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住みたい習志野

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ナチス・ドイツ国家は「消滅」したが、日本は戦前の国家が「改名」しただけ、という問題(2・11読者投稿PART1の「補足」)

2024-02-15 08:02:09 | 歴史

(読者投稿です)

建国とは何か?(読者投稿PART1) - 住みたい習志野

について「補足」の投稿です。

ナチス・ドイツ国家は「消滅」したが、日本は戦前の国家が「改名」しただけ、という問題

敗戦によって国家が崩壊し、消滅してしまったドイツでは、どうやって新国家を樹立し、新憲法を制定したのか。これを見ておくことで、日本は国家が消滅などしていないし、新憲法を制定したわけでもないということが、よりはっきりしてくるのだろうと思います。

ベルリン宣言で国が「消滅」し、連合国の軍政下におかれたドイツ

 昭和20年(1945)4月末、ヒトラーが自殺し、後継にフレンスブルク政府(デーニッツ政府)というものが出来ますが、間もなくベルリンは陥落。フレンスブルク政府の閣僚は全員逮捕されてしまいます。そして6月5日には連合国軍の最高司令官であるアイゼンハワー元帥(米)、モントゴメリー元帥(英)、ド・タシニー大将(仏)、ジューコフ元帥(ソ)から「ベルリン宣言」Berliner Erklärungというものが出され、ドイツ中央政府の不存在が宣言されます。

 これによっていわゆるワイマール憲法(既にヒトラーへの全権委任法によって有名無実化していた)も完全に失効し、ドイツには国家や憲法は存在しないことになりました。ドイツは米・英・仏・ソ四ヶ国の分割占領と軍政の下に置かれましたが東西冷戦は激化し、昭和23年(1948)6月には通貨改革(西側はドイツマルク、ソ連側はいわゆる東マルク)をめぐって「ベルリン封鎖」が起ります。

「ドイツ憲法制定70年」の動画(ドイツ語)

 新国家樹立の話が出てくるのは、この年に入ってからでした。2月からロンドンで、米・英・仏とベネルクス三国により「ロンドン会議」と呼ばれる会議が行われます。

ロンドン会議 (1945年) - Wikipedia

そして、ソ連占領地区を除外した地区に憲法を制定すべきであるとし、これを米・英・仏の各軍政長官に勧告することが合意されました。また、何もないところから新憲法を作るための手続き案が検討されます。まず、ドイツの各ラント(州)※の首相を集めて会議を開き、憲法制定会議を開催させること。

※ Land(ドイツ語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 独和辞典
Landは日本語で「国」あるいは行政区画としての「州」。独立性が強く、Landの首長は「首相:Ministerpräsident」と呼ばれる

憲法制定会議は人口75万人ごとに1人の割合で各ラント代表を選出させ、それで構成されること。憲法制定会議の決定は、各ラントの住民投票による批准で3分の2以上の賛成を得たとき効力を生じること、などの手続き案が定められました。

ロンドン会議の決定を受け、この年7月1日、米・英・仏の各軍政長官は、フランクフルトに各ラントの首相を集め、新憲法について3つの指示文書(フランクフルト文書)を手交します。ここで将来の国家像や、9月1日までに憲法制定会議を開くことなどが、初めてドイツ側に突き付けられたのです。各ラント首相や世論からは激しい反発が起こりました。7月8日から10日にかけて開かれた各ラント首相の会議(リッターシュルツ会議と呼ばれます)では、新憲法は制定するがそれは「ドイツの国民が自由な自己決定を行えるまでの暫定的なもの」として「基本法」と称すること、憲法制定会議のかわりに各ラント議会の代表からなる「議会評議会」を開くこと、その他、フランクフルト文書に対するドイツ側の対案が決定されます。しかしアメリカ軍政長官ルシアス・クレイはリッターシュルツ会議の決定を拒否します。ラント首相らは再度協議を行い、「基本法」という名称は維持した上で、議会評議会の決定に対する批准は住民投票ではなく、各ラントの議会が行うという妥協案を提案します。7月26日には軍政長官側もこの意見を受け入れ、これで新憲法制定への動きがレールに乗りました。

国家は消滅していたため、ラント(地方政府:州)代表で新国家を創設。東西に分かれた二つの「ドイツ」ができた

9月1日には、各ラント代表で構成された議会評議会が初会合を行い、翌昭和24年(1949)5月まで協議が続きます。また軍政長官側からは、ちょっと日本のマッカーサー草案を思い出させるような、種々の干渉的な意見書が示され、これに対して議会評議会側が反発をする、といった場面が繰り返されます。

軍政長官側と議会評議会の対立は結局、ドイツ側の主張を大筋で認めることになり、昭和24年(1949)5月8日、議会評議会は基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)を採択しました。連合国側の承認の後、5月18日から21日にかけて各ラント議会で批准の採決が行われ、バイエルン州を除きすべてのラントで批准されたため発効しました。そして5月23日、ボンを首都とする連邦共和国臨時政府が発足(初代大統領ホイス、首相アデナウアー)します。

一方、怒ったソ連側は10月7日にドイツ民主共和国を建国し、冷戦の最前線として東・西ドイツが並立することとなりました。

その後、ドイツ連邦共和国は昭和30年(1955)5月5日に主権の完全な回復を宣言します。また再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。

東ドイツ消滅後に残された5つのラントがドイツ連邦共和国(西ドイツ)に加盟する形でドイツ統一

平成2年(1990)のドイツ統一においては、東ドイツ消滅後、旧東地区に残された5つのラントが10月3日をもってドイツ連邦共和国に加盟する形でドイツ統一が達成されました。統一までの暫定憲法とされていた基本法でしたが、統一によってこれに代る憲法が制定されることはありませんでした。

国破れて山河あり。憲法がなくなっても、「地方自治の本旨」や基本的人権は、なくならない

 以上がドイツ連邦共和国の憲法制定の経過です。ここに特徴的なことは、ラント(州)の果たした役割ですね。

 よく勘違いされることですが、憲法によって基本的人権が与えられるわけではありません。憲法以前のものとして基本的人権があり、国家は憲法でそれを保障するわけです。ですから、憲法が廃止され無憲法状態になっても、基本的人権が消えてしまうわけではありません。

 これと同様に、地方公共団体の権利である「地方自治の本旨」というものも、憲法がなくなっても消えてしまうわけではありません。ナチス国家は消滅しても、バイエルン州とかノルトライン=ヴェストファーレン州といったラント(州)は残っていたわけですね。

 国家が消滅し憲法がなくなった状態からどうやって新憲法を制定しようか、というときに、ドイツではこのラントの自治から憲法制定会議を導こうとしたわけです。

   なお注意しておきたいのは、無憲法状態というのは決して、無政府の争乱状態を意味するものではありません。我々は無憲法、無国家の状態というのを、ソ連崩壊、東ドイツ消滅で目の当たりにしました。

 国家は消滅しても、国家以前の存在である基本的人権や地方自治の本旨は失われません。

 民法的秩序は生きていますから、紙くずになった東マルクを持ってパンや衣料の売買はちゃんと行われました。国家というものは会社と同様、人が人為的に設立する法人であることがよくわかった姿でした。

国家が消滅し、講和条約を結べなかったドイツ。一方「大日本大国改め日本国」と「イタリア王政を倒してできたイタリア共和国」は講和条約を締結して国際社会に復帰

 なお、ドイツが行った戦争については、講和条約は存在しません。第一次大戦においては、ヴェルサイユ講和条約によってドイツは国際社会に復帰したわけですが、第二次大戦では、ナチス・ドイツが国際社会に復帰してくることは決してなかったのです。そしてナチス国家に代る新ドイツ国家が国際社会に復帰することは、通常の新国家と同様に国家承認の手続きによって果たされたのです。

この点、日本はサンフランシスコ講和条約によって、「日本国」と名を改め民主化を果たした、かつての大日本帝国が国際社会に復帰しました。イタリアは、講和条約を結ぶ前に王政が倒れてしまい、承継した新国家・イタリア共和国が昭和22年(1947)パリで、連合国と講和条約を締結しています。

明治憲法の「改正」でできた日本国憲法

もしマッカーサーが憲法の廃止、天皇の廃位、大日本帝国の消滅などを宣言していたとすれば、各都道府県知事を集めて憲法制定会議を組織させ、新憲法を制定させることになったのでしょうね。しかし実際の歴史はそうではなく、明治憲法の改正であったのですから、日本国憲法は決して「新憲法」ではないのです。

それにしても、「同じ敗戦国であるドイツでは…」とくくられるものの、知っているようで知らないドイツの戦後。ナチス時代のことはよく知られているのに、戦後におきたことはまるで知られていないようです。

 

 

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建国記念の日について考えよう(2・11読者投稿PART2)

2024-02-13 11:58:48 | 歴史

(kokiさんの投稿です)

建国記念の日について考えよう

 

弥生時代より前に天皇がいた?

日本書紀、古事記、二つの書物は、ヤマト政権(つまり天皇制)の起源を、イザナギ・イザナミの男女の神が国土とアマテラスなどの子どもを生み、アマテラスの孫ニニギが天上から高千穂の峰(宮崎県)に降り、ニニギの曾孫カムヤマトイハレヒコが日向から大和へ東征し、橿原宮(奈良県)で初代天皇(神武天皇)が即位する、というストーリー。

自民党の国会議員は神武天皇からの天皇を実在していると主張する人が多い。代々の天皇即位は西暦がたどれるようになっている。たとえば神武天皇即位キリスト紀元の西暦では紀元前660年で、これは考古学的には弥生時代より古く、事実ではありえない。戦争中の1940年には、皇紀2600年の盛大な国家祝賀行事が行われた。

●皇紀2600年のお祝い

●2017年建国記念の日のパレード 日本会議

今年202年(令和6年)、皇紀268年、十二支では年。そしてこの十干十二支では「甲辰(きのえたつ)」。

中国の占いに合わせ、あとから作り出された「神武天皇即位の年」

ではなぜ、紀元前660年が皇紀元年=神武天皇即位の年になったのか?考えたことがあるかな?これも中国由来。「甲・乙・丙(以下、漢字変換めんどくさいので省略)」の十干、「子・丑・寅(以下略)」の十二支。このふたつを掛け算し、10×12÷2=60が暦の一つの周期60年にな「還暦」というのはこの60の周期が一巡暦が還る年齢。もう一度赤ちゃんに生まれ変わって、と赤いちゃんちゃんこを着せられる。

神武天皇の紀元前660年は十干十二支(干支)では58番目の組み合わせで「辛酉(かのととり)」。儒教によれば、辛酉の年には何かしら革命が起きる。さらに60年が21回つづいた1260年には大革命が起きる。その説に基づき、明治の歴史学者は「前回、大革命が起きたのはいつだ?」と検証し、「それは聖徳太子のときだ」と結論した。聖徳太子は日本を作ったと信じていたからね。聖徳太子が生きていたのと近い辛酉は601年(推古天皇)661年(斉明天皇)、これを辛酉大革命とするなら、その前は神武天皇が即位した年

で、601年は斑鳩宮が建立しためでたい年。661年は新羅(朝鮮)と戦争中(白村江の戦い2年後に惨敗斉明天皇崩御。まぁ、661年を大革命の年にして、西暦1860年の辛酉から2回、1260年を引けば、紀元前660年。1月1日に神武天皇即位。これは太陰暦なので太陽暦に改め、2月11日。これが今でも日本の建国記念の日(戦前は「紀元節」)。

科学的根拠もなんにもないから「建国記念日」ではなく「建国記念日」だなんて言ってごまかした

科学的根拠もなにもないから、1966年の佐藤栄作内閣(安倍晋三の祖父岸信介の弟)で、「の」をあいだにいれて「建国記念の日」にした。「の」を挿入したらどう違うのか? 建国記念日は歴史的事実を求められる。しかし「建国を記念する日」だったら日付は確定してなくてもいいだろう。こういうのを「詭弁」、「ごまかし」、あるいは大人の配慮という。改憲派の一部には、天皇が元首になったら、皇暦を使うべきだと主張しているグループもいる。もう、いいよ。元号を西暦に変換するだけでめんどっちいのに、その上に皇暦? 

それにしても明治の歴史学者はほんとにくだらない。実証のかけらもない。建国記念の日は、日本ができた日ではない。「国民の祝日に関する法律」では、日付が決められないので、2月11日は「政令で定められた日」となっている。

外国の「建国記念日」は?

外国では、アメリカは7月4日が「独立記念日」で、イギリスから独立して独立宣言をした日

中国では「国慶節」。10月1日で、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した日。

韓国は「開天節」で10月3日。朝鮮民族の始祖の檀君(タングン:熊と人間の間に生まれた伝説上の人物)が古朝鮮を建国した、とされる日。(日本の神武天皇即位の話に似ていて、根拠がない?)

イタリアは「共和国建国記念日」で6月2日。1946年に国民投票で王政が廃止、イタリアができた日。

フランスは「国祭日」で1789年に絶対王政を倒すために民衆がバスティーユ監獄を陥落させ共和制の始まりを象徴する日。(日本では「パリ祭」なんて呼ぶけど、フランスでは「7月14日(Quatre-Juillet キャトル ジュイイェ)」と言う)

ドイツは東西ドイツが再統一し、ドイツ共和国が誕生した1990年10月3日がドイツ統一の日」という記念日。

植民地だった国は、独立した日、王政支配だった国は共和制になった日が圧倒的。

国ができた日ではないので、なにか他の名前を募集したらどうだろう?

日本は、国ができた日ではないので、なにかお祝いしようという気持ちになれないね。「建国記念の日」はやめて、なにか他の名前を募集したらどうだろう。「冬の日」?「春待ち日」?バレンタインもあるし「愛の日」というのはどう? みんな! 愛がたりないんだよ。koki)

建国とは何か?(読者投稿PART1) - 住みたい習志野

 

 

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建国とは何か?(2・11読者投稿PART1)

2024-02-11 21:46:18 | 歴史

(読者投稿です)

今日は「建国記念の日」、でもなぜ2月11日?

今日は「建国記念の日」。ひと昔前は、“紀元節奉祝派”、“紀元節復活絶対阻止派”に分れて、ひと騒動起きたものですが、昨今ではそういう話も、定時ニュースの終りにちょっと、「歳時記」的に取り上げられる程度になったようです。昭和も遠くなりにけり、ですね。

戦前の「紀元節」は「旧正月の日」と思われていたし、日にちも最初は1月29日だった

 ところで、なぜ紀元節、すなわち神話の中で神武天皇が即位したとされる日が2月11日なのかは、あまりよく知られていないようです。そこでまず、その話を記しておきましょう。

 「日本書紀」は、神武天皇が大和の橿原で初代天皇に即位した日は「辛酉年春正月、庚辰朔」(辛酉(しんゆう。かのととり)の年の正月で、庚辰(かのえたつ)の日。また朔(さく。新月の日)だった、としています。

明治政府は、明治5年太政官布告第342号で神武天皇の即位をもって「紀元元年」と定め、同第344号は来る明治6年の元旦を神武即位の日に相当するものとして、これを祝日にすることと定めました。ところが明治5年12月に旧暦から太陽暦への改暦が行われ、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることになります。これによって、予定されていた祝日は、新暦で明治6年1月29日ということになりました。

 この初めての紀元節は、実際に祝日となりました。ところが国民の間には、1月29日は旧暦の元旦(旧正月)だから祝日なのだろうとの誤解が広まったといいます。また宮中からは、翌1月30日が孝明天皇祭(孝明天皇の命日)なので不都合だとの声があがったそうです。そこで政府は新たに、神武天皇即位日を2月11日と定め直し、これを紀元節とすることにしました(明治6年太政官布告第344号)。しかし、どうやってこの日付を導き出したのか、その具体的な計算方法は今も明らかにされていません。

神武天皇が即位した「紀元節」は、本当に「2月11日」なのか? 最初は別の日だったのに、1年で変更された謎の経緯。(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 こうして2月11日は、いわゆる「国家神道」を支える重要な祭日となりました。また神武元年は西暦で紀元前660年のことだとされたことから、昭和15年(1940)には「皇紀2600年」の奉祝行事が展開され、戦時体制を確立していきました。こうしたことから、建国記念日反対の声が今も続いているわけです。

  ちなみに1957年以来自民党は「建国記念日」を制定しようとし、当時の社会党はこれに反対していましたが、1966年「建国記念日(建国した日)」ではなく、「建国記念日(建国した日ではなく、『建国された、という事象そのものを記念する日』)」に名前を変えて、どうにかこうにか成立させた、とのことです。

昔の日本は中国のまねばかり。「日本書紀」の作者が中国の「辛酉革命説」によって逆算したのが、神話の中の神武天皇即位の年

 ところでなぜ、神話の中の神武天皇が即位したのは西暦紀元前660年の2月11日と特定できたのでしょうか。

十干・十二支を組み合わせた「干支」は60年で一巡します。「辛酉(しんゆう)」も60年に一回巡って来るわけですが、古代中国の思想では「辛酉」の年は大変革が起きるとされていました。これを「辛酉革命説」というのですが、特に1260年に一度、辛酉の年には大革命が起るとされていました。干支が一巡する60年を「1元」とし、21元(1260年)目の「辛酉」になると大革命が起るとされたのです。養老4年(720)に成立した「日本書紀」の編集者は、「辛酉」だった推古天皇9年(601)を起点に、その1260年前である紀元前660年を導き出したのだと推測されています。

ではなぜ、推古天皇9年を起点にしたのでしょう。その間、斉明天皇7年(661)にも「辛酉」の年があったのに、「日本書記」はなぜ、もう一巡古い推古天皇9年から遡っていくことにしたのか。推古天皇9年にはどんなことが起きていたのでしょうか? 年表を見ると、推古天皇9年にはさほどの大事件は起きていません。しかし、聖徳太子が冠位十二階を制定したのは推古天皇11年(603)、十七条の憲法を制定したのは翌12年(604)ですから、「日本書紀」の編集者から見れば、推古天皇9年はこれから大きな変革を迎える「辛酉」だったと見えたのでしょう。

こうして、紀元前660年が神武天皇元年ということになりました。また神武天皇の即位は春正月で「庚辰」の日、また「朔」(新月の日)であったといいます。そこで紀元前660年の正月前後で庚辰の日を探してみたら、前年12月20日、当年2月11日、4月19日が該当し、この中から2月11日が選定されたのだろうといいます。

古代の神話ではなく、今の「日本国」の誕生日はいつ?

 ところで、「建国」とは何なのでしょうか。現代の我々にとって、古代の神話よりも、我々が暮らしている「日本国」の誕生日を祝う方がふさわしいような気がしますが、「日本国」が生れたのはいつなのでしょうか。

戦後憲法ができた日?サンフランシスコ条約発効の日?それとも明治憲法ができた日?

 ある方は、現行の日本国憲法が公布された昭和21年(1946)11月3日、あるいは施行された昭和22年(1947)5月3日(憲法記念日)こそ「日本国」誕生の日だろうと言います(当時の社会党の提案)。ある方は、その後、サンフランシスコ講和条約が発効し、国際社会に復帰した昭和27年(1952)4月28日がふさわしいと言います(創価学会池田大作氏の提案)。しかし私は、明治憲法が公布されて、日本に初めて「国家」が生れた明治22年(1889)2月11日も、決して忘れるべきではないと思うのです。

「国家」は法人。「国家」には「憲法」が不可欠

 「国家」というものは、株式会社と同じような「法人」だとされます(国家法人説)。この意味では、邪馬台国だの徳川幕府などというものは「国家」ではありません。そして会社には必ず根本規則である「定款」があるのと同様、「国家」には「憲法」が不可欠だとされます。憲法を定め、初めて日本に「国家」が生れたのは明治22年2月11日だったのです。もちろん、明治政府がこの日を選んだのは神武神話があったからでしょうが、言ってみれば、創業の祖が神武天皇。しかしずっと個人商店であったところ、明治22年になって初めて「国家」を設立して法人になった、ということでしょうね(なお、明治憲法の施行は明治23年(1890)11月29日でしたが、明治憲法下ではこれを特に「憲法記念日」として祝うことはありませんでした)。

現行憲法は明治憲法を「改正」した形になっているので、今の日本は「大日本帝国改め日本国」。「ジャニーズ改めスマイルアップ」みたいなもの

 ある方は、それは明治国家の誕生日であろう。現代の日本国の誕生日にはならないのではないか、と反論されるかも知れません。しかし法的・形式的には、現在の日本国は大日本帝国を承継したものなのです。大日本帝国が滅亡した後、新国家が樹立されたというわけではありません。

現行憲法の「上諭」を見ると、「朕󠄂は、日本国民の総意に基いて、新日本建󠄁設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮󠄁詢及󠄁び帝国憲󠄁法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲󠄁法の改正を裁可し、ここにこれを公󠄁布せしめる。」と書かれています。つまり現行憲法は、明治憲法を廃止して、無憲法状態の中から新憲法を制定したわけではなく、明治憲法を全文改正し、その指導原理も天皇主権から国民主権に改め、国号も「大日本帝国」から「大」の字と「帝」の字を削ったのですが、しかしあくまでも明治憲法を改正したものなのです。

(「憲法改正」を報じた当時のニュース映像)

会社で言えば定款変更したものであって、法人格は一貫しているのです。「大日本帝国改め日本国」ということですね。下記の通り明治憲法を「改正」したのが現行憲法なので、第1章が「天皇」であることなど、全体の構成も同じです。

 これは例えば、株式会社ジャニーズ事務所が株式会社スマイルアップに商号変更したようなものです。商号変更だけでなく、所属タレントのマネージメントを新設の会社に移管し、創業者一族は経営から手を引き、性加害事件の賠償・清算に専念するという一大改造をしたものの、法人格としては「ジャニーズ事務所改めスマイルアップ」です。

ドイツは「ナチス・ドイツが滅亡して出来た新国家」だが、日本は「大日本帝国改め日本国」なので、大日本帝国時代の負の遺産について「我々の知ったことではない」とは言えない

 なお、現代の日本が「大日本帝国改め日本国」であることは、戦前への回帰を意味するものではありません。ドイツ連邦共和国は、ナチス・ドイツが滅亡した後に出来た新国家ですから、ナチスの蛮行についても「それは我々がやったことではない」と言い得るのに対して、日本は「大日本帝国改め日本国」ですから、大日本帝国時代の負の遺産について「我々の知ったことではない」とは言い得ないのです。株式会社スマイルアップが、ジャニーズ事務所の負債を背負っていかなければならないのと同じことです。

 このように、国家という法人の法人格に注目すれば、明治22年2月11日こそ日本国(旧称・大日本帝国)が生れた日だということになるのです。この国家はその後、指導原理を民主主義に改め、国号も日本国と変更して、今日に至っているわけです。

明治憲法の下でも大正デモクラシーがあった。明治憲法が軍国主義を招いた、と言うより、昭和の軍人・政治家が明治憲法すら踏みにじって暴走したことが問題

 明治憲法を批判する方は、明治憲法が必然的に軍国主義を招いたように考える方が多いようですが、明治憲法の下で大正デモクラシーの時期もありました。また、不戦条約(1928)に加盟・批准して、大日本帝国も侵略戦争を放棄していた事実は見落とすべきではありません。軍国主義は明治憲法体制の必然ではなく、むしろ、昭和の軍人・政治家が明治憲法すら踏みにじり、不戦条約を無視していったからこそ、あの大戦争になったのではないか。国民がこうした憲法無視に無関心だったからこそ、その流れを防げなかったのではないかと私には思われるのです。「国家は法人なり」「天皇はその最高機関なり」という美濃部学説を「国賊の妄説」と糾弾した時、その暴走が始まったのでしょう。

現行憲法を法として守る覚悟がなければ明治憲法と同じ結果になるかも知れない

 こうした歴史にかんがみれば、戦争放棄・軍隊不保持を掲げる日本国憲法であっても、これを守ろうという意識がなければ不戦条約と同じことになってしまいます。憲法はお守りでも呪文でもありません。法として守る国民の覚悟がなければ、明治憲法と同じ結果になるかも知れない。これは日本国の誕生日を明治22年2月11日と考えたとき、初めて得られる視点なのではないでしょうか。

 

 日本国という「国家」の誕生日はいつなのか。これこそ2月11日が発している問いかけでしょう。

(追記)

辛酉革命説を紹介した古代中国の占い本に「廿一元爲一蔀 合千三百廿年」(21元をもって1蔀となし、合せて1320年)と、おかしなことが書いてあるのだそうです。干支が一巡する60年が「1元」なので、21元は1260年。ところが21元は1320年だという。そこで、1260年で計算するならば推古天皇9年の辛酉から、1320年で計算するならば斉明天皇7年の辛酉から遡って、紀元前660年が神武即位だ、ということになるのだそうです。

 

 

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習志野市が生んだ日本民間航空のパイオニア「伊藤音次郎」

2024-02-10 20:30:59 | 歴史

(チイコミ!の記事より)

飛べ!少年の日の夢へ 日本民間航空のパイオニア「伊藤音次郎」

【習志野市】飛べ!少年の日の夢へ 日本民間航空のパイオニア「伊藤音次郎」 | 千葉県、埼玉県中心の口コミ情報、地域の声がみえるチイコミ!

【習志野市】飛べ!少年の日の夢へ 日本民間航空のパイオニア「伊藤音次郎」 | 千葉県、埼玉県中心の口コミ情報、地域の声がみえるチイコミ!

日本の航空黎明(れいめい)期、民間航空界に大きく貢献した伊藤音次郎。 活躍の舞台は鷺沼海岸(習志野市)の干潟飛...

千葉県、埼玉県中心の口コミ情報、地域の声がみえるチイコミ!

 

日本の航空黎明(れいめい)期、民間航空界に大きく貢献した伊藤音次郎。

活躍の舞台は鷺沼海岸(習志野市)の干潟飛行場でした。

自分で作って世紀の大冒険飛行を敢行

ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した1903年のわずか12年後、1915年に伊藤音次郎は自分で飛行機を造って千葉の空を飛びました。

1916(大正5)年恵美号全国巡回飛行(伊藤家所蔵)

 

「安全な飛行機を造り大勢の人や荷物を運ぶ!」、音次郎はこの少年時代の夢を追い続け、日本の民間航空の歴史に大きな足跡を残しています。

大阪で生まれ13歳で丁稚(でっち)奉公に出た音次郎の人生は、17歳で見たライト兄弟の活動写真で決定づけられました。

「自分で造ってみたい」と19歳で上京、1915年24歳の時に、働きながらほぼ独学で設計・製作した飛行機「恵美号」で空を飛んだのです。

翌1916年1月には稲毛と東京を55分かけて往復し、民間機として初めての帝都訪問飛行に成功。

航続距離が短かった当時では快挙となり、日本中を熱狂させました。

また同年4〜11月には全国巡回飛行を行い、各地で大歓迎を受けました。

民間航空のふるさと習志野

音次郎が当初拠点とした稲毛は、遠浅で潮が引くと広大な干潟が広がり、しかも砂が締まって固く、滑走路として利用可能なものでした。

しかし1917年の台風の高潮で壊滅状態に。

そのため津田沼町(現習志野市)鷺沼海岸に研究所を再建したのです。

以来約30年にわたり音次郎は習志野で、民間航空発展のために奮闘し続けました。

困難や挫折を繰り返した音次郎ですが、そのたびに復活、多くの飛行機やグライダーを製作し、貴重な航空写真も残しました。

また後進の育成にも力を注ぎ、その門下生はそれぞれの道で活躍し、今日の民間航空の礎を築き上げたのです。

音次郎を知ってもらい後世に伝えたい

そんな音次郎を今に伝えたのが長谷川隆さんです。

小学校校長を退職後、音次郎のアルバムとの衝撃的な出合いをきっかけに、膨大な資料を集めて研究を重ね10年の時を経て『歴史的資料で読み解く伊藤音次郎』を自費出版したのです。

本の多くは近隣の学校や図書館などに寄贈する予定とのこと。

「少年時代の夢の実現に向けて、諦めることなく挑戦し続けた音次郎を多くの人に広く伝える役割を担いたい」と、長谷川さんは語ってくれました。

※参考文献『歴史的資料で読み解く伊藤音次郎』遊タイム出版

昔、鷺沼に飛行場があった 民間航空開拓者 伊藤 音次郎の伝記を出版した長谷川さん - 住みたい習志野

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今の一中がある場所は昔大きな池だった

2024-01-21 21:54:34 | 歴史

(東京新聞の記事より一部引用)

<ぷらっと千葉 でこぼこ探訪>習志野の「巨大池」 雨で水害多発…痕跡残す水路跡:東京新聞 TOKYO Web

習志野の「巨大池」

雨で水害多発…痕跡残す水路跡

駅前に大型商業施設が立ち並ぶ津田沼駅。

古地図と現在の地図を照らし合わせると、奏の杜(かなでのもり)1丁目にある習志野市立第一中学校とその南西側にある谷津6丁目周辺の低地が、かつて庄司ケ池があった場所であることがわかる。

そして第一中学校の南東側には「庄司ケ池と弁財天」の解説板が立っている。

「このあたりには大正時代まで庄司ケ池という池があった。周辺から雨水などが流れ込み、池となっていたようだ。名前の由来はわかっていない。池の周辺3カ所には水の神様でもある弁財天が祀(まつ)られていた。庄司ケ池は大雨になると水があふれ、周辺の畑に大きな被害を与えた。このため、大正時代のはじめ、池の水を東京湾に流す排水工事が計画された。千葉県の補助金と地主たちの出資により大正3(1914)年1月に着工し、同年9月に完成した。」

 

 

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