツ連邦共和国の憲法制定の経過です。ここに特徴的なことは、ラント(州)の果たした役割ですね。

 よく勘違いされることですが、憲法によって基本的人権が与えられるわけではありません。憲法以前のものとして基本的人権があり、国家は憲法でそれを保障するわけです。ですから、憲法が廃止され無憲法状態になっても、基本的人権が消えてしまうわけではありません。

 これと同様に、地方公共団体の権利である「地方自治の本旨」というものも、憲法がなくなっても消えてしまうわけではありません。ナチス国家は消滅しても、バイエルン州とかノルトライン=ヴェストファーレン州といったラント(州)は残っていたわけですね。

 国家が消滅し憲法がなくなった状態からどうやって新憲法を制定しようか、というときに、ドイツではこのラントの自治から憲法制定会議を導こうとしたわけです。

   なお注意しておきたいのは、無憲法状態というのは決して、無政府の争乱状態を意味するものではありません。我々は無憲法、無国家の状態というのを、ソ連崩壊、東ドイツ消滅で目の当たりにしました。

 国家は消滅しても、国家以前の存在である基本的人権や地方自治の本旨は失われません。

 民法的秩序は生きていますから、紙くずになった東マルクを持ってパンや衣料の売買はちゃんと行われました。国家というものは会社と同様、人が人為的に設立する法人であることがよくわかった姿でした。

国家が消滅し、講和条約を結べなかったドイツ。一方「大日本大国改め日本国」と「イタリア王政を倒してできたイタリア共和国」は講和条約を締結して国際社会に復帰

 なお、ドイツが行った戦争については、講和条約は存在しません。第一次大戦においては、ヴェルサイユ講和条約によってドイツは国際社会に復帰したわけですが、第二次大戦では、ナチス・ドイツが国際社会に復帰してくることは決してなかったのです。そしてナチス国家に代る新ドイツ国家が国際社会に復帰することは、通常の新国家と同様に国家承認の手続きによって果たされたのです。

この点、日本はサンフランシスコ講和条約によって、「日本国」と名を改め民主化を果たした、かつての大日本帝国が国際社会に復帰しました。イタリアは、講和条約を結ぶ前に王政が倒れてしまい、承継した新国家・イタリア共和国が昭和22年(1947)パリで、連合国と講和条約を締結しています。

明治憲法の「改正」でできた日本国憲法

もしマッカーサーが憲法の廃止、天皇の廃位、大日本帝国の消滅などを宣言していたとすれば、各都道府県知事を集めて憲法制定会議を組織させ、新憲法を制定させることになったのでしょうね。しかし実際の歴史はそうではなく、明治憲法の改正であったのですから、日本国憲法は決して「新憲法」ではないのです。

それにしても、「同じ敗戦国であるドイツでは…」とくくられるものの、知っているようで知らないドイツの戦後。ナチス時代のことはよく知られているのに、戦後におきたことはまるで知られていないようです。

 

 

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3 コメント

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Unknown (しんちゃん)
2024-02-16 17:00:46
外国のことはよく語られますが、自国の戦後史について正しく知らないのが私たちの現状です。新しい日本国憲法施行後に昭和天皇はGHQに対して「沖縄を半永久的に軍事占領して欲しい」という驚くべき要請をしています。憲法違反ですよね。1979年筑波大学の進藤助教授が米国の公文書館から発見し、雑誌「世界」に発表したのですが、学会も新聞黙殺されたそうです。不都合な事実には反論しない何もなかったかの如く黙殺する。それが戦後のマスコミや学会の態度です。この天皇の意志を汲んだ吉田首相がサンフランシスコ講和条約調印の直後、単独で国会の議論も拒否して、事前に条文を読むこともせずメクラ判を押したのが旧安保条約です。こんな史実は学校では習っていません。
Unknown (お引き取りを)
2024-02-17 01:42:29
日本国は大日本帝国だぁ! この人アウト。
Unknown (Unknown)
2024-04-30 01:36:05
日本国憲法は新憲法ではない? あまりにも独特すぎて付き合えないね。いったいどういう基準で投稿させてるの? もっと一般的にお願いします。

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