日本の歴史上「大晦日が消えた年」
(おたくま経済新聞の記事より抜粋)
日本の歴史上「大晦日が消えた年」 明治の改暦にともなうドタバタ | おたくま経済新聞
暮れも押し詰まった大晦日。お正月の準備が終わらず、もう少し時間が欲しいという方もいらっしゃるかもしれません。大晦日は毎年やってくるはずですが...
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大晦日は毎年やってくるはずですが、日本の歴史上「大晦日が消えた年」があります。それは今から150年ほど前の明治5年(1872年)。従来の太陰暦から太陽暦へと改暦する際、明治5年12月3日が「明治6年1月1日」になったのです。
なぜ改暦する必要があったのか
日本では旧来、中国などと同じく太陰暦を採用していました。この暦法は、月の満ち欠けを中心にしながら、太陽の動きを考慮し、必要に応じて2、3年ごとに「うるう月」を挟んでズレを修正するものです。
江戸時代までは鎖国の関係もあり、特に問題は生じなかったのですが、明治維新による開国で状況が一変します。欧米諸国は太陰暦ではなく、太陽暦(グレゴリオ暦)を使用しているため、双方に「日付のズレ」が発生してしまったのです。
この問題に対し、明治政府太政官の塚本明毅は明治5年11月、太陽暦の採用を進言します。その進言によれば、当時使われていた太陰暦(天保暦)から太陽暦に改暦する理由は次のようなものでした。
・現在の暦(天保暦)では太陽の動きに合わせるため2、3年ごとにうるう月を挿入し、月の日数が不定になっているのは様々な事業を行うのに極めて不便である
・太陽暦は太陽の動きを基準にして月を立てているため大きな誤差が出にくく、4年に1度うるう日をおけば、7000年ごとに1日程度の誤差しか発生しない(実際には3200年に1日のところ誤解していた模様)
・明治維新以降、各国(欧米諸国を指す)との交際において、先方は太陽暦を使用しているので、我が国だけ太陰暦を用いているのは不便である
■ 急な布告による混乱
意思決定から実現まで、急転直下で決まった太陽暦への改暦。これにより、一般市民だけでなく、政府内でも様々な混乱が引き起こされました。
・カレンダーが間に合わない!
これまで、一般社会での「年度」にあたる金穀出納取扱は、10月から始まり翌年9月までを1年としていました。それにともない、いわゆるカレンダー(暦)もそれに合わせて発行されていたのですが、改暦が布告されたのは発行後の11月で、修正が間に合いません。
・ようやく改暦……ところが問題発生
12月2日には通常大晦日に行われる大祓の儀式が執り行われ、そして迎えた明治6年1月1日(明治5年12月3日)、皇居にて改暦式が行われました。宮中三殿にて改暦を報告し、その後改暦の詔書を大臣へと下賜して、太陰暦から太陽暦へと暦が変わったのです。
ところが、改暦後もドタバタは続きました。太陽暦(グレゴリオ暦)をよく理解しないまま改暦したため、実際のグレゴリオ暦との誤差が発生していたのです。それは「100で割り切れるが400では割り切れない年はうるう年ではない」という例外を考慮していなかったこと。
明治政府は誤差を修正するため、実際にうるう年にならない西暦1900(明治33)年を目前にした明治31年5月10日、改めて誤差を修正する勅令第90号「閏年ニ関スル件」を出して、混乱をギリギリで回避しました。これが1年遅れていたら、また改暦時と同じような混乱が国内で発生していたかもしれません。
この「うるう年の例外」、西暦2000年が100と400両方で割り切れるため、うるう年の例外が適用されず、通常のうるう年になったのは記憶に新しいところです。400年に1度の出来事ですが、逆に400年で3度ある「うるう年にならない」方が、いつもと違って珍しく感じてしまいますね。
それでは皆さん、良いお年をお迎えください。
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