住みたい習志野

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「習志野ソーセージ」で応援! 実籾高・千葉商科大・社会人アメフト「シーガルズ」の3者タッグで新商品開発

2023-12-25 23:08:44 | 俘虜収容所

(東京新聞の記事より)

「習志野ソーセージ」で応援! 実籾高・千葉商科大・社会人アメフト「シーガルズ」の3者タッグで新商品開発

「習志野ソーセージ」で応援! 実籾高・千葉商科大・社会人アメフト「シーガルズ」の3者タッグで新商品開発:東京新聞 TOKYO Web

「習志野ソーセージ」で応援! 実籾高・千葉商科大・社会人アメフト「シーガルズ」の3者タッグで新商品開発:東京新聞 TOKYO Web

「習志野ソーセージ」にちなみ、千葉県の習志野市内に練習グラウンドがあるアメリカンフットボールの社会人クラブチーム「オービックシーガルズ...

東京新聞 TOKYO Web

 
 「習志野ソーセージ」にちなみ、千葉県の習志野市内に練習グラウンドがあるアメリカンフットボールの社会人クラブチーム「オービックシーガルズ」の応援グッズなど新商品を開発しようと、シーガルズ、千葉商科大(市川市)、県立実籾(みもみ)高校(習志野市)の3者が連携。同校2年生が開発に取り組んでおり、20日には校内で発表会が開かれた。審査に通った商品は販売される予定という。(保母哲)
 
 習志野ソーセージは約1世紀前、ドイツ式のソーセージ製法が地元に伝えられたことから、習志野市と習志野商工会議所などが「日本のソーセージ製法伝承の地」をPRしている。
 今回が初となった3者による高大産連携事業では、実籾高2年生302人を、千葉商大サービス創造学部のスポーツビジネス・プロジェクトの学生11人がサポート。実籾高の生徒たちは数人ずつの計64班に分かれて商品開発に取り組んできた。
 20日の「商品企画プレゼンテーション発表会」では、ポスターセッションとして各班の生徒たちが、開発した商品をイラストで説明。ソーセージ形の抱き枕やクッション、応援用メガホンの製作や、選手用ヘルメットを容器に見立て、ソーセージを入れた食事の提供といったアイデアが次々と出された。
 ステッカー式のタトゥーにシーガルズのロゴマークなどをあしらうよう提案した和気花音(わけかのん)さん(17)、林泉希(みずき)さん(17)らは「スマートフォンのケースなどに、挟んだり張ったりする人が増えている。友だちや家族で顔や腕に張って応援すれば盛り上がる」と説明した。
 

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実籾高校はアニメの「聖地」としても有名です^_^

ご存知ですか?習志野市はアニメの「聖地」 - 住みたい習志野

 

 

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13日、チバテレ「newsチバ」で、ちば文化資産「習志野ソーセージ」を紹介

2023-12-16 13:12:17 | 俘虜収容所

13日、チバテレ「newsチバ」で、ちば文化資産「習志野ソーセージ」を紹介

習志野市内のお好み焼き屋さん「天久(てんきゅう)」

およそ100年前につくられたドイツ式ソーセージの製法を元に2016年、習志野商工会議所が商品化しました。

塩分が多め。ジューシーで肉肉しいソーセージ

約100年前、第一次世界大戦当時、ドイツ人の捕虜の方が実籾に収容されていて、そちらでドイツ式ソーセージの製法が日本で初めて伝えられた

その技術が全国へ広がった

ソーセージの色味をつける発色剤は入っていない。保存料も入っていない。肉を結着させるリン酸塩も全く入れていない。シンプルなのが特徴。

習志野市大久保にある「おれん家(ち)」の一番人気商品です。

将来は日本全国が、習志野と言えば「習志野ソーセージ」、ソーセージ製法の伝承の地だと連想してくれるようにPRしていきたい。習志野高校や谷津干潟のように。

ソーセージの皮は一般的には羊の腸を使っているが、習志野ソーセージは、ドイツのフランクフルトなどと同じように豚の腸を使っている。

 

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東京の中学高校生が習志野俘虜収容所跡を訪れてくれました。でも地元習志野市の学校はいっさい興味を示さない?

2023-12-03 23:12:45 | 俘虜収容所

(ブログ読者の投稿です)

先日行われたドイツ捕虜慰霊祭。京華中・高校(私立、文京区白山)歴史研究部が参列してくれたそうです。

「国内の史跡を訪れる中で、外国との関係にも意識を向けて、世界の歴史についても触れていきます。」とのこと。

四中・習高はじめ、この歴史にいっさい興味を示そうとしない地元校。わざわざ文京区から見に来てくれた彼らをどう見るんでしょうか?

(京華中学・高等学校NEWSより)

歴史研究部 ドイツ軍人慰霊祭に参列 千葉県 習志野への巡検

歴史研究部 ドイツ軍人慰霊祭に参列 千葉県 習志野への巡検 | 京華中学・高等学校

歴史研究部 ドイツ軍人慰霊祭に参列 千葉県 習志野への巡検 | 京華中学・高等学校

 歴史研究部では11月5日(日)に千葉県の習志野へ巡検に行き、ドイツ軍人慰霊祭に参列してきました。  1914年に第一次世界大戦に参戦した日本は、中国...

京華中学・高等学校

 

 歴史研究部では11月5日(日)に千葉県の習志野へ巡検に行き、ドイツ軍人慰霊祭に参列してきました。

 1914年に第一次世界大戦に参戦した日本は、中国や太平洋の島々にあるドイツ軍基地を攻撃・占領しました。その際に捕虜となったドイツ兵たちが収容された場所の一つが、千葉県の習志野俘虜収容所です(俘虜 ふりょ=捕虜)。収容所では一定の自由が認められ、オーケストラによる演奏や地元住民との交流が行われていました。収容所の建物は残っていませんが、ドイツ兵の活動を記念する碑が建てられています。

 第一次世界大戦の終結・ヴェルサイユ条約の調印により、ドイツ兵捕虜は解放されましたが、習志野の地で亡くなった兵士たちは、習志野霊園に埋葬されています。部員たちは千葉県日独協会主催のドイツ軍人慰霊祭に参列し、慰霊碑に向かって平和への祈りを捧げました。この慰霊祭には、在日本ドイツ大使館からDr. クレメンス・フォン・ゲッツエ駐日大使をはじめ、駐在武官(軍人)の方々もご臨席なさっています。

 習志野には、明治~昭和にかけて騎兵旅団が置かれていました。今は住宅街や商店街、大学キャンパスになっていますが、そのなかに点在する騎兵旅団司令部跡や旧陸軍演習場内圍壁を訪れることで、部員たちは当時に思いを馳せました。この騎兵旅団の司令官を務めたのが、司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』の主人公の一人、秋山好古です。

 騎兵旅団の広大な敷地があったことなどから、日露戦争で捕虜となったロシア兵、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が、この習志野の地に収容されました。そして、ソーセージの製法を伝えるなど、日本との交流・結びつきが生まれたのです。

(編集部より)

習志野俘虜収容所に関するこの「住みたい習志野」の記事一覧です。こちらもご参照ください。

「俘虜収容所」のブログ記事一覧-住みたい習志野

 

 

 

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2023年ドイツ軍人慰霊祭、11月5日に行われます

2023-10-26 01:14:00 | 俘虜収容所

2023年ドイツ軍人慰霊祭(千葉県日独協会ホームページより)

 

2023年ドイツ軍人慰霊祭のご案内
 昨年に続き、本年も通常通りの規模にて以下の通り開催いたします。
 第29回となる今年は、Dr. クレメンス・フォン・ゲッツエ駐日大使、武官室よりラルフ・ペルズィッケ空軍大佐をはじめ、ドイツより来日される来賓関係者の方にご臨席いただく予定です。

 開催日 : 2023年11月5日(日)
 開催時間 : 15:00~15:50 ※従来と開催時刻が異なりますのでご注意ください
 開催場所 : 船橋市営習志野霊園 ドイツ軍人慰霊碑前(船橋市習志野2丁目5-9)
 交通のご案内 : JR 津田沼駅より路線バスで自衛隊前停留所下車(バス約15分)停留所から 徒歩約10分、または新京成電鉄 習志野駅より 徒歩30分
 生演奏 : 津田沼高校オーケストラ部(指揮 山岡先生)

 

(読売新聞、昨年の慰霊祭の記事より)

ドイツ人捕虜慰霊の集い 1次大戦時習志野で死去 船橋の霊園に駐日大使ら参列

ドイツ人捕虜慰霊の集い 1次大戦時習志野で死去 船橋の霊園に駐日大使ら参列

ドイツ人捕虜慰霊の集い 1次大戦時習志野で死去 船橋の霊園に駐日大使ら参列

【読売新聞】 第1次世界大戦時に習志野 俘虜 ( ふりょ ) 収容所で死去したドイツ人捕虜の追悼慰霊祭(県日独協会主催)が23日、船橋市の市営習志野霊園で営まれ、クレ...

読売新聞オンライン

 

 第1次世界大戦時に習志野 俘虜ふりょ 収容所で死去したドイツ人捕虜の追悼慰霊祭(県日独協会主催)が23日、船橋市の市営習志野霊園で営まれ、クレーメンス・ゲッツェ駐日ドイツ大使ら関係者約60人が参列した。

 習志野俘虜収容所は、現在の習志野市東習志野にあり、中国での戦いで日本軍に敗れたドイツ人捕虜約1000人が、1915年から4年余り収容された。捕虜はオーケストラの演奏やスポーツ活動が許されるなど人道的な処遇を受けたとされるが、世界的に流行したスペイン風邪などで30人が死去した。55年に収容所から約2・5キロ離れた習志野霊園に慰霊碑が建てられ、95年以降、追悼慰霊祭が営まれている。

 この日は雨の中、慰霊碑前で、県立津田沼高校オーケストラ部が録音した演奏によりドイツ国歌を斉唱。死去したドイツ人捕虜の名前が読み上げられ、ゲッツェ大使のほか、県、船橋、習志野市などの関係者約60人が献花した。

習志野市では何もやらない?

 船橋市で慰霊祭が毎年開かれている一方、俘虜収容所があった習志野市では何もやらないようです。

2008年11月11日には東習志野の収容所跡で「ドイツ俘虜オーケストラの碑」除幕式が行われましたが、その後こうした行事は習志野市ではおこなわれなくなってしまいました。

この時の除幕式について、数多くのドイツ映画を翻訳された吉川美奈子さんは、こう書かれています。

習志野俘虜収容所の跡に石碑が・・・ | ほにゃく犬の字幕ほにゃく日記

 実は今日、千葉県習志野市において石碑の除幕式が執り行われます。第一次大戦中、徳島県の鳴門市や習志野市など、各地にドイツ軍の捕虜を収容した施設がありました。「収容所」といっても当時は今よりもっとのんびりしていたのか、捕虜たちにも比較的自由な行動が許され、地元住民との交流も盛んだったと聞きました。オーケストラも結成され、演奏会も開かれていたんだそうです。捕虜たちを通じて、ドイツの文化が日本にも入ってきました。実は今日は第一次大戦が終結して90年目にあたるそうです。この日を選んで除幕式が行われるとのこと。

たった一人で習志野収容所の研究に取り組み、何もない状態からコツコツと資料の“解読”(←まさに解読です。当時の字の読めないこと・・・。)を行い、ジグゾーパズルをはめていくような作業で全体像を明らかになさった研究者の方に、心から敬意を表したいと思います058.gif
(注:「何もない状態からコツコツと資料の“解読”」をした、と吉川さんが紹介されているのが、この本です)

 

 

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千葉のご当地グルメ「習志野ソーセージ」味わう 「伝承の地」でドイツフェア

2023-10-23 22:12:09 | 俘虜収容所

(産経新聞の記事より)

千葉のご当地グルメ「習志野ソーセージ」味わう 「伝承の地」でドイツフェア

日本のソーセージ製法の「伝承の地」として知られる千葉県習志野市で21、22の両日、「習志野ドイツフェア&グルメフェスタ2023」が開催された。第一次大戦で捕虜になった独軍兵のソーセージ職人から伝えられた製法がもとになったご当地グルメ「習志野ソーセージ」などが出店した。ソーセージが昨年度、県誕生150周年記念で「ちば文化資産」に選ばれて以降、初のフェアとなった。

大正時代、習志野市内では第一次大戦中に捕虜となった独軍兵ら約1000人が収容されていた。大正7(1918)年、栄養価の高い食品としてソーセージに注目していた農商務省(当時)は、独のソーセージ職人、カール・ヤーン氏(1890~1959年)らが、収容所内でソーセージを製造していると知った。そこで、同省から飯田吉英(よしふさ)技師(1876~1975年)が収容所に派遣され、ヤーン氏から製造方法が伝えられた。

「習志野ドイツフェア&グルメフェスタ2023」10月21・22日開催 - 住みたい習志野

習志野ソーセージの恩人、西郷寅太郎と飯田技師 - 住みたい習志野

(飯田吉英さんの著書)


(飯田吉英さん)

ソーセージ試製の好機

 大正初期欧州戦争は東洋に波及し、日本軍は独乙(ドイツ)軍を支那青島において攻略し、その捕虜を内地各所に収容した。その中、千葉県習志野俘虜収容所へ収容されたもののなかにソーセージ製造を業としたものが5人もあった。その中のカール・ヤン(Karl Yahn)というものが最もその技術に長じていたので、これを利用してその技術を獲得することが絶好のチャンスだと判断し、同所では頻(しき)りに牛豚を購入してヤンに解体加工をさせて、日常の兵糧(ひょうりょう)に供し、又貯蔵用の兵糧などを製造させていた。これを聞いた私は直ちに同所へ出張し、所長と面接して来意を告げたところ、大いに賛成されて次のような条件で製造試験を実施することを取り決めた。
(中略)
 習志野俘虜収容所長は陸軍歩兵大佐西郷寅太郎氏(大西郷の令息だと伝聞した)であって、痩身長躯(そうしんちょうく)容姿端麗の愛嬌ある外交官タイプの好紳士であった。曾(かつ)て独乙国へ駐在したことがあると語られた。
(中略)

西郷所長の人格

(習志野俘虜収容所長、西郷寅太郎)

 西郷所長とは私は全くの初対面である。前以(まえもっ)て許可を得たのでもなく突如訪問した。勿論(もちろん)官姓名の名刺を差し出して面会を願ったのである。所が所長は直ちに副官を通じて所長室へ私を招かれ、私の用務を詳しくきいて下さった。而(しか)しておっしゃるには、あなたのお話はまことに結構なことだからあなたの都合のよいように計画して実施して下さいと、即座に承諾なされて兵糧担当官たる竹内陸軍主計官、独乙語通弁(つうべん)山口陸軍通訳官を呼入れて会談、約1時間で試験製造日程をきめたものである。所長の即決には深く感激させられた。
 その後所長とは屡々(しばしば)会食も致し種々の話も聞いて、その談笑の間に従容迫まらざる※態度と親切丁寧であることに大いに敬服させられた。又折々戯談(ぎだん)をとばして人を笑わせるような話術にも長(た)けていることも知った。
※(「従容迫まらざる」⇨「悠揚迫らざる」が正しい?)

テレビで西郷寅太郎(西郷隆盛の息子で習志野ドイツ人俘虜収容所長)の生涯を紹介 - 住みたい習志野

習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野

ソーセージの製法は「秘伝」の技術だったが、マニュアル化し、だれでも作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野

H氏 ソーセージの製法はドイツでも、親方(マイスター)に弟子入りして、永年徒弟修業してやっと教えてもらえる「秘伝」になっていました。日本人が真似して作ろうとしても、形は同じように出来ても食べられたものではなかった。わずかに大木市蔵という人が横浜で、何とか国産ソーセージを作ろうと努力していましたが、それでもなかなかいい物が出来なかった。ところが、習志野で農商務省畜産試験場が、ドイツ兵からこの秘伝を教えてもらったことによって、日本中の肉屋が、別にドイツに行ったわけでも、マイスターに弟子入りしたわけでもないのに、ソーセージが作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野だ、と申し上げているのです。

大木市蔵さんのソーセージの方が習志野より4ヶ月先?

編集部 横浜でソーセージの修業をした大木市蔵さんという方は千葉県横芝の出身で、そちらこそソーセージの元祖だ、という声もあるようですね。

H氏 大木さんが横浜に出て、マルティン・ヘルツに付いてソーセージの修業をした。そしてやっと完成して、「第1回神奈川県畜産共進会」に出品したのが大正6年(1917)11月1日だった、というので、現在11月1日を「ソーセージの日」としているそうです。翌大正7年2月、畜産試験場の飯田吉英(いいだよしふさ)技師が習志野で、カール・ヤーンから秘伝を聴き取るのですが、それより4ヶ月ほどこちらの方が先だ、ということになりますね。

大木さんという人はたいへん人格者で弟子の面倒見もよく、現在も続くハム・ソーセージのメーカーの中には大木さんの恩恵に与っている所が非常に多い。我が国食肉加工業の恩人であることは間違いないのですが、しかし、この大正6年のソーセージが完成品だったかどうかというと、そこは疑問が残ります。大木さんは続く大正8年(1919)、第1回畜産工芸博覧会で銀賞を受賞、大正13年(1924)には銀座に日本初のハム・ソーセージ専門店を開くのですが、大正8年の博覧会には批評が残っていまして、「ソーセージは概して、原料肉の截切及び填充法、そのよろしきを得たりといえども、風味色沢(しきたく)に於て欠陥を有するもの多し。」と書いてあります。風味、色つやに欠陥を有するソーセージを、あなたは食べてみたいと思いますか? 要するに、まだまだだったのです。ところが、この博覧会の後、進境著しく、5年後には銀座に進出している。一気に開花したわけですね。

この厳しい批評をした審査員が習志野でドイツ兵から「秘伝」を習った飯田技師だった。

実は、上の批評を書いた審査員が、習志野でドイツ兵カール・ヤーンから秘伝を習った飯田技師なのです。


その飯田技師が習志野の「秘伝」をサジェスチョンして、大木さんのソーセージ作り、一気に花が咲いた?

私の想像に過ぎませんが、この時、飯田技師から大木さんに、「私も習志野でドイツ人から聞いたのだが、ここはこうやってみたら…」というサジェスチョンがあったのではないでしょうか。永らく苦労してきた大木さんだからこそ、一つヒントを聞けば「ああ、なるほど」と、一気に花が咲いたのではないか、と想像してしまうのですが、証拠はありません。しかし、大木さんをもって我が国ソーセージの元祖として尊敬している方々は、飯田技師からサジェスチョンを受けたのではないかというと不愉快に思われるかも知れませんね。

100年前の味復元、「習志野ソーセージ」は永久不滅!?(NIKKEI STYLE) - 住みたい習志野

 

 

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