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読者からの情報:広島市似島ドイツ人俘虜収容所とバウムクーヘン - 住みたい習志野
でご紹介した広島市似島臨海少年自然の家のホームページ
ドイツ人俘虜収容所 (city.hiroshima.jp)
に載っていた、ドイツ兵捕虜の「ヴァルツァーさん」について、習志野市が深く関わっています。今回はそのことをご紹介したいと思います。
⑯ Walzer(ヴァルツァー)Viktor(1872-1956)
所属部隊不明・後備伍長。応召前は為替仲介業を営んでいた。ヴァルツァーは長らく歴史の中に埋没していた人物だった。しかし2002年(平成14年)に、インターネットの研究組織「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」を通じて、調査を依頼された東京在住の篠田和絵氏の祖父であることが判明し、やがて篠田和絵氏はドイツに赴いて、祖父の墓前に詣でる事ができたという、実に感動的な出来事があった。『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第2号に篠田和絵氏ご自身による「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール。ヴァルツァーへ」の文章が寄稿されている。ヴァルツァーはダルムシュタットの大手化学薬品取扱商社メルク(Merck)に勤務していた。27歳のとき、ロンドンに渡り、その後青島に赴き為替仲介の仕事に就いた。青島では長崎出身の日本女性ウメさんと家庭を持って娘二人をもうけ、市内中心のフリードリヒ街(日本による占領・統治時代は静岡町、ユーハイムの店があった通り)に住んだ。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争が始まると、ヴァルツァーとウメさんは離れ離れに引き裂かれた。戦争が終結して似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメさんと接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は姪夫婦の近くに住んだ。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があり、篠田和絵さんの手元にも全く同じ写真があるとのことである。大阪収容所から差し出された手紙、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙が遺品として遺されている。習志野市教育委員会の星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の調査と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第1号、青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会)。ラインラントのメッテンドルフ(Mettendoruf)出身。
ヴィクトール・ヴァルツァー(1872~1956)の生涯より
「ワルチェルさん」について書かれた文章には、以下のようなものがあります。ワルチェルさんの消息をたどるのに、「習志野市教育委員会捕虜研究者」が大きく貢献していることが書かれていますので、習志野市に関する記述は太字にしてみました。
http://koki.o.oo7.jp/Leben_Walzers.htm
ヴィクトール・ヴァルツァー(1872~1956)の生涯より
84歳のヴィクトール・ヴァルツァーが、1956年6月18日にヴァックスヴァイラーで永久の眠りに就いた時、彼が一つの秘密を墓に持って入ったことを知るものは、誰一人いなかった。しかしその秘密に、彼の死後50年を経た今になって、ようやく光が当てられることになった。そうなるに至った背景には、ここドイツと遙かな国日本において、驚くべき偶然が作用しあっていた。このことに関しては後で詳しく述べることにして、まず最初に若きヴィクトールと当時の時勢を追ってみることにしよう。
独仏(普仏)戦争の一年後、1872年2月2日にヴィクトールはのんびりとしたメッテンドルフ村で、子沢山な家庭の末っ子として生を受けた。母親はメッテンドルフ出身のアンナ・カタリーナ・ロッヘン(1833年生)、父親はマティアス・ヴァルツァー(1818年生)だった。両親は大規模な家族企業を営んでおり、扱う対象は食料品、繊維類、タバコ類から鉄製品、ホテル業、製革業、小さくない規模の農業にまで及んでいた。このような家族経営の企業を生業としている以上、家族全員が一体となって家業を手伝わなければならなかった。にも拘らず、父親のマティアスは子供たちが堅実な職業教育を受けることが出来るよう努力を惜しまなかった。長男であるハインリッヒは家業を継ぐことになっていたので、父親自身が少年時代に職業訓練を受けたメッツ市の商店に修業に出された。父マティアスはロートリンゲンのティオンビルでフランス人として生まれており、一生ドイツ語との格闘が ― 少なくとも書き言葉の面で ― 続いたという。それゆえにヴィクトールへのある手紙の中で、「ドイツ語の綴りがペン先からうまく出てこないから、今後は手紙はフランス語で書くつもりだ」と宣言している。
マティアスは末っ子を特に可愛がっていた。末っ子は、早々と温かい家庭を去り、冷たい世間の風に当てられる定めにあり、長きにわたり故郷を離れる不幸を甘受せねばならなかったからであろう。ヴィクトールは幼年時代は、のんびりした故郷の田舎で4人の兄姉たちに囲まれて過ごすことが出来た。卒業した小学校も故郷の村にあったが、そこはかつて祖父であるヘンリクス・ロッヘンが初の正教員として教鞭をとっていた学校だった。家族から離れる最初の離別は、恐らく彼にとってもっとも辛い別れであったろう。ギムナジウムに通うために、慣れ親しんだ村を去り、トリーアの街に移らなければならないときが来たのだ。そして親類の家で暮らすことになり、帰省できるのは長期休暇のときだけであった。ところが1890年の12月に家から即刻帰省するようにとの連絡をうけた。母親が危篤との知らせであったが、クリスマスを前にして他界した。
彼はギムナジウムをいわゆる「一年課程」で卒業した。つまり、彼はこの課程の証書を持っていたため、普通は2~3年かかる兵役を、一年で済ますことが出来た。ただし、ヴィクトールはこの兵役一年間の洋服代と食事代を、自己負担しなければならなかった。このことは、彼の親元のヴァルツァー家が相当に裕福であったことを物語っている。1892年に彼は、下の写真のような粋な軍服を着て、ドレスデンで兵役についた。ドレスデンへの旅は、彼にとって初めての長い汽車の旅であった。都会での印象があまりにも強烈だったためか、あるいは兵役がきつ過ぎたためか、4月から6月まで全く消息が途絶え、その間父親は息子の安否に関して気が気でなかった。
ヴィクトールは1893年から1895年まで、デューレン市のメルケンで、たばこ工場の2年契約の見習い職として、商人となるための教育を受けた。修了証書には、彼が「複式簿記の正確な知識および商業文作成の高度の能力を持ち、あらゆる種類の商取引に精通している」ことが証明されている。おそらくこの時期に、彼は自身の仕事の場を外国に置くことを決心していたと思われる。なぜなら、現存する手紙の中、この時期に一番近いもので、父親によって1897年6月に書かれたものを見ると、これはすでに極東の天津にいる息子に宛てられているからである。天津に行くまでの1年あまりの期間のほとんどを、ヴィクトールはロンドンで過ごした。貿易商人として働くには、様々な実務経験のほかに、英語能力が必要だと感じたようで、ある貿易会社で働きながら英語の知識に磨きをかけた。
彼が1897年4月1日に出航した船旅については、毎日書き込んだ船旅日記が残されていて、われわれはこの旅がどんなものであったかを知ることが出来る。乗船後数時間にしてすでに、海になじめないネズミたちの騒ぎに悩まされたことや、嵐に遭遇したため船酔いで5日間寝ていなければならなかったこと。天候が良くなってからは、直ぐにもとの元気を取り戻し、その後は船旅を満喫したこと。最初の上陸はアルジェリア、それからスエズ運河、紅海、アデン湾を通過。するとそこはもうインド洋であり、彼にとって未知のアジアという新世界だった。南十字星が彼には非常に印象的だった。船は5月10日から数日間シンガポールに留まり、そして数日後には香港に着いた。ここでロンドンの貿易会社の社員が彼を出迎えた。数人の商社員たちがこの大都市の観光を堪能させてくれた。クライマックスは多くの夕食会への招待であり、蒸気自動車に乗っての観光、また遊覧船で香港を海上から観光したことであった。一週間後に到着した上海は、ここでも幾度か招待があったにも拘らず、その印象は香港ほど強烈ではなかった。そして、ヴィクトールの船旅は、6月4日に船が海河の河口に錨を下ろしたことによって、ついに終わりを告げた。デンマーク領事夫人と一緒にトンパーを借り切り、10マイル離れたトンクーまで5時間かけてたどり着いた。そこから天津までは鉄道が敷かれていたので、汽車に乗り換えた。そして、ヴィクトールは天津で、彼が働くことになっていた会社の商社員たちによって温かい歓迎を受けた。
最初の一ヶ月はドイツ・クラブで寝起きしていたが、その後はアパートを見つけて自分用に気に入るような心地良い調度を揃えた。ヴィクトールはカルロヴィッツ社で経理係として5年間勤めた。この商社は中国で何十年にも亘り種々の取引を行っていたが、そのなかには現在では問題視される商品、例えばアヘンや銃砲なども含まれていた。またこの商社は、その地に支店網を展開していた。義和団の乱として歴史に残っている騒動が起こったのは、ヴィクトールがカルロヴィッツ商社に勤めていた時期にあたる。1890年代には色々の事件が起こり、中国国民の大方は「外国人」、特にキリスト教伝道団に対して敵対意識を持っていた。そしてついにヨーロッパ人、特に宣教師への攻撃が始まった。植民地支配者達は反撃を強いられる形になり、結局、本格的戦争へと突入していった。1900年6月に天津市が反乱軍と中国正規軍に砲撃され包囲されたとき、ヴィクトールはこの戦争に直面することとなった。上海発1900年8月27日付け葉書の中で、ヴィクトールはこの事件について兄フェリックスに短くこう伝えている。「3週間前からここ上海に来ています。その前の3週間は日本にいましたが、ここでの3週間は天津市の包囲砲撃のストレスから癒されるとても良い期間でした。」
1902年にヴィクトールはエドゥアルト・マイヤー貿易商会に転職した。
そこでヴィクトールは、すでに長くその商会に勤めており後年(1926年)同商会の共同経営者になるドイツ人フリッツ・マッケと知り合いになった。この二人は強い友情で結ばれており、ヴィクトールの日本での捕虜生活の間も、解放後もその友情は続いた。ヴィクトールの中国滞在は、1907年に本国への休暇をとったときに、中断された。
そのとき彼はシベリア鉄道を使って本国に帰った。マイヤー商会は1908年に退職しているが、しかし少なくとも1911年までは天津に居住していた。チンタオに移住したのは1912年頃である。チンタオで彼は、株式仲買人として新しく出発することになる。1913年1月8日付けで、チンタオの商業登記簿に彼の名前が株式仲買人として登録されている。1913/14年版の住所録によって、彼の職場の住所がフリードリッヒ通りとブレーメン通りの角にあったことが分かっている。彼の事務所のあった建物は、モダンな高層ビルを背景に、あたかも忘却の彼方からの遺物のような姿で、今日なお現存している。
まもなくヴィクトールは駐チンタオ・ドイツ商工会議所の秘書の役にも就いた。
1914年に第一次世界大戦が始まり、今度は日本を相手に再び戦争がヴィクトールの運命に切り込んでくることになった。すでに1897年以来、ドイツはチンタオに足場を固めていたが、ドイツ人はそこに港を造り、軍の圧力なしに、膠州湾沿岸租借地を99年間租借することに成功していた。しかし日本人にとっては、この大戦は、自国の権利を中国で拡大するまたとない好機となった。ドイツの不十分な防衛態勢では、多勢の日本兵によるチンタオ占領を、阻止することは無理だった。ヴィクトールは当時すでに43歳になっていたにも拘らず、またもや軍服を着て、戦わねばならなかったようで、1915年1月14日に日本軍の捕虜になった。彼とともに、5000人近いドイツとオーストリアの兵士達が次々と船に乗せられ、分散して日本のいくつかの収容所に収容された。ヴィクトールはまず大阪収容所に収容された。
収容所での扱いはそれほど悪くはなかった。捕虜たちは日が経つにつれ、ある程度自由に動く許可が与えられ、食事も充分にあった。足りないものと言えば、規則正しくこなすべき仕事ぐらいであったろうか。営利目的の仕事は、後には許可されることになるが、長い間禁止されていた。しかし、収容所の外から送金してもらうことは許されていたので、
それが可能な捕虜は、色々なものを購入して個々の願望を満たすことが出来た。いくつかの収容所は寛大で、相当な自由を認めていた。そのような収容所では、スポーツや文化交流が行われ、例えば、ドイツのサッカーチームが日本チームと戦ったり、演劇やコンサートも頻繁に開催されていた。この意味でクライマックスとも言うべきは、模範収容所とされる
板東収容所で、捕虜たちによってベートーベンの第九交響曲が演奏されたことである
が、これは日本における第九の初演として、今日でも日本で話題にのぼることがある。これに似た催し物は、ヴィクトールの収容所には最初の頃はまだなかったらしい。1916年4月に書かれた手紙は、収容所が火事に遭い収容棟の一部が消失したため、焼け跡でサッカーや他のスポーツが出来るようになったと伝えている。1916年のクリスマスの祝いには大きなホールが充てられたが、このホールは恐らく他のいろいろな催し物にも利用されたであろう。
なお、様々な活動が許可されていたらしく、小動物の飼育や、庭仕事などは認められていた。しかも多くの本が並べてある図書室では、本の貸し出しも可能であった。ある戦友の埋葬には衛兵も含めた全捕虜が参列し、さびしい岡の上の墓地に花輪を捧げることが出来た。その花輪たるや、ドイツの花輪作りの専門家も顔負けするほど立派な花輪に見える。
収容所の火事は結局、大阪収容所を閉鎖し、一年後にこの収容所の捕虜たちを「似島」に移すきっかけとなった。ヴィクトールがそこでどんな生活をしていたか、残念ながらわれわれには知る由もない。「似島」時代に関しては、彼の手紙も写真も残されていないからである。1919年から1920年にかけてやっと、捕虜たちは本国帰還が許された。ある者は日本に留まり、またある者はチンタオに帰っていった。ヴィクトールは、あとで述べるように、日本に留まるべき理由があったにも拘らず、その選択をなさなかった。収容所での5年間にもわたる耐えがたきホームシックが、恐らく彼を祖国へと駆り立てたのであろう。
帰国したものの、故郷はあまり心地よいものではなかった。父は1902年に他界しており、祖国の窮状は目に余るものがあった。敗戦によって経済はどん底で、忍び寄るインフレーションが不吉な影を落としていた。政治の混乱が、一貫性のある失業対策を不可能にしていた。にも拘わらずヴィクトールは1921年に、ユルディンゲンにあるヴァイラー・テルマー商会に、一時的でしかも安月給ではあったが、外国との通信係として就職することが出来た。幸い、1920年代半ばにルートヴィヒスハーフェンにある化学会社BASFで、彼の要求をある程度満たす条件で採用された。しかし、1929年のニューヨーク証券取引所における株価暴落により、ドイツは瞬く間に大恐慌に見舞われ、これが最終的に、彼の職業生活に終止符を打つ結果となった。採用されたばかりの彼は、1930年にはもう解雇されてしまったのである。
やがて60歳になろうとする人間に対して、当時就職の道は完全に閉ざされていた。彼はしばらくの間、兄フェリックスのところで世話になった。兄はバート・ナウハイムで心臓病理学者として私立療養所を経営しており、成功を収めていた。しかし、まもなくリンブルクに移り住むことになる。リンブルクでは姪のアンナ・ギーレンツ一家が温かく迎え、彼はこの調和に満ちた家庭に融け込むことができた。まもなく彼は姪アンナを正式に養子として籍にいれて、平和な家庭を確固たるものにした。彼は、姪の二人の子供たちゲルトルートとゲルハルトの「祖父」という新しい役割に満足し、子供たちも「おじいちゃん」に大変なついていた。
アンナの夫アダム・ギーレンツはジャーナリストでリンブルクの地方紙「ナッサウ・ボーテン」の編集長であったので、生活は安定していた。台頭し始めた国家社会主義(ナチズム)は、彼の受けた教育および人生観からは唾棄すべきものであり、アダムは新聞記事の中でもその考えを隠すことをしなかった。ある日彼は、社説の大見出しに「ヒトラーがドイツ帝国首相になるのを阻止せよ!」と書いたとのことである。ヘルマン・ゲーリングが選挙前の1933年3月7日に行った演説に対して、批判的な意見を表明したため、彼の新聞は3日間の発禁処分を受けた。
アダム・ギーレンツの娘ゲルトルートはある覚え書きの中で、この時代について以下のように記している。「1933年の5月1日の祝賀パレードの際、父の意を受けて、『ナッサウ・ボーテン』紙の全社員が『ホルスト・ヴェッセルの歌』を歌いながら『ドイツ式挨拶』を行うことを拒否しました。数千人の参加者の中で、彼等が唯一の拒否したグループでした。この『無礼』に対して、父への集中攻撃が始まり、夜中に玄関に石が投げつけられたりしました・・・」。匿名の脅迫電話がしばしばかかり、ついにギーレンツは6月30日の夜、密かにリンブルクを去った。夫人と子供たち、そして「ヴィクトールおじいちゃん」は不安を抱えたままリンブルクに留まった。ルクセンブルクの親類の元に身を寄せていたギーレンツは、ほとぼりが冷めるのを待ってリンブルクに戻ってきた。しかし、新聞記者としての道はもはや閉ざされていた。
アダム・ギーレンツが大変な苦労の末、やっと職を見つけることができたので、ヴィクトールは家族と一緒にアシャッフェンブルクに引っ越した。そして1939年にはさらにグラーツに引越した。ギーレンツはグラーツで「グラーツ・クライネ新聞」の編集長に就任した。父親のアダムはそれまで以上に忙しくなり、母親のアンナも大きな住居になったので家事でてんてこ舞いの日常になった。それゆえに成長盛りの子供たちにとって、祖父ヴィクトールの存在は新しい意味を持つようになった。ゲルトルートはかつて彼について、興奮気味に以下のように書いたことがある。「祖父は私の子供時代に大切な居場所の役を担ってくれました。つまり、祖父の存在は、その上にいつでも何でも打ち建てることの出来る、堅い「岩」のような存在だった、と言って良いかもしれません。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか?」この様に、第二次大戦の最初の数年はヴィクトールにとって、それ程おぞましい時期ではなかった。それは1944年にやってきた。この年、グラーツは連合国側からの爆撃を受け、第二次大戦も最終段階に突入した。
ギーレンツは1944年に社員と一緒にクラーゲンフルトへ移るよう指示され、また息子ゲルハルトはダッハシュタイン山地への学童疎開を余儀なくされていた。そのようなわけでソ連軍侵攻から逃れようとしていた時期、ヴィクトールと一緒だったのは、アンナとゲルトルートの二人だけだった。この3人連れのグループは、敗走する離散兵士達と一緒に、険しいゾルク峠を登り、そしてエンスの谷まで、歩いてたどり着いた。当時、エンス河はソ連占領区域との境をなしていたが、このエンス河を渡るとき、偶然が彼らを救ってくれた。牛乳運搬車が彼らを同乗させてくれたのだ。その日は土砂降りの雨だったが、荷物が濡れぬように覆ってあった防水シートが、三人の逃亡者をも隠して、彼等はソ連の国境監視兵の目をかすめて逃げることが出来たのである。そして、グレープミング近くの農場でしばらくの間、受け入れられた。
ソ連軍が撤退した後、ヴィクトールはギーレンツの家族全員と共にまたグラーツに戻ることができた。家族は極めて狭い場所で暮らせねばならなかったが、それもオーストリアに住むドイツ人の国外追放令が公布された1946年までだった。小さな荷物と大きな辛苦をかかえて、ヴィクトールはまたもや人生の新しい章に歩み入らねばならなかった。
この時点で、ヴィクトールはギーレンツ一家と共に過ごすことができなくなった。何故なら、この時代に全員が一緒に住めるような広い住まいを見つけることは到底不可能なことだったからだ。ヴァックスヴァイラーに住む姪のマルタ・ケルンス(アンナの姉妹)の家に、ヴィクトールは温かく迎え入れられた。ここでこの先10年間暮らすことになるわけだが、グラーツの家を美しく飾っていた中国土産の愛用家具は、すべて放棄しなければならなかった。その代わり、彼はアイフェル地方の平和で牧歌的な雰囲気を楽しむことが出来た。われわれにとって叔母にあたるこのマルタは、生粋のアイフェルっ子で、その人柄は、家の外にも知られていた。彼女の家は客を歓待することを喜びとしていたが、それは今私の眼前にある「来客記念アルバム」も証明している。このことはヴィクトールにとって幸いだった。なぜなら、彼は人生を、最後まで親戚や世間との良き関係のうちに過ごすことができたからである。冒頭で述べたように彼は1950年代の半ばに息を引き取った。本来ならば、彼の死をもってこの文章を閉じることもできるのであるが、冒頭で述べた「秘密」に触れないままで終えることはできない。そのためにまず、ザールラント在住のハンス・ヨアヒム・シュミット氏(原注*)の言葉を引用させていただこう。彼は日本のドイツ兵捕虜収容所の歴史に関しては第一人者である。
「すべては、1984年にザールラントで購入した家の屋根裏で、妻が、前所有者マイレンダーの文書類を発見したことから始まった。マイレンダーは1912年から1914年までチンタオの兵士であり、その後1920年まで日本に捕虜として収容されていた。妻は、共通の知人と私に、これを本にして出版すべきだと主張した。このテーマの研究を開始した私は、そこに多くの喜びを見出し、ついに、マイレンダーへの関心を遙かに越えて、調査の対象を、1914年にチンタオに居たすべて戦闘員、非戦闘員にまで、広げることを決意した。」
シュミット氏は日本の捕虜収容所に収容されていた者全員の名簿を作成し、すでに故人となっている捕虜達の親族や関係者などと連絡を取り、情報収集を開始した。彼はまず自分の住まいに比較的近い場所から調査を始めていたので、ヴィクトール・ヴァルツァーの親族がメッテンドルフにいることは、もっとも早い時期に調べ上げていた。すなわちシュミット氏は、ヴィクトールが日本からの帰還後にどのような生活を送っていたかや、ヴィクトールがギーレンツ家とケルンス家で庇護を得ていたこと、そしてついにヴァックスヴァイラー村で死亡したことも調べていた。
極東日本において捕虜収容所があった習志野市で2000年に、『特別史料展 ドイツ兵の見たNARASHINO』と言う展示会が開催され、72歳の三井悠二と言う男性がたまたまこの展示会を訪れた。
そしてそこで、『ドイツ兵士の見たニッポン』と言う捕虜たちの運命的な足跡を示す本を手に取った。
この史料展と本は三井氏に強烈な印象を与えた。特に彼が残念に思ったのは、この本が各誌書評などでは好評を博したものの、版元側の都合もあってなかなか店頭に流れず、入手が困難なことであった。三井氏は、元印刷所経営者の経験を生かし、いろいろ奮闘してこの本の重版を出すことに成功した。この本の重版のため奔走しているとき、三井氏はふと、子供時代に亡くなった自分の母親ウメ
が、自分の最初の夫はドイツ人であった、と話していたことを思い出した。彼は早速異父姉の時子
(時子)
に連絡して、彼女の父親が大阪の収容所に収容されていたことを聞きだした。
彼の名前は「ワルチェル」、あるいはそれに似たような発音の名前だった、と彼女は言った。時子の母親ウメは1909年に、生まれ故郷の長崎から天津にわたった。彼女は早く両親をなくし、親戚に育てられたという境遇もあって、新天地を求めて、天津へ働きに行く友人夫婦に同行したのだった。そしてそこで一人のドイツ人商人(Viktor Walzer)と知り合うことになった。二人は結ばれ二人の
娘をもうけ、娘たちはそれぞれは時子(1911年生)、
照子(1913年生)と名づけられた。
(照子)
(和絵を抱く照子)
その後、一家はチンタオに引っ越した。ヴィクトールが1915年に捕虜となり、大阪収容所に収容されたとき、ウメは二人の娘を連れて長崎に戻った。ウメはしばらくヴィクトールの消息を待ったが、何の情報も得られず、その後1925年に日本
人、つまり三井氏の父親、と結婚した。
三井氏は習志野教育委員会捕虜研究者の星昌幸氏に「ワルチェルは誰か」についての探索をゆだねた。星氏は、「ワルチェル」というのはドイツ語のWalzer(ヴァルツァー)が訛ったのであり、ヴィクトール・ヴァルツァーがその人ではないかと推察した。折りしもそこに、照子が所持していたヴィクトールからウメに宛てた手紙を持って、照子の娘和絵が星氏の前に現れた。この時期、既に照子は他界、時子も、ヴィクトール・ヴァルツァーの面影を知る唯一の人間であったのだが、肺炎のため90歳で他界したばかりであった。結局、姉妹は最後まで父の消息を知ることはなかったのである。
捕虜研究家の星昌幸氏は、ヴィクトールの手紙を読む機会を得た。手紙というのは、照子の娘篠田和絵が母親の遺品の中に、英語で書かれたヴィクトールからウメへの手紙の束を見つけたのだった。手紙は大阪収容所から発送されていた。手紙の中の一つは以下のような文で終わっている。
「お前の手紙を待っている。お前と、私のちっちゃな娘たちが、どんな風に暮らしているか知らせて欲しい。私の想いはいつもお前たちのところに飛んでいっている。私はいま収容所で囚われの身であるけれど、お前と、私の可愛い娘たちがここにいてくれさえすれば、こんな辛いところでも全く平気だと思う。いつお前たちに再會できるかは、神様にしか分からない。まだ相當時間がかかるかもしれない。
たくさんのキスをお前と娘たちに送ります。
お前のヴィクトール・ヴァルツァーより」
この時点で初めて、「ワルチェル」が捕虜ヴァルツァーのことであったことがはっきり証明された。今や和絵の心に火がついた。そして、和絵は早速、実の祖父であると判明したこの男に関して、詳しい調査を開始したのである。彼女は、習志野史料展の責任者であった星氏と情報を交換しあった。星氏はすでに2001年以来、ハンス・ヨアヒム・シュミット氏と連絡を取り合っており、2003年の夏、星氏の仲立ちでシュミット氏と篠田和絵との結びつきが生まれたことにより、ついにヴィクトールに関する謎は解かれ、「輪」が完成されたのだった。
シュミット氏の話では、彼はヴィクトール・ヴァルツァーの孫娘(ドイツ人)を知っていて、彼女はフランケンタールに住んでいる、とのこと。和絵はこの話を聞いたとき、これ以上の調査はすぐに打ち切るべきだと感じた。ヴィクトールにドイツ人の孫娘がいて、しかもその孫娘は、祖父の子孫が日本にも存在しているということを知らない。そういう状況では、その孫娘の心の平和を掻き乱すべきではない、と思ったのだった。和絵の悩みをシュミット氏はすぐに解消した。彼は和絵に次のように言った。「ゲルトルート・ギーレンツはヴィクトールの実の孫ではなくて、姪の娘です。ヴィクトールはドイツでは一生独身を通し、ゲルトルートを自分の孫のように可愛がっていました。私がゲルトルートに貴女の存在を知らせると、彼女は『日本に親戚がいるなんて、なんて素晴らしいんでしょう!』って言ってましたよ」。この言葉を聞いて和絵は、コンタクトを取ることを躊躇(ためら)わせていたすべての気持ちがすっかり取りのぞかれた、と感じた。それから二人の間で文通が始まり、和絵は夫と共にドイツに行き、ゲルトルートを訪ね、メッテンドルフに眠っている祖父の墓を訪れて祈りを捧げた。
これでもって、冒頭に述べられた「秘密」についてはほぼ解明されたわけだが、しかし、幾つかの問いは、解かれないままわれわれに残されている。つまり、なぜヴィクトールはウメと娘たちを日本に残して、自分ひとりで帰還の船に乗り込んでしまったのか?例の手紙によれば、彼は彼女たちを大変愛していたのに。彼は、あとで家族を呼び寄せるつもりだったのだろうか?それとも戦後の困窮の最中に、彼の計画は挫折してしまったのか?それとも、ウメが全く新しい異国の環境の中で、ドイツ人に受け入れられず、結局ドイツでの生活が破局をもたらすかもしれないことを危惧したのだろうか?結局われわれは本当の理由を知ることはないであろう。ヴィクトールを熟知している人間は数多くいたが、彼等は皆知っている、彼が決して、生半可な気持ちで最終決断を下したのではないことを。
エッセー「ワルチェルさん」のこと
ドイツ兵の霊に導かれるかのように、三井さんと出会い、「ワルチェルさん」の足跡を研究することになった「習志野市教育委員会捕虜研究者」が書いたエッセー(随想)「ワルチェルさん」のこと をご紹介します。
随想
「ワルチェルさん」のこと
星 昌幸(習志野市教委・社会教育課:当時)
テレビのバラエティー番組では、「超能力者登場」だの「死者の霊と対話できる」だのといったショーが花盛りである。読者諸氏は、ああいったものを、どんな目でご覧だろうか。私は否定的というか、科学万能とも思わないし、世の中には確かに不思議なこともあるのだろうが、ただテレビでやっているものは演出過剰なショーに過ぎないだろうな、という立場でニヤニヤ眺めている。
ところで、習志野のドイツ捕虜の調査を始めて、はや6年。この調査をやっていると、思わず「これはもしかすると、ドイツ兵の霊が導いてくれているのではないか?」と思うような、不思議な出会いを、いくつも体験した。鳴門市ドイツ館や久留米市教育委員会の皆様に、いろいろ指導していただいたとは言え、6年で史実の概略が浮かび上がるまでになったことも、ラッキーと言えばラッキーであった。と言うよりも、6年前、市内のお宅からドイツ兵が残したボトルシップが発見された際、まったく日を同じくして久留米市教委の堤さんからお電話をいただき、これが端緒になってこちらもドイツ捕虜調査を進めることとなったのだから、考えてみればこれも不思議なことである。
こうして平成12年には、ささやかな史料展を開くことが出来た。また、この史料展の図録を元にした書籍を刊行(丸善ブックス「ドイツ兵士の見たニッポン」)することも出来たのだった。
ところで、この史料展の会場に足を運ばれた中に、三井悠二さんという方がいる。こちらの市内にお住まいで、このドイツ兵の歴史には心底感動して下さった。また、丸善ブックスは各誌書評などでは好評を博したものの、版元側の都合もあってなかなか店頭に流れなかった。三井さんは現役時代、出版関係にお勤めだったことから、この本の流れを改善しようと、いろいろ奮闘して下さった。その三井さんから意外なお話を聞いたのは、重版が決まりやっと品が流れ出した頃であった。
実は、私の母に先夫がいましてドイツ人だとは聞いていたのですが、今回思い立って異父姉に聞いてみたら何と「捕虜になって、瀬戸内海の島にいた。名前は確かワルチェルとか聞いた」と言うのです――。三井さんの母ウメさんは長崎の人で、明治の中頃、商人だった「ワルチェル」さんと天津で知り合った。青島で暮らし、二人の間に時子さん、照子さんという女の子2人が生まれたが、やがて日独の戦争になり、妻子は長崎に戻った。「ワルチェル」さんはやがて捕虜となって、収容所から長崎に手紙をくれた。しかし、彼は解放後長崎には戻らず、帰国船に乗ってドイツに帰ってしまったようだ。残されたウメさんは2人の女の子を連れて次の夫に嫁ぎ、その間に三井さんらが生まれたのだ、というのだ。そのウメさんは、昭和12年に亡くなっている。
この話を聞いて私は、似ノ島収容所だろうと見当をつけ、捕虜名簿で「ワルチェル」と読めそうな人間を捜した。捕虜番号4618、ヴィクトール・ヴァルツァーがそれではないか、とお答えしたのだが、照子さんは亡くなっており、時子さんも老衰が著しく、これが正しいかどうか、確かめようもなく終ってしまった。その後、時子さんが亡くなったともうかがった。
今年5月21日、三井さんから久しぶりにお電話をいただいた。「照子の娘が、遺品の整理をしていたら、ワルチェルさんの手紙が出てきたと言うんです。発信人はヴィクトール・ヴァルツァー。前に教えていただいたヴァルツァーが、まさしくワルチェルさんでした!」
美しい書体の英語で書かれた手紙やはがきは、大阪収容所からのものである。大阪の収容所は火事になり、似ノ島に移転するが、この時ウメさんには移転先がわからなくなってしまったのであろう。天津のStrauch&Co.,Ltdからウメさんに宛てて、「ヴァルツァー氏の目下の住所は、似ノ島収容所」と回答を記した手紙もある。彼の勤務先がStrauch&Co.だったのかも知れない。
三井さんは、自分のお身内にこんなことがあるのを知らずに、ただ自分の住む町の歴史として史料展に足を運び、本を買ってくれたという。しかし、その本に感動し、何とか広く品が出回るように躍起になったことと、自分の身内にワルチェルさんがいたことに、何か因縁があるのだろうか、と語っている。昔ならば、「これが、見えない“えにし”というものだ。仏様のお導きだよ。」とでも言ったところであろうか。
照子さんの娘、つまりウメさんにとっては孫に当る篠田和絵さんが、お友だちの石井晴実さんを通じて、この研究誌の“公認私設サイト”とも言うべきホームページ「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」に照会のEメールを出されたところから、解明は一挙に進む。メールの転送を受けた私は、このところ目覚しい研究成果を挙げているザールラント州の研究家ハンス-ヨアヒム・シュミット氏に、調査を依頼してみた(余談だが、歴史家のシュミット氏は、自分が住むために中古住宅を買ってリフォームしたところ、屋根裏からこの家の元の主、アンドレアス・マイレンダーのアルバムが出てきた。そのマイレンダーが習志野収容所の捕虜だった、というところから、今ではすっかり捕虜研究のとりことなっているのだ。)。下手なドイツ語でシュミット氏にEメールを送ったところ、驚いたことに「ヴァルツァーなら、ゲルトルートという孫娘を知っている」との返事が即座に飛び込んできた。但し、「日本に家族を残してきた、などとは聞いていない」とのことだった。
この返事は、心優しい和絵さんを当惑させるに充分だった。ゲルトルートさんは、幸せに暮している。日本に妻子を棄ててきたなどと聞かされては、ショックを受けるに違いない。いかに歴史の調査といっても、他人の幸せを壊すようなことは出来ないはずだ‥。和絵さんは大いに躊躇されたのだが、この点はシュミット氏の方が老練だった。“孫娘”さんは、実はヴァルツァーの姪の娘で、孫代りに可愛がられていた。ドイツに戻ってから1956年に亡くなるまで、ヴァルツァーは独身だった、と調べ上げてくれたのだった。つまり、ヴァルツァーは、日本にいるはずのまだ見ぬ孫の代りに、この姪のゲルトルートさんを可愛がっていたのである。この事実を知って、ゲルトルートさんもまた、感慨無量であるようだ。そして、こう語っている。「日本に親戚がいるなんて、素敵だ」と。
ヴァルツァーがなぜ、長崎に戻らず帰国船に乗ってしまったのかは、残された謎である。第一次大戦後のドイツ社会は、未曾有の大混乱だった。今後のことはひとまずドイツに戻ってから、と思ったのが裏目に出て、今生の別れになってしまったのかも知れない。和絵さんは、いずれドイツを訪れて、ヴァルツァーの墓参りをしたいものだとおっしゃっている。
なお蛇足を書けば、和絵さんは以前、鳴門市ドイツ館をご覧になって、「初めて来たのに懐かしい場所」と感じておられたそうである。三井さんによれば、和絵さんの父君は、プロレタリア作家で鳴門出身の貴司山治氏だとのこと。また、和絵さんの調査を終始手伝われた石井晴実さんは、旧姓坂東で、ご先祖は阿波郡市場町で藍染めに携わっていた方だそうである。
ゲルトルートさんによれば、第二次大戦中ヴァルツァーは彼女の一家と共に、オーストリアのグラーツで暮していたという。敗戦と共にドイツ人は追放され、故郷のラインラントに帰ったのだそうだ。おそらく彼はそこで、似ノ島の戦友らと「捕虜展覧会」をやった、懐かしい広島の物産陳列館のドームの上に、“新型爆弾”が投下され、一瞬で死の町になったというニュースを聞いたであろう。そして、ウメさん一家と過した思い出の町・長崎にも‥。なにげない略歴の中に、彼の涙が潜んでいる。
人一人、人生を生きた痕跡というものは、別に有名人ではなくても、40年や50年で消え失せてしまうものではないのかも知れない。科学は、死んでしまえば無だという。生きている内に好きなようにしなければ、損だ。そんな、一面享楽的、一面虚無的な哲学が、現代は幅を利かせすぎているのではないか。ヴァルツァーの略歴を見ていると、ふとそんな思いがよぎるのである。
『習志野市史』は、ボトルシップ発見よりも前に刊行されたため、「ドイツ捕虜については、もはやよくわからない」と記している。しかし私には、今や天国にいる彼らドイツ兵が、「俺たちがこの町にいたことを、忘れないでくれ!4年半もここにいて、日本の兵隊や村人らとも仲良く暮らしたじゃないか」と言っているような気がするのである。「バンドーの戦友たちには立派な博物館も出来ているが、全国各地でその戦友らが暮らしていたのだ。俺たち一人一人が泣き、笑い、人生のドラマを背負った人間だったんだ!」そんな冥界からの叫びに誘われて、この6年、夢中で捕虜研究を続けてきたのかも知れない。
当時、収容所どうしで戦友の消息を伝えあう郵便物も、盛んに行き交っていた。彼らのひそみに倣って、各地の捕虜研究も、ぜひ連携を取り合って行きたいものだと思っている。似ノ島や青野ヶ原、名古屋、そして初期の収容所があった町でも、研究が進むことを期待したい。インターネットという“新兵器”を使って、国境を越えたネットワークを組めば、忘却の淵に消えようとしていた「ワルチェルさん」を記録に留めることすら出来たのである。
最後は何やら霊媒じみた話になってしまったが、夏向きの怪談噺としてご覧いただけたなら幸いである。
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