(産経新聞の記事より)
千葉のご当地グルメ「習志野ソーセージ」味わう 「伝承の地」でドイツフェア
日本のソーセージ製法の「伝承の地」として知られる千葉県習志野市で21、22の両日、「習志野ドイツフェア&グルメフェスタ2023」が開催された。第一次大戦で捕虜になった独軍兵のソーセージ職人から伝えられた製法がもとになったご当地グルメ「習志野ソーセージ」などが出店した。ソーセージが昨年度、県誕生150周年記念で「ちば文化資産」に選ばれて以降、初のフェアとなった。

大正時代、習志野市内では第一次大戦中に捕虜となった独軍兵ら約1000人が収容されていた。大正7(1918)年、栄養価の高い食品としてソーセージに注目していた農商務省(当時)は、独のソーセージ職人、カール・ヤーン氏(1890~1959年)らが、収容所内でソーセージを製造していると知った。そこで、同省から飯田吉英(よしふさ)技師(1876~1975年)が収容所に派遣され、ヤーン氏から製造方法が伝えられた。
「習志野ドイツフェア&グルメフェスタ2023」10月21・22日開催 - 住みたい習志野
習志野ソーセージの恩人、西郷寅太郎と飯田技師 - 住みたい習志野
(飯田吉英さんの著書)


(飯田吉英さん)
ソーセージ試製の好機
大正初期欧州戦争は東洋に波及し、日本軍は独乙(ドイツ)軍を支那青島において攻略し、その捕虜を内地各所に収容した。その中、千葉県習志野俘虜収容所へ収容されたもののなかにソーセージ製造を業としたものが5人もあった。その中のカール・ヤン(Karl Yahn)というものが最もその技術に長じていたので、これを利用してその技術を獲得することが絶好のチャンスだと判断し、同所では頻(しき)りに牛豚を購入してヤンに解体加工をさせて、日常の兵糧(ひょうりょう)に供し、又貯蔵用の兵糧などを製造させていた。これを聞いた私は直ちに同所へ出張し、所長と面接して来意を告げたところ、大いに賛成されて次のような条件で製造試験を実施することを取り決めた。
(中略)
習志野俘虜収容所長は陸軍歩兵大佐西郷寅太郎氏(大西郷の令息だと伝聞した)であって、痩身長躯(そうしんちょうく)容姿端麗の愛嬌ある外交官タイプの好紳士であった。曾(かつ)て独乙国へ駐在したことがあると語られた。
(中略)
西郷所長の人格
(習志野俘虜収容所長、西郷寅太郎)
西郷所長とは私は全くの初対面である。前以(まえもっ)て許可を得たのでもなく突如訪問した。勿論(もちろん)官姓名の名刺を差し出して面会を願ったのである。所が所長は直ちに副官を通じて所長室へ私を招かれ、私の用務を詳しくきいて下さった。而(しか)しておっしゃるには、あなたのお話はまことに結構なことだからあなたの都合のよいように計画して実施して下さいと、即座に承諾なされて兵糧担当官たる竹内陸軍主計官、独乙語通弁(つうべん)山口陸軍通訳官を呼入れて会談、約1時間で試験製造日程をきめたものである。所長の即決には深く感激させられた。
その後所長とは屡々(しばしば)会食も致し種々の話も聞いて、その談笑の間に従容迫まらざる※態度と親切丁寧であることに大いに敬服させられた。又折々戯談(ぎだん)をとばして人を笑わせるような話術にも長(た)けていることも知った。
※(「従容迫まらざる」⇨「悠揚迫らざる」が正しい?)
テレビで西郷寅太郎(西郷隆盛の息子で習志野ドイツ人俘虜収容所長)の生涯を紹介 - 住みたい習志野
習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野
ソーセージの製法は「秘伝」の技術だったが、マニュアル化し、だれでも作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野
H氏 ソーセージの製法はドイツでも、親方(マイスター)に弟子入りして、永年徒弟修業してやっと教えてもらえる「秘伝」になっていました。日本人が真似して作ろうとしても、形は同じように出来ても食べられたものではなかった。わずかに大木市蔵という人が横浜で、何とか国産ソーセージを作ろうと努力していましたが、それでもなかなかいい物が出来なかった。ところが、習志野で農商務省畜産試験場が、ドイツ兵からこの秘伝を教えてもらったことによって、日本中の肉屋が、別にドイツに行ったわけでも、マイスターに弟子入りしたわけでもないのに、ソーセージが作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野だ、と申し上げているのです。
大木市蔵さんのソーセージの方が習志野より4ヶ月先?
編集部 横浜でソーセージの修業をした大木市蔵さんという方は千葉県横芝の出身で、そちらこそソーセージの元祖だ、という声もあるようですね。
H氏 大木さんが横浜に出て、マルティン・ヘルツに付いてソーセージの修業をした。そしてやっと完成して、「第1回神奈川県畜産共進会」に出品したのが大正6年(1917)11月1日だった、というので、現在11月1日を「ソーセージの日」としているそうです。翌大正7年2月、畜産試験場の飯田吉英(いいだよしふさ)技師が習志野で、カール・ヤーンから秘伝を聴き取るのですが、それより4ヶ月ほどこちらの方が先だ、ということになりますね。
大木さんという人はたいへん人格者で弟子の面倒見もよく、現在も続くハム・ソーセージのメーカーの中には大木さんの恩恵に与っている所が非常に多い。我が国食肉加工業の恩人であることは間違いないのですが、しかし、この大正6年のソーセージが完成品だったかどうかというと、そこは疑問が残ります。大木さんは続く大正8年(1919)、第1回畜産工芸博覧会で銀賞を受賞、大正13年(1924)には銀座に日本初のハム・ソーセージ専門店を開くのですが、大正8年の博覧会には批評が残っていまして、「ソーセージは概して、原料肉の截切及び填充法、そのよろしきを得たりといえども、風味色沢(しきたく)に於て欠陥を有するもの多し。」と書いてあります。風味、色つやに欠陥を有するソーセージを、あなたは食べてみたいと思いますか? 要するに、まだまだだったのです。ところが、この博覧会の後、進境著しく、5年後には銀座に進出している。一気に開花したわけですね。
この厳しい批評をした審査員が習志野でドイツ兵から「秘伝」を習った飯田技師だった。
実は、上の批評を書いた審査員が、習志野でドイツ兵カール・ヤーンから秘伝を習った飯田技師なのです。
その飯田技師が習志野の「秘伝」をサジェスチョンして、大木さんのソーセージ作り、一気に花が咲いた?
私の想像に過ぎませんが、この時、飯田技師から大木さんに、「私も習志野でドイツ人から聞いたのだが、ここはこうやってみたら…」というサジェスチョンがあったのではないでしょうか。永らく苦労してきた大木さんだからこそ、一つヒントを聞けば「ああ、なるほど」と、一気に花が咲いたのではないか、と想像してしまうのですが、証拠はありません。しかし、大木さんをもって我が国ソーセージの元祖として尊敬している方々は、飯田技師からサジェスチョンを受けたのではないかというと不愉快に思われるかも知れませんね。
100年前の味復元、「習志野ソーセージ」は永久不滅!?(NIKKEI STYLE) - 住みたい習志野
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