(毎日新聞の記事より)
習志野原の開拓の歴史伝える「7坪の家」 最後の1棟の家族の思い
かつて習志野原といわれた千葉県船橋、習志野、八千代市にまたがる一帯には、戦後にこの地を開拓した人たちが住んだ「7坪の家」と呼ばれる建物が点在していた。多くが取り壊され、現在は最後とみられる1棟が残るが、老朽化で早ければ年内に解体される見通しになっている。終戦間もない時代、小さな家で懸命に生きた一家の思いとは――。
「冬にはすきま風が入ってきて、寒かったね」。今年7月、船橋市の住宅地の一角にある古びた木造平屋の建物を見ながら、所有者の高橋みちさん(91)と長女の和子さん(69)=いずれも同市=はここで暮らした日々の思い出をしみじみと語った。黒ずんだ板張りの壁が、時間の流れを感じさせた。
習志野原では明治初期に旧日本陸軍の演習場が開設された。深刻な食糧難に陥った戦後、1000万平方メートルを超える広大なこの土地で、復員軍人や海外からの引き揚げ者らによる農地開拓が始まった。
みちさんの夫熙(ひろし)さん=2022年6月に96歳で他界=もその一人だった。
(飯山満通信:公民館地域講座の記述)
(南習志野原開拓史)
https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0008/0002/p022513_d/fil/2-004.pdf
開拓者の住宅は二 回に別けて計画されました。
第一次は、昭和21年 3月末までに10坪の住宅が 100棟 、第一地区より第五地区にそれぞれ20棟づつ建てられました。
家屋の基礎は、今震災に見られる仮設住宅のように、丸太を打ち込み、水平を見て土台が敷かれ家が建てられました。外装は松板の横張利で、屋根は板張りの上にルーフイング張りで、内装は壁でなくベニヤ張りで天丼板はなく、梁や屋根板が見え、座敷は畳は入らず、 また窓や玄関格子にはガ ラスが無く、襖戸はベニヤ張りでした。
第二次は 7坪の開拓者住宅で、 250棟が契約されたが、インフレによって再三の契約変更があり、完成は二十二年末になりました。 その間に農地開発営団、全国農業会などの主催による懸賞家屋 27棟が、第一地区に建てられました。
屋根はトントン葺きで内装では壁がなく、各自で壁を塗り着けました。 もちろん畳はありません。
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