住みたい習志野

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女性経営者2連発。読者から紹介いただいた記事です

2024-02-20 09:04:59 | ジェンダー

読者から紹介いただいた記事です。

(読売新聞の記事より)

創業者の夫が急逝、継いだのは3人子育て中の専業主婦…「世界の山ちゃん」店舗作りのヒントは小学校のバスケチーム

創業者の夫が急逝、継いだのは3人子育て中の専業主婦…「世界の山ちゃん」店舗作りのヒントは小学校のバスケチーム

創業者の夫が急逝、継いだのは3人子育て中の専業主婦…「世界の山ちゃん」店舗作りのヒントは小学校のバスケチーム

【読売新聞】エスワイフード代表取締役 山本久美氏 56  エスワイフードは、手羽先が名物の居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」を運営する。創業者で会長を務めていた夫の...

読売新聞オンライン

 

 エスワイフードは、手羽先が名物の居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」を運営する。創業者で会長を務めていた夫の急逝を受けてトップを継いだ山本久美代表取締役に「素人」経営者の挑戦を聞いた。

<業界ではカリスマ経営者として知られた夫の重雄氏が2016年8月21日、解離性大動脈瘤で亡くなった>

 本当に突然でした。いつもと同じように仕事をして、機嫌良く自宅に帰ってきた日の翌朝、リビングに倒れていたのです。

 主人は59歳とまだ若く、誰に次を任せるか決めていませんでした。亡くなった日、主人が横たわっている枕元で、取引先から「後任をやれるのはあなたしかいない」と言葉をかけられました。

 当時の私は、中学3年、中学1年、小学2年の3人の子どもを育てる専業主婦でした。それまで経営に関わったこともありません。会社も大事だが、家庭の方が大事だからできないと、泣きながらその場で断りました。

 <トップ就任後、ボトムアップ型の組織に構造改革を行った>

 それまでは会長が全ての指示、命令を出し、問題が起きれば尻ぬぐいもしてきました。カリスマによるトップダウンの経営です。

 素人の私にそれはできません。社員それぞれがスペシャリストになって、底上げをしてほしいと呼びかけました。

 <小学校のバスケットボールチームでの監督経験が経営にいきている>

 団体スポーツと飲食業はすごく似ています。バスケチームも店舗も作り方は一緒だと感じています。

 ミニバスケの小学校男子クラブチームの監督を務めていた時、新たに入ってきた4年生には基本を教えながら、絶対に怒らず、めちゃくちゃかわいがりました。5年生以降は少しずつ怒るんですが、気持ちをつかんでやる気にさせていれば絶対に離れないんです。6年生になると、怒らなくてもやるし、自分たちで(試合を)組み立てられるようになりました。

 店舗作りも同じ感覚なんです。店長には「人を思って、寄り添う。愛情をまず先にかけなさい」と伝えています。スタッフの気持ちをつかんで動いてくれるようになっていれば、時に厳しくしても絶対に離れていかないと思います。

トンネル列車火災で生き残った使命感…「あずきバー」の井村屋会長、たどり着いた先は「全社員の活躍と幸せ重視」

トンネル列車火災で生き残った使命感…「あずきバー」の井村屋会長、たどり着いた先は「全社員の活躍と幸せ重視」(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

 アイスや肉まん・あんまんで知られる井村屋グループの中島伸子会長CEO(最高経営責任者)は、列車事故に遭い、九死に一生を得た経験を持つ。

<1972年、死者30人を出した北陸トンネル列車火災事故に遭った。その後遺症で教師になる夢を諦めた>

 昨秋発売した微細氷入りのアイス「SHALILI(シャリリ)」は20歳代の女性社員のアイデアから生まれました。

 経営者は社員の人生に関わっています。本当に責任が重い。一緒に働く社員を大事にしなきゃいけない気持ちは強いし、幸せになってほしい。

 あの鉄道事故から生き残った者として、それが社会への貢献だと思っています。

 

 

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Narashino gender 41 日本女性史koki版㉝ 近世XⅢ 天下泰平、外見の平和

2024-02-15 11:21:34 | ジェンダー

天下泰平、外見の平和

ルイ・家康・フミオ

江戸時代は、徳川家康がつくった時代体制が260年も長くのっぺりと続いたわけではない。

ふつう江戸時代は前期(成立期)、中期(安定期)、後期(解体期)という3つの時期に区分される。将軍でいえば、家康~家光、家綱~吉宗、家重~慶喜。 西暦では17世紀、18世紀、19世紀。

江戸時代のイメージといえば18世紀で、元禄文化、浮世絵、歌舞伎、落語、すし…。長屋、遊郭、大奥。庶民はたくましく、感情豊か。陽気で毎日楽しそう…。区分でいえば江戸中期の繁栄時代。場所は江戸などの都市。とくに、江戸に一極集中。時代劇の舞台だね。しかし、あまり身分で苦労してることもなさそうで、現代劇みたいな人間模様。

江戸で女性はどう生きたのだろう? 

同時代のヨーロッパは、戦争と平和の繰り返し、新旧キリスト教の宗教戦争、三十年戦争、ワンマンのルイ14世の周辺国侵略戦争、オランダ・イギリス戦争、スペイン継承戦争、アメリカ独立戦争、ナポレオン…。戦争はよくないが、戦争が終わると社会システムがごろっと変わり、これまでの可視化されなかった矛盾が誰の目にも明らかになる。そして、人々は自らの手で時代を乗り越える。

江戸時代は外見的には平和だったかもしれないが、一方的な身分制の支配関係が固定化し、グズグズと腐っていても、外見はなんとか維持していて、その緩み切った体制はもう元には戻らない。ルイ14世は在位72年(自民党はもっと長い?)、末期は財政難で衰退、最後は大食いが原因で歯が全部抜け落ち、壊疽(えそ)で歩けず、太陽王の生涯を閉じる。

江戸幕府は、人々との間に憲法があったわけではない。議会制民主主義でもない。封建幕府は「公儀」というわけのわからないもので、支配していた。女性の頭の上には「公儀」という鬱陶しい幕が被い、その下は「女大学」で行動抑圧と思想統制、「家」という罰が待ち構えている。

そんなので、女性は「平和」か? 幕府や大名の女も、武家の女も、農家の女も、町民の女も、遊郭の女も、非民や路端の女も、身分の区別なく「女」だから江戸時代も引きつづき、みじめにされた。

ルイ14世の胃は、過食で通常の2倍の大きさだったそうだ。最近、ルイ14世と江戸幕府と自民党が重なって見える。「朕は国家なり」、病気だね。

封建制度とはなにか? 日本・中国・西欧

だから、町人のジェンダーに入る前に、まずキホンのキ。封建時代とは何か? 江戸幕府と日本政府はちがうよ。現在の日本は封建主義じゃなくて民主主義だから、主権者は首相じゃなくて、あなたです。あなたが選挙で選ぶ。間接民主主義で議員しか選べないけどね。国民の代表である議員が集まった国会で法律(ルール)を決める。首相が決めて命令をだして絶対服従ではない。

江戸幕府、三代家光で幕府機構は確立した。

江戸幕府の職制です。これが「ご公儀」の正体か?

江戸幕府の職制

国があれば人間が人間を統治するしくみが必ずある。江戸時代の封建制度は幕藩体制。日本の封建時代をふりかえってみよう。またまた、寄り道。

天皇が支配していた中央集権国家は飛び越えて、鎌倉時代から

日本は平安時代末期から武士が誕生し、鎌倉幕府が将軍と御家人(家来)のあいだに、「御恩と奉公」という関係を結んだ。将軍は領土を支配する。御家人に土地を分け与えて所有を認める。その代わりに御家人は内政や戦で将軍の助けをするお約束の関係。元寇で、このお約束は破綻します。手柄を立てた家来に将軍が十分な領地を与えられなかったからです。それがきっかけで、鎌倉幕府滅亡。

つぎに政権を掌握したのが室町幕府。将軍と御家人の関係は将軍と守護大名の関係になり、将軍の跡継ぎ問題で「応仁の乱」がおきて、守護大名が二手に分かれて戦い、幕府が弱体化し、争いは全国の守護大名や豪族に広がって戦国時代に。

そして、江戸時代。各地の「藩」を治める大名を江戸幕府(徳川家の世襲制)が管理する「幕藩体制」。「武家諸法度」という決まりがあるけど、中央集権国家ではない。藩の統治権はほぼ大名がにぎっている。

郡県制と封建制

中国と西欧の封建制

周の封建制

日本の封建制度は、中国の封建制度(紀元前1000年頃の周が起源)を真似したものだから、これも超簡単に。

周は異民族の侵入を防げず都から逃げ出したので、諸侯(王朝の家来)が離反して次々と独立し、戦国時代。それを統一したのが秦の始皇帝。封建制度を踏襲せず、全国を郡や県に分割して、役人を配置する「郡県制」をとった。家康はここらあたりをパクったんだね。

封建社会の衰退と中央集権国家の成立

ヨーロッパ(西欧)の封建制度(feudalism)は、中国や日本と違う。「主従契約をもとにした封建制度」。4世紀末にローマ帝国が崩壊し、王侯貴族は自分たちを守ってくれる力ある者に土地を譲り、その者は借り受ける形で契約し、土地を守ってもらう個人契約を交わした。

この契約は、「主君が約束を守らない場合は、家臣は主君を護るなどの義務を果たす必要がないし、複数の主君と契約をむすんでもかまわない」という双方向のもの。仕える相手を選べず、一人の将軍に忠誠を誓わなければならない日本の封建制度と比べると理にかなっていてドライ。これと比較すると、日本の封建制度は奴隷制度に近い。

ヨーロッパはそれでも、17世紀には封建制度は崩壊するのだが、2つの大きな要因がある。まず12世紀に貨幣経済が発達し、農民がお金を貯めて、領主と取引し、農奴が自由を手に入れたこと。2つ目はペスト。ペストの蔓延で人口が減ったため農民の奪い合いがおこり、力をつけた農民、庶民は市民革命を起こす。

封建制度はどこの国でも崩壊した。人間は神が創ったものかどうかはわからないが、国も封建制度も支配する者が決めたもの。支配を継続するために、支配する者は自分の身分を最高とし、他の身分は固定化する。下の身分の者の意見を聞いたり、要求を受ける必要はない。

現在ニッポンの封建制度

新・日本の階級社会 

●新・日本の階級社会の詳細データ

日本の封建制度は明治維新で消滅した。しかし、徳川支配がなくなっただけで、現在でも封建支配みたいな階級や格差の固定化や、上下関係、男尊女卑。それに国民の意志を無視して、政治が強い権力を押し付けて搾取するのは、封建支配そっくり。どこまで従わせるの? どこまでがまんするの?と思っていたら、封建元祖の江戸時代を知ろう。

江戸幕府は、キリシタンの脅威から、宗門改(しゅうもんあらため)という戸籍制度をつくった。日本中のすべての人間を赤ん坊から墓場まで登録する。キリスト教信仰を封じるために個人の思想を統制し、すべて仏教徒として寺と結びつける(檀那寺制度)。

夫と妻の宗旨が違う場合(半檀家)も、宗門改は世帯単位なので、妻が夫の宗旨に包摂された。戸籍と宗教、こんな完璧な国民掌握の制度をもった国は古今東西、江戸時代しかないのでは?

戸籍制度を廃止した韓国では…

対比するために、戸籍制度を廃止した韓国を追ってみたい。

2003韓国KBSテレビドラマ「黄色いハンカチ」 戸籍制度をターゲットにし、最高視聴率36.9%。ドラマを通じて戸籍制度が時代遅れで不都合なものと人々に理解され、政府は2005年に戸籍制度廃止を国会で決議する。

韓国は中国伝来の個人単位の戸籍制度があったが、日本が植民地にしたときに、住民を「家」単位の戸籍制度として導入した。家単位の戸籍制度は、日本と植民地時代の韓国だけ。

韓国は2007年に日本型の戸籍制度は廃止し、2008年から、戸籍制度に代わり「家族関係登録」が始まった。家族関係証明書は「家」単位でなく、一人ずつに、五つの証明書がある(用途に応じて使い分ける)。

①基本事項(生年月日、死亡、改名、国籍喪失など)
②家族関係(両親、配偶者、子の名前・生年月日など)
③婚姻関係(配偶者、婚姻、離婚、など。未婚の人はない)
④養子関係(養父母・養子の名前、養子縁組日など)
⑤親養子関係証明書(日本の特別養子に相当。実親との親子関係を断ち、育ての親と新しい親子関係になる)。すべてハングルで記載されている。

創氏改名

韓国は、もともと儒教の教えが強い。血のつながりを重んじるので、結婚して相手の姓を名乗るなんて自分の先祖に失礼だから絶対性夫婦別姓。

日本は別姓が家単位の戸籍に並んでいるなんてありえないと考えたのか? 日本は植民地時代に朝鮮人に対し、新たに夫婦・家族で同じ日本風の氏をつくり、名前も日本風に改名させた(創氏改名)。

戦後50年も経って、日本が創氏改名を強制したかどうかの論争がおきた。自民党国会議員も意見が分かれ、麻生太郎政調会長(2003年当時)は「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言、野中広務衆院議員は麻生を批判する。盧武鉉(ノムヒョン)大統領来日寸前だったため、麻生が発言を謝罪したという経緯がある。

野中広務(1925―2018) 剛腕だが、弱者に対するまなざしを大切にする政治家として知られた

日本から独立した韓国では、1946年に朝鮮姓名復旧令で朝鮮名を名乗るようになった。韓国は父系血統としての族譜(チョッポ)では、女性は戸籍に名前の登録はなく、民籍法ができて、名前が登録されるようになり、日本の創氏改名で、姓も名も変えられて、戦後はまた朝鮮名に逆戻り。

過去、植民地政策をやった国は多いが、「天皇の軍隊に朝鮮名が混じるのは許しがたい」で日本人風の名前に変えるということを強制した国は例をみない。強制的に戦争動員するから朝鮮人が軍隊にいるのだ。名前を変えても朝鮮人は朝鮮人だ。民族のルーツを抹殺するなんてなんと傲慢な。

「朝鮮人が望んだ」なんて嘘っぱち。当時の朝鮮の人々は強い抵抗をした。姓を「犬糞食衛(いぬくそくらえ)、「田(→天)農丙下(でんのうへいか)」と届けたという伝聞もある。パンクだねぇ。今日でも、在日朝鮮人が日本名を名乗るのは、日本に徴兵や強制労働目的で強制連行された時代の「創氏改名」が原因である。私はこれまで、日本人だと思っていた人が「朝鮮人だから朝鮮の名前にしたよ」ということが何回もあった。申し訳ない気持ちになって思わず、「ごめんね」と言ってしまった。

アソー!ごめんねといって謝れよ!じゃなきゃ、「麻生罪悪タロー」と改名させちゃうぞ

麻生系の炭鉱には、朝鮮から拉致し密航させた朝鮮人労働者が多かった

日本の戸籍管理

日本の戸籍のひな型

日本は戸籍は「家」単位。姓は全員、世帯主と同じ。日本ではなんでもかんでも戸籍に記載されている。個人単位でないので知る必要のない家族や兄弟の情報まで判ることになるし、前戸籍まで記載されてるし、住民票と連動して現住所を知ることができる。非配偶者の人工授精(AID)で生まれた子どもでも摘出子と記載され、ほんとうの親を知ることができないなど、問題は多い。

江戸の宗門改の世帯単位が、封建支配が終わり、戦後の個人主義の民主化の時代になっても現在まで延々と続いているのは、制度だけじゃなく、日本人の思想主体としての個人を軽んじる風潮とか、「家」に対する自立の弱さ、なによりも男女差別につながっていると思う。

檀家制度については、宗教の自由を認めない制度だが、加えて、キリシタンの信仰を持っていた者や牢に入れられた者までが一般市民を偽装して檀家に登録するのを防ぐため、さらに町村単位で全員に「南蛮起請(なんばんきしょう)」を書かせた。南蛮起請はキリシタンからの改宗を宣言し、「キリシタンに立ち返えれば、キリシタンの神の罰を受けてライ病患者になる」という陳奇な誓約書みたいな文章で、細川ガラシャの子どもの細川忠利が老中に提言し実現した。宣教師に「うわべだけでも転べ」と奉行が遣いをだしたり、江戸初期には試行錯誤していたが、毎年宗門改でチェックを行うことで落ち着いた。

バチカン図書館「南蛮誓詞」一人一人の名前が書いてあり血判が押してある。

日本の特殊な戸籍による管理、統制は今年まで360年続いている。外国では個人単位で出生や婚姻、死亡などをそれが発生した地で登録するだけ。日本人はこんな人民把握の制度に唯々諾々としたがっていいのか?みなさんひとりひとりが「考える葦」なんだよ。しっかりして。

慶安の御触書にみる幕府の理想

早稲田大学図書館 安の触書

1649年に江戸幕府が発布したとされる「慶安の御触書」という法令がある。幕府正史である「徳川実紀」に三代家光の事績とされているが、これは慶安以後、寛文(1661年~)の始めに成立した甲府徳川領の「百姓身持之事」という法令が文政期(1818~)に編集され、天保期(1861~)に昌平坂学問所を整備した林述斎が出身である美濃国岩村藩に木版印刷をして流布した。これが関東領主を経て、全国に幕府発行を偽装して「慶安の御触書」として流布したものではないかと言われている。

幕府法でないというので、近年の教科書には採用されなくなったが、内容はフィクションではない。農民に農業技術・経営、日常生活の心得を教諭した32箇条にわたるもので、しつこいぐらいに詳しく書かれて農民を縛っていたのは事実だ。幕府法でなくとも、江戸幕府の農民支配として今の子どもたちに知ってもらいたい。(武士というのは平和ですることがなく、事務仕事で勤務時間稼ぎしてたから、記述が微細で的外れ)

天保飢饉によって混乱した人心掌握が目的で、勤勉、質素倹約、社会秩序が説かれているが、飢饉でひどい目にあってるのに、上から勤勉、質素倹約を説かれてもモチベーションが高まるものではないよね。

江戸幕府は、農民が困難な状況になると、衣食住の細かなことまで触書を出す。 一種のショックドクトリン。「将軍や大名のおかげで生きている」ことを知らしめるために、「迷信の中から、己のための権威をつくりあげ、多神の崇拝や偶像礼拝の習慣を、たくみに主権者に対する畏敬と混ぜ合わせ」、「効き目の良い人民支配のやりかたとして、民衆を迷信からさめないようにし、さらにいっそうそれを養う」と、1863年イギリス駐日大使オールコックが批判している。するどいね。

「慶安の御触書」は、さんざん細かく勤勉を指図した挙句、自己陶酔したような、まるで、岸田首相並みの「ふざけるな」レベルで、条文を終えている。

「右之如クニ物毎(事)入念、身持をかせき申へく候、身持好成(よくなり)、米金雑穀をもハゝ、家よく作り、衣服食物以下ニ付、心之儘なるへし、米金雑穀を沢山に持候とて、無理ニ地頭代官よりも取事なく、天下泰平之御代なれば、脇よりおさへとる者も無之、然ハ子孫迄うとく(有徳=裕福)に暮し、無間きゝん(飢饉)之時も妻子下人等をも心安くはこくみ(育み)候、年貢さへすまし候得ハ、百姓程心易きものハ無之、よくよく此趣を心かけ、子々孫々迄申伝へ、能々(よくよく)身持をかせき可申もの也」。

(右のように物事に念を入れ、暮らし向きが良くなるように稼ぐようにせよ。身代も良くなり、米・金・雜穀をも持てれば、家をも立派に作り、衣類・食物などについても心のままになるであろう。米・金・雜穀をたくさんに持っていても、無理に領主の旗本や天領の代官に取られることもなく、天下泰平の世の中であるので、他から強奪する者も無い、そうすれば子孫まで裕福に暮し、無間地獄のような飢饉の時も、妻子や下人等をも安心して養い育てることができる。年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはない。よくよくこの趣旨を心がけ、子孫代々までにも語り継ぎ、よくよく暮らし向きを考えて稼ぐべきものである。)

農政家による農民の実態

田中丘隅(きゅうぐう)(1662~1730)の「民間省要」

幕府の理想だけでなく、江戸時代の中期までの農家の女性の実態を子どもたちに知ってもらいたい。当時書かれた書物によって知ることができる。

川崎宿の名主を務めた農政家の田中丘隅は、警告書として「民間省要(みんかんせいよう)」(1721)を著した。この本を読んだ南町奉行の大岡忠相から将軍吉宗にわたり、丘隅は代官職に抜擢され、荒川、玉川の治水に貢献する。

農家の女性に関する記述の一部。「女の朝星夜に起きて、野ばたで水を汲む」「露などあるうちに草を刈る」「朝の膳に坐ることなく」「田に入りては男女水の中なれば腰かけるべくなく、終日立ち暮らし、起きつ伏しつ、ヒルに食われ、血にそみて、宿所にかえるといえども、湯など使うことはまれなり。多くは水にて手足を洗い、淡きものうち食らい、終日打ちおき、こきおくところの麦を打って粒となし、翌日に乾してしまい、だんだんあとのつかえぬよう、女はまた歌うたいて麦をつき、明日の食をはかる。毎夜九つ(12時)すぎまでかかり、それより少しまどろむと思えば、短夜ほどなくあけて、起きんことを思う。このせつの寝起き、骨、すじともに痛み、総身こわばりて天井板のごとし」。女性はこういう労働が七月子腹(妊娠中)でも強要される。

幕府の町触は、そのような農民に対し、「家は掘立にすべき」「着物は麻か木綿。赤や紫色は禁止」「髪を束ねるのは藁」「米みだりに食うべからず。常に雑穀を用いるべし。上置食(ごはんを少し茶碗にいれてその上に雑穀米を乗せてたべる。)「百姓はくず米(割れた米)を食べよ。くず米は団子にもなる」「年貢米はすべて上等米。道具などを購入するときは普通米」・「雑炊は男1人あたり米1合に水1升」「夜なべに夜食いらず」。食事の時間や回数、量や内容も月ごとに決められる。このやりすぎはあんまりだ。

だから、過重労働、栄養失調、掘建式の茅葺住宅の不衛生さなどが原因して、20代の女性が出産で命を落とすのだ。

江戸時代の出産力の低下は、堕胎、間引き、子返し(嬰児殺し)の常態化も考えられる。幕府や藩は「間引禁止令」や「捨子禁令」を出したり、生まれた子どもには、米や貨幣で育児手当(赤子養育制度)を支給したりするが、そんなもので子どもの数は増えない。

当時、日本は(間引きから生き残った)子どもの男女バランスは男子のほうが異常に多い。間引きや子返しは女子だけをねらった。同時期、日本の家制度と似た男子優遇の家制度をもつ中国や朝鮮での男女バランスが1対1であるのは、兄弟の男女バランスを取ることを重視したからだと言われている。育てられぬ場合は、出産の間隔をあけたという。それはなぜか?

食えない人に男女のバランスや人口動態などは考えられないだろうが、女子でも労働力になるし、売り飛ばすこともできる。農村の、男性が女性を同じ労働者とみるヨコの関係は、武家支配のもとで、タテの関係に変化し、女は価値がないという男尊女卑のまなざしは生まれたばかりの赤ん坊にも向けられ、産婆は産まれるとまず、股間を確かめて、女子だと産湯も使わず、口をふさいだという。

⚫️子孫繁昌手引草 子返しの絵図

間引きについては、幕末期に上総の国で間引きから赤子を救い、孤児養護の先駆者と言われた「子育て善兵衛」の貴重な史料を入手した。成東で現地調査して、機会をつくり紹介したいと思っている。

江戸時代は子だくさん? 

江戸時代の出生率は宗門改帳などにより推測される。地方により格差が大きい(東北地方が低く、中部以西が高い)し、農村でも大規模農家のほうが小作農より子どもの数が多いから、出生率は地方によりまちまちだが、ざっと、50歳まで婚姻状態の女性が生んだ子どもの数は、16世紀で8人、17世紀は7人、18世紀前半で6人、18世紀後半で5人で、「子ども五人」は、明治になっても維持されていたが、それが減り始めるのは昭和初期。今ではご存じ、人口維持の2人を大きく割り込む1.26人。

子どもを社会全体で大事に育てるというマインドがなければ、いくら「産めよ殖やせよ」と言ったって子どもは増えない。政府が子ども3人扶養で大学受験無償化という落とし穴いっぱいの不公平な制度を打ち出しているが、それくらいでは、子どもは増えないよ。(koki) 

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「ルッキズム大国」日本の恥ずかし過ぎる麻生発言

2024-02-09 13:57:03 | ジェンダー

(FNNニュースより)

麻生氏が上川外相を「おばさん」「美しい方とは言わん」で批判…「ルッキズムそのもの」 本人「何を企んで私の名前を」

裏金事件で揺れる自民党。

今度は、麻生太郎副総裁の発言が物議を醸している。

麻生氏が28日、地元の福岡・芦屋町で行った講演。 “おばさん”と呼んだのは、岸田政権の上川陽子外相。

自民党・麻生太郎副総裁「今の外務大臣はカミムラ陽子、女性ですよ。このカミムラ陽子は大したもんだぜ、これは」 上川外相を2回にわたり「カミムラ」と呼び間違えた麻生氏は、続けて上川外相の外交手腕を評価した。

自民党・麻生太郎副総裁「俺たちから見ても『ほ~、このおばさんやるね』と思いながら、この間ニューヨークで会ったけど、少なくともそんなに美しい方とは言わんけれども。外交官の手を借りなくて『わたしがやるからいい』って、自分でどんどん会うべき人たちは、自分で予約を取っちゃう。あんなことできた外務大臣は今までいません。新しいスター、新しい人がそこそこ育ちつつあるんだと思いますね」

最後は、上川外相を「新しいスター」と持ち上げた麻生氏。

しかし、“麻生節”ともいわれる表現で容姿に触れたことに、ネット上では
「普通にセクハラでは?」、
「早く引退しろ」などと批判の声が殺到した。

野党からも...。

立憲民主党・塩村文夏参院議員
「今の令和の時代の永田町でふさわしくないと明らかに思います。派閥のトップとしては、わたしは問題があるんじゃないかなと」

上川外相は29日午後3時半過ぎ、外務省で、安全保障の分野に女性の意見を取り入れるため、新しい作業部会を立ち上げた。

麻生氏の発言については、上川外相は周辺に「昔はもっとひどいこと言われたもの。麻生先生は何をたくらんで、わたしの名前なんて挙げたのかしら?」と話し、笑っていたという。

しかし、身内となる自民党の女性議員からは、「国民が抱く自民党のイメージそのものです」、「ルッキズム(外見重視)そのものだよね」など厳しい声も上がっている。

ルッキズム大国の日本は生きにくい?外見へのコメントが絶対NGなスウェーデンの事情

容姿に「自信がない」と答えた10代女性の割合、世界平均は54%だが「ルッキズム(外見至上主義)大国」日本は93%

世界一クソな日本の風潮。女性が「自分の見た目」を嫌う理由【ルッキズム】

 

 

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Narashino gender 40 日本女性史koki版㉜ 近世Ⅻ 縁切寺というアジール

2024-02-08 15:14:54 | ジェンダー

縁切寺というアジール

  • 夫から逃れて満徳寺に駆け込む女 夫に掴まりそうになったとき、雪駄を門内に投げ込めば、駆け込んだとみなされて、寺男に保護されて、夫はどうすることもできなかった。

認められた妻からの離婚理由

江戸時代は、妻から離婚請求しても、夫の縁切状が必要だった。しかし、幕府法では、5つの場合に限り、奉行所に訴えれば、離婚は認められた。

①夫が妻の同意を得ないで、妻の持参財産(衣類など)を質入れしたとき。妻の父からの離婚請求が認められた。

②妻と別居もしくは音信不通が3,4年続いたとき。夫は妻を呼び戻して離縁状をわたすべきとしている。

③妻が髪を切ってでも離婚を願うとき。妻が夫を誣告(ぶこく・ウソの申し立て)したとき。

④夫が家出して1年が過ぎたとき。公権力で離婚が成立し、妻は再婚できた。⑤⑤比丘尼寺(びくにでら)へ駈け込んで3か年が経過したとき。

⑤の比丘尼(尼)寺というのは「縁切寺」のことで、江戸時代は、鎌倉の東慶寺と上野国(群馬県)の徳徳寺の2か所。たったこれだけ?

  • 東慶寺 鎌倉市にある臨済宗の寺。本山をもたない独立した尼寺で、現在は男僧の寺で縁切り機能はなく、「花の寺」として有名で、拝観できる。

  • 満徳寺 群馬県太田市にあり、明治に廃寺となったが、現在は「縁切寺満徳寺遺跡公園」として、本堂・門・庭園を復元し、資料館で縁切寺について学べる。

縁切寺のミニ前史

縁切寺の原初は、世界中にある。世俗の権力の及ばないところを「アジール」(避難所:ドイツ語でAsyl)といい、犯罪人や奴隷が逃げ込むと追及できなくなるという制度が近代まであった。中世のキリスト教会はアジールの役割もあった。「レ・ミゼラブル」でもジャン・ヴァルジャンが逃げ込んだのは教会だった。日本の寺院も、仏の教えに従い慈悲を施すところで、踏み入って殺生できない浄界であると考えられた。承久の乱のとき、敵から逃れた兵士が自分の寺に押し寄せたことを知った明恵上人は、「自分の袖の中、袈裟の下に隠しても助ける」と北条泰時に言ったと伝えられる。(「明恵上人伝記」)

  • 高山寺蔵 明恵上人像

中世においては、落武者や逃亡人などが、保護を求めて寺院などに駆け込むことを「山林に走りいる」、「山林する」といい、「山林!」と叫んで駈け込んでいた。山林に囲まれた寺は仏教的に出家遁世する場所ということを表わしている。そこでは世俗の政治権力や権利や義務を遮断するという「無縁の原理」(網野善彦)があり、追及を阻止することができた。寺院アジールの存在は深く庶民の間にも知れ渡っていた。中世の人々は、権力や武力とは異質(無縁)な自由と平和を求めていたんだね。網野の「無縁・公界・楽」(1978)は、大きなブームになり、今でも書店に並んでいる。

  • 網野善彦「無縁・公界・楽」

縁切り寺とガザ。アジールがなくなっていく世界

縁切寺、中世にはあちこち存在したが、江戸時代には禁止されて、全国で縁切寺は徳川と関係のある2寺だけ。女性の救済にはほとんど役に立っていない、ただの言いわけみたいな存在。kokiはこのブログで、三くだり半とセットで一回で簡単に済ませようとおもったのだけど、どういうわけだか、縁切寺の尻尾の先にガザがつながっている。

こういうのをなんていうのだろう。思索の先に引っかかっている尻尾。チョンと切ってしまえばいいのだけど、糸だと思っていたのが針金みたいに硬くてお気に入りのハサミが欠けてしまうかもしれないし、不要と思えても存外、尻尾は移動のバランスになり、アイデアが生まれるかもしれない。

縁切寺の尻尾はガザだ。パレスチナ自治区そのものが、複雑な政治折衝の鬼っ子だったとしても、国際的に認められた避難所(アジール)だ。

  • 壁の向こうのガザ(侵略前)

避難民が無差別攻撃で殺される筋合いはない。もう、この世界は、アジールがフェイドアウトしつつあるのか…。

  • 破壊されたパレスチナ自治区ガザ地区

人間社会はかならずしも支配と被支配に分かれていない。どんな時代のどんな権力もその統制は隅々まで行き渡っているように思えて、現場では力関係が逆転していたり、公然とした抜け道で無力化されていたり、力関係から下りる自由があって、庶民たち、とくに女たちはそれで生き延びてきた。

歴史家の網野善彦は日本の中世を対象にアジールを論じ、たとえば桑名では朝廷に牡蠣(かき)を献上していることを理由に領主支配からの拒否が認められていたことを例にあげて、「世俗的な社会権力とは無縁になりうる方法があった」。その「無縁」によって形成された社会を「公界・くがい」と呼んだ。現在、世界が追いつめられて、ガザさえも存在できないというなら、アジールはどこで存在できるのか? 病院や難民キャンプや国連支援機関までも攻撃する。子どもの手足を切断するディストピア…。

今の日本も逃げ込む場所がなくなっている

日本も「失われた30年」で、世の中逃げ込む場所がなくなった。歌舞伎町「トー横」で立っている少女たちは元締めがいるわけではない。ネットカフェというアジールの利用料を稼ぐために自ら売春をしているのだ。引きこもっている鬱病の人に家族はそこがアジールだと思っているだろうか?

修道院や禅寺、コミューン、一部の農業協同法人などもアジールで、家族ではないが、家族のように生活を共にしている。テロやゲリラ、一揆などもアジール内部から表面化した思想が、聖俗貴賤の分断に斬り込んだのかもしれない。

政治権力とからむとアジールがアジールでなくなる

アジールは必要だろう。自由領域、避難所はちゃんと確保しておくべきなのだ。そうでなきゃ、政治亡命、外交、戦場の野戦病院、赤十字…は成立しない。そしてアジールは今日的には救済センターとして機能している。失業者保護、児童保護、DVやストーカーなどのシェルター…。しかし、今日の政治・社会状況下で公的な施設として整備されると、「世俗の政治権力とは関係ないことでござんす」とはいかない。福祉の私物化、貧困ビジネスなどとつながり、一層の地獄と化すのが現状で、支援NPOや従事している公務員は苦しんでいる。

明恵上人の「袖の中、袈裟の下」、かっこいいね。最近は犯罪政治家がアジールに逃げ込む。永田町は自民党の裏金議員の「アジール」、習志野市役所は市長の犯罪隠しの「アジール」。「アジト」と「アジール」を勘違いしていないか?

  • 無住(1227~1313)

鎌倉時代の僧の無住は本来の遁世(とんぜ)について、「心を捨て、まめやかに(本当に)遁れる」には「わづかの世、いやしき家を捨てずして、へつらひ苦しみ過ごし」ているようではだめだと断言している。(「沙石集」)

本当に遁れるためには、本当に苦しむことが必要なのだ。何かの負を感じた者はアジールに逃げ込むが、アジールは隠匿のためにではなく、「回復」のためにあるのだ。パレスチナ自治区はイスラエル建国と同様のパレスチナ国家をつくり、平和に共存するためにある。

駆込寺はどうだったのだろうか? 

  • 高野山宿坊マップ 駆け込み寺ではないが、高野山には宿坊がたくさんある。

戦国時代の大名は、寺院アジールの特権を否定しようとした。山の中の寺である高野山にはアジールそのものである「遁科屋(たんかや)」があった。戦国時代は「政治犯」や落武者が多く逃げ込み、遁科屋は有名になり、仏敵・信長は比叡山は焼き討ちにしたが、信長が本能寺の変で急逝しなければ、高野山も焼き討ちにしたかも知れないね。なぜか、信長の墓は高野山奥の院にある。寺院アジールは、大坂の陣の落人探索を契機として、江戸幕府は1665年「諸宗寺院法度」で完全に禁止した。

縁切寺と幕府

戦国時代までは尼寺はどこも縁切り機能を有していたので、縁切寺は全国各地にあり、だれでも近くの比丘尼(尼)寺に駆け込み、3年過ぎれば夫との縁が切れる慣行であったが、1762年、縁切りの特権は、尼寺の2寺限定で黙許した。

幕府(寺社奉行)は、駆け込み女にどのように臨んだのか? 幕府の縁切寺への対応は変化している。

1600年代後半には、幕府は「妻が夫を嫌う」ことは「不届」と反感(嫌悪)した。妻が髪を切って離婚することを許さず、髪を剃って尼になれば、3年後の離婚を夫に命じた。髪を剃ることは刑罰という考え。3年尼を務め、東慶寺から離婚の訴え(寺社離縁状)がでれば、夫が離縁状を書き、晴れて実家に帰ることができたが、再婚は禁止した。

  • 東慶寺全景図

東慶寺は、鎌倉時代創建の臨済宗の尼寺。徳川家康の孫の千姫が、豊臣秀頼の側室の娘の入寺を家康に願ったという徳川ゆかりの寺で、「縁切り寺法」(自主寺法)により、明治後期までの600年間、駈け込めば夫と離縁できる公認の寺となった。

  • 千姫(1597~1666) 7歳で秀吉の嫡男の豊臣秀頼に嫁ぐ。江戸時代になって、桑名藩主の本田忠政の正妻となるが、晩年は出家して江戸城で暮らす。波乱万丈の人生。

公家、大名から社寺に至るまで統制支配した江戸幕府なので、一尼寺を取り潰すのは簡単だったが、「権現様(家康)御声懸かり」なので、縁切りを特別許可。ただし、寺社奉行から駆け込み女の引き渡し要求があれば、拒絶できなかった。

駆け込み女は、どのように扱われるか?

東慶寺は、駆け込み女を簡単に入寺させ、在寺を許可するのではなく、妻の親元と夫方の関係者をまず呼び出して事情を聴く。その際、寺は示談で離婚を成立させる「内済離縁」という可能性を示唆し、双方の熟談を促す。その結果、妻が入寺を取りやめる代わりに夫が離縁状を出すことで合意すれば、寺は「内済離縁」として処理し、親元に帰させる。

双方が合意しない場合に限り、入寺を許可することになる。この段階で寺は寺役人を婚家に派遣させるが、その前に夫方の名主に「出役達書・でやくのたつしがき」(出張予告通知書)を飛脚で送りつける。手紙の他にも権威をつけるために菊桐金紋付の御状箱に寺法書を入れて送りつけられるので、これを見た夫が恐れおののいて離縁状を出すことがよくあった。これを「出役達書後内済離縁」という。

  • 菊桐金紋付の御状箱(参考)

名主宅へ出張した寺役人は、関係者一同を集めて東慶寺の寺法を読み聞かせる。寺法には東慶寺が古来より許された慈悲の寺であることが強調され、夫に離縁状(寺法離縁状)を出させるか、寺法に従うことができないとする「違背書」を提出するかの二者択一を迫る。離縁状を出さないとなると、寺は寺社奉行所へ吟味(取り調べ)を願い出る。その段階で奉行所は夫を仮牢(留置所)に入れると脅し、夫はしぶしぶ寺法を拒否した詫びの文句を入れて寺法離縁状を書くという筋書き。

  • 夫から東慶寺あての寺法離縁状 3行半には収まらない。夫以外にも家主と5人組が連署加印。奥書は名主。

寺法で離縁が決まると、妻は、内済離縁と違い、すぐには下山できず、2年(24か月)は、在寺を義務付けられた。寺でのんびりしているのではなく、実態は家事奴隷みたいな待遇だったらしい。夫は離縁状を出した時点で再婚可能となる。駆け込み女は24か月後。この24か月の差は何だ?禁足期間は夫に従わなかった制裁期間と考えられているのである。

満徳寺の場合

  • 満徳寺本堂(復元)

日本に二つしかない駆込寺の、もうひとつは、群馬の満徳寺である。時宗(じしゅう)の寺で、千姫の侍女が入寺したことから家康から縁切寺と認められた。その後千姫自身が入寺したという説も(諸説あり)。満徳寺には満徳寺の寺法があり、東慶寺と異なるが、詳しくは書かない。

寺敷地内に徳川の威光を反映した寺役場があり、寺奉行への依存が強く、奉行の「お声掛り離縁」が多かった。

もともと檀家を持たない寺で、江戸時代は徳川家に護られていたが、幕府がなくなると廃寺になる(1872年)。明治以降、僧寺として継続してきた東慶寺とは対照的。現在は復元されて、1992年に縁切寺満徳寺資料館(太田市徳川町)ができて、江戸時代の縁切りについて学ぶことができる。縁結びスポットにもなっている。

  • 徳徳寺資料館の展示 水を流すと縁結びになるらしい。

2つの寺、駆け込み件数は、満徳寺の記録では100件ほど。東慶寺は江戸末期の150年間に2千人超。駆け込み地域は、満徳寺は上野国(こうずけのくに)が半分近く。東慶寺は江戸が30%。江戸から鎌倉までは13里。「十三里 比丘(びく)ともせずに嫁走り」と川柳に読まれた。駆け込み女の年齢は20歳から55歳。平均して29歳であるが、20代が大半。30代にも小さなピークがある。2,3年、寺に籠ったとしても、まだ若い。

現在もそうだが、離婚となると夫も妻も現実的になる。

江戸時代、夫は離縁状と共に嫁入り道具、持参財産も返還しなきゃならなかったから、「出ていけ!」という前に、質屋にいって荷物を返してもらう金が必要。川柳に「秋風を防ぐ持参の金屏風」。夫婦関係は金でつながっている?

離婚慰謝料(縁切金)も広く行われており、別れたい方が金を出す。相場で200万円ほどだったそうだ。幕府法では、妻の方から暇をとった(離婚を請求した)なら、持参金の放棄もやむをえない。離婚請求をした方が経済的な負担をするのが原則ルールといえ、家父長制で妻には金がない。なるべく払わないように、嫌いになった夫をおろおろさせ、離縁状を書かせ、再婚したい男を逃さない。そんなしたたかな逸話もたくさん残っている。

時代が商品経済で動くようになっていた世の中で、女性は、家事や子育ての合間に現金収入を得るためによく働き、稼ぐようになっていた。へそくりは夫の給料からでなく、自分の働きで貯えていたのよ。江戸幕府の、年貢米に依存した武家社会の建前としての男尊女卑は、まるで、妻に見捨てられて三くだり半を書く羽目になった愚かな男のようだ。

現在の女性たちも、駆け込み寺に駆け込んだ江戸時代の女たちと同じ。自分から別れるのだと、三くだり半をにぎりしめて働いている。 泣いてなんかいない。(koki)

  • 澤田瞳子「駆け入りの寺」文春文庫 京都の尼寺を舞台にした連作時代小説

 

 

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Narashino gender39 日本女性史koki版㉛ 近世Ⅺ 江戸の離婚・三くだり半

2024-02-01 08:14:10 | ジェンダー

江戸の離婚・三くだり半

●これでも三くだり半 字の書けない夫は線だけ。名前も書けない夫は、爪印(爪あとだけ)これでも離縁状として扱われたというが、離婚証明書にはならないね。

武家の離婚・頼山陽の場合

江戸時代も重婚は禁止されていたから、結婚を解消して再婚する場合は手続きが必要だった。武士は幕府や藩にとどけるという手続きがあった。双方の家の思惑もからんで、結婚解消はかなり大変だが、意外に再婚は煩雑に行われていた。大名100家、旗本100家を対象とした2300人の武家女性を対象とした調査では、離婚率11.2%、離婚した女性の58.65%が再婚している。「貞女二夫にまみえず」の儒教のイデオロギーは、実態とはかけはなれている。

頼山陽(らいさんよう:1781~1832)

頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人であるが、結婚歴をふりかえってみよう。

大坂生まれ。父は儒学者、母は儒学者の娘の静子(号は梅颸:ばいし)。山陽11歳の時に父が広島藩に儒者として就職してその江戸藩邸に勤務。山陽は少年時代から学問に優れ、詩作にも才能があった。18歳で1年間、江戸の昌平坂学問所で学んだあと、広島に帰り、広島藩主の娘の淳子(じゅんこ:15歳)と20歳で結婚。かかりつけの医者の娘でもあり、父が決めた。双方婚礼の日まで互いの家に出入りしたことはなく、代理人が家を代表して上司に結婚の手続きをしている。

結婚して1年経った1800年9月、祖父の弟が亡くなり、山陽は父の実家の竹原へ弔問にいく途中、行方をくらませ、京都に行き、脱藩してしまった。

青年時代は優等生でなく、やんちゃタイプだったみたいね。11月に連れ戻されて、屋敷の座敷牢に幽閉される。脱藩した頃には、淳子は妊娠しており、翌1801年の正月に淳子の実家が新年の挨拶に来て淳子を連れ帰った。2月に実家から家僕がきて、母の梅颸に離婚届を出したと伝える。江戸詰めの父からも藩に離婚届を出した。

離婚した淳子は、実家で2月に長男を出産した。お産の準備は頼家で整え、生まれた子どもはその日のうちに駕篭で届けられた。子どもは頼家で乳母に育てられることになった。結婚のときに持ってきた嫁入り道具は、妻の特有財産なので、実家が引き取った。それ以外の金銭や田畑は夫の所有物となり返却されない。妻に過失がないのに離婚されるときは、妻方に返還されるが、返却されなかったのは淳子に過失があると頼家が判断したのだろう。

淳子は結婚当初から病気がちで床についていることが多く、母の梅颸の日記には「お淳はわがままで、何か気に入らないことがあると家僕を呼び寄せて泣く。山陽が学問の妨げになると机や書物を部屋の外に運ぶと、お淳は病人を見捨ててそばにいてくれないと文句を言う。実家の父は、それは私の妻の気質を受け継いだものだろうと取り合ってくれない」。

そういう家庭の事情は、結婚まで当事者を知ることもなく、結婚後もコミュニケーション不在で「家同士の結婚」が生み出した結婚ではあるあるだろう。淳子本人が望んだ結婚ではなく、未成年の結婚で夫が脱藩、座敷牢では心身を壊すだろう。

家同士の結婚は人生の墓場になる可能性大、武家の離婚が頻繁だったのはよくわかる。

山陽は1809年まで5年間も幽閉された後、頼家を廃嫡となる。山陽の息子もまた、1820年に19歳で結婚し、10カ月で離婚している。原因は不明であるが、妻が頻繁に実家に帰っていたので頼家が離婚届を出した。まずは「家」があり、結婚は嫡男といえど家のイベントみたいなものだ。

颸(ばいし)日記

山陽の母の梅颸は深くは考えない大坂女。頼家に嫁いでから58年も日記を書き、儒家の家政をずっと支えた。嫁ぐときに儒学者の父より贈られた和歌。「世の中に道より外は何事もすっぽらぽんのぽん」。儒家の嫁として守るべき道は守り、それ以外のことは思いつめずに(すっからかんで)生きなさい。

見延典子「すっぽらぽんのぽん」

頼山陽は、厳格な父に反発、脱藩、廃嫡、勘当と札付き息子で、在野の学者として京都を拠点に活動し、「日本外史」(国史の史書)は幕末から明治にかけて歴史書としては最も読まれ、尊王攘夷運動に影響を与えた。梅颸は病弱な山陽を抱えながら、主婦としての一家の生活、儒家としての行事や交際。その合間に歌を詠み、旅行を楽しんだ。人生うまくいった部類。父から言われたとおり生きて、57歳の時に夫が、73歳の時に息子の山陽に先立たれる。自身は84歳まで生きた。

●小説「頼山陽」や「すっぽらぽんのぽん」の著者、見延典子さん

動画で解説「頼山陽」

(編集部注:頼山陽は、習志野市谷津の住民で2年前に亡くなった 頼 和太郎さんの先祖にあたります)
頼和太郎さんの訃報、東京新聞全国版に載りました - 住みたい習志野

庶民の離婚三くだり半

「三くだり半・みくだりはん」(三行半、見下り半)というのは離縁状のこと。武士以外の身分が離婚するときに、夫から妻あてに書く(婿入りの場合も夫から妻に)。

妻からの離婚は認めてられないので、書かない(夫の専権離婚)。離婚する旨と再婚を許可するという両方が書かれてなければならない。重婚は重罪なので、離縁状という離婚証明書がなければ再婚できない。離縁状を受けてたしかに受け取ったという「返し一礼」なるものを妻から提出。この手続きで、二人は一切関係ない他人、離婚成立したといういうわけだ。宗門人別帳※に記載される。

※宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)については、前回の投稿をご参照ください。
Narashino gender 38 日本女性史koki版㉚ 近世Ⅹ 江戸時代の結婚、離婚。不義密通 - 住みたい習志野

くだり半というのはどういうものか?

離縁状が「三くだり半」と呼ばれたのは、文書を3行半に書くという様式から、呼びならされたもので、ホンモノを画像でみてみよう。(古書店やメルカリなどでも入手できる)

埼玉県立文書館所蔵 離縁状

「因縁薄によって今離別候 自今以後 再縁・改嫁随意するへきこと/和十郎印/天保五年甲午七月/たみ江印」

和十郎さんから妻のたみさんへの三くだり半だね。事書(表題)はないが、「一札之事」「離縁状(之事)」「去状(之事)」「暇状(之事)」(「事」は私文書を表す)などが最初の行に書いてあることが多いが、なくても「離縁状」として通用する。

離婚の理由は「因縁薄」のたった3文字。「因縁」というのは物事の生じる原因という仏教用語だが、江戸時代では転じて「定められた運命」という意味で使われた。別れる運命にあった。ではなんで別れたのかは?だが、正直に書くことはないし、書かなくてもいい。理由の記載がないものが多い。

江戸時代の「手紙の書き方」の本には、離縁状の用例が載っていて、「不縁ニ付」、「家内不和合二付」、「勝手ニ付」、「熟談の上」などの用例がある。それでOKなのだ。別れる本当の理由、「姑との不仲につき」、「家業を怠ける」「態度が悪い」と書きたいところだが、書かない(女性が書かせない)。せいぜい、「不熟ニ付」と「不叶有寄心」。これは責任の所在をあやふやにするためかもね。たった3行半でも自筆だし、筆遣いなど、私は鑑賞して面白かった。

現在でも、「三くだり半」は退職届に慣行として残っている?上司に退職の相談に行くときに隠して携えていったり、会社から書けと言われて書いたり、民法上は口頭でもOKなんだけどね。以前、勤めていた会社の書庫に、退職届が段ボールいっぱい残っていて、昼休みに総務の女性と全部読んだことがある。ほとんど理由は「一身上の都合」、しかし約1割が退職理由は自己都合ではなく会社への不満で、それだけ紐(ひも)で括(くく)られていた。在職中の私たちは読んで、すごく納得したのを覚えている。

三くだり半は妻の退職届 

夫が一方的に三くだり半を「つきつける」、三くだり半を「たたきつける」で、それを持って妻は泣く泣く実家に帰るというイメージだけど、嫁取り婚なので、離縁により家を出るのは妻なのは当たり前。離婚の多いことを女性の立場が弱かったと簡単に片づけるわけにはいかない。

最初に、17世紀末から18世紀初めにかけての宗門人別帳に記録された、日本の真ん中あたりの農村部の木曽の結婚実態を詳細に調べたレポート(総合的にみて平均的な結婚実態)によると、初婚同士の結婚年齢は男27歳,女21歳で、結婚継続期間は平均23年。結婚は夫婦いずれかの死亡か、離婚によって終わる。結婚継続期間は結婚終了の理由別によりずいぶん違いがある。夫・妻が同じ年に死亡→結婚継続43年、夫の死亡で結婚終了の場合の継続期間31年、妻の死亡→20年、離婚→4年。妻より夫の方が長生きしているのは、江戸時代(明治も)の女性の死亡が、出産時や産後期にこぶ状に突出して多いせいかも知れない。わずか4年で、離婚で結婚が途切れるのは、農家の存続の大きなリスクとなるから、再婚で補充した。結婚カップルでどちらかが再婚というのは半数以上(男で4割、女で3割)ある。

7割を占める農民が労働力としての子どもを確保するためには再婚しかない。離婚が煩雑にあったことと、再婚もごくふつうであるというのは、女性の辛抱が足りないとか、性観念が緩いとかそんな問題でもなさそうだ。

結婚経験者を「キズモノ」扱いして女性を傷つけていたら、再婚も結婚願望もなくなり、日本国江戸幕府は続かないのよ。江戸時代、女性はそんなに弱くなかったし、夫の言うことにいつも従っていたわけではない。江戸時代後期に晩婚化が進むのは、女性が少しずつ自立できてきたことが上げられる。

離婚をタブーとしない社会は、人生やりなおしを肯定することでもあるし、いいこと。 離婚は他にやりたいことがあるということ。お上や家や夫が決めた人生ではなく、自分の人生を生きたい。封建時代の女性の地位が最も低いとされる時代だって、現在の女性と同じ。今は結婚リスクを見越して、結婚しない女性が増えている。共白髪(ともしらが)になっても熟年離婚増加。「共白髪 父は憧れ 母は拒否」(2023サロンドプロ白髪川柳受賞作品)。

大石内蔵助の「離縁状」

大石内蔵助は討ち入りを決心し妻りく(理玖)との離婚を決意する。討ち入りの決心がバレないように離縁状そのものは書かず、りくの父(石束源五兵衛)あての手紙のなかに、離縁のことばを記す。討ち入り後を想定し、武士の身分を離れた人間として、将来、りくが再婚できるための配慮である。落語や講談になっている。

離縁状授受に関する刑罰が緩くなった

国立国会図書館 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
これまで触書中心の法を中国の「明律(みんりつ)」を参考に将軍吉宗が15年もかけて成文法として自ら編纂した。非公開であったが、評定所(現在の最高裁)が裁判で使用するために写本を作成し、広まった。

江戸時代は憲法はなかったが、法律上、庶民の離婚は、文書に書かれた離縁状が夫から妻に交付され、受理されることが必要だった。離婚法に関しては、1742年の八代将軍吉宗の「公事方御定書」(下巻)に大きな転換がおきる。

それまで、妻が離縁状を授受しないで再婚すると、密通と同じ重婚として処罰(ほぼ死罪)された。しかし、夫が離縁状を渡さないで、他の女と一緒になっても、一定期間の「入牢」、または追放と軽い刑罰ですんだ。

この離縁状の授受に対する刑罰は、緩くなった。離縁状がないというだけで、死罪なんておかしなハナシ。吉宗は刑が「死刑」、「追放」だけでなく、罪の重さに応じて減刑を加えて、更生という方向を示した。賄賂は逆に厳罰化した。享保の改革の一環だった。

徳川吉宗(1684~1751第8代将軍。家康のひ孫。江戸幕府中興の祖。TVでも数々のドラマの主人公になったので、デコレーションしてみました。

離縁に関する法令は以下のとおり。

①離縁状を出さず、再婚したものは所払(ところばらい:追放)、

➁離縁状を取らず、他へ嫁ぐ女は、髪を剃って親元に帰し、取持ちをしたものは過料(罰金)→髪が元通りになれば(約3年)、再婚禁止期間が過ぎたと認められた。

③離別状のない女を縁付けた親元、引き取った者(事実婚の相手)は過料。

夫が離縁状を渡さないで、他の女と一緒になると追放(①)というのは変わらないが、女性への刑は明らかに軽くなり、男女の刑罰に大きな差異はみられなくなった。

 

将軍、大名クラスが、自分が大奥や妾などの放縦な男女関係でも、庶民が妾をもつことはよしとしない。しかし、夫にとっては、三くだり半は取り扱いがむずかしい。二股かけて三くだり半で後妻を迎えるために今の妻を離縁することなどは「不実離縁」という不名誉なこととされたし、妻は不実離縁されるなら、自分から縁を切る気概をもっていた。

離縁状の発行証明に証人はいない(現在の婚姻届は証人が必要)。離縁状は発行されれば、現物は妻の手中にある。離縁状がないと妻が再婚できないことばかり強調されるが、一方、夫が再婚で異議を唱えられたときは、別れた妻に離縁状で証明してもらわなければならない。イニシアティブは妻や妻の両親が持っている場合も多かった。婿養子が離婚するときは婿が離縁状を書いた。川柳に「去状を書くと入婿おん出され」とあるように、婿の場合は実質的に離婚権はない。

離縁状は先渡しもあった。離縁もやむなしと思われる不埒者、酒浸りのダメ亭主などは、なお引き続き不埒をすれば離縁すると、夫に離縁状を書かせ、妻が預かる。離縁状は男の権利だったかも知れないが、女たちは策を弄し、夫に離縁状を書かせたことも多かった。 江戸時代の庶民の離婚は、実態はさまざま。「追い出し婚」より「飛び出し婚」が多かったというのは本当かもしれないね。

明治時代 妾に書いた離縁状

明治時代になり、1871年に「戸籍法」が成立し、「三くだり半」の授受ではなく、戸籍登録の離婚が可能になったが、昭和の時代まで離縁状慣行が残っていた。

その多くが妾や内縁の妻あてに書かれたもので、拇印が押してあったり、なぜか収入印紙が貼ってあるのもある。

昭和になっても離縁状を手書きして、役所の窓口に持参した人もいたらしい。妾や内縁への離縁状は戸籍とは関係ないし、書いて人に見せたいのはわかる

けど、こんな離婚届のほうが前向き。

桜散る離婚届(上)氷の離婚届(下) 最近はこんなデザイン離婚届も受け付けてくれる。3枚1セット1122(いい夫婦)

次回は「縁切寺」です。駆け込み寺とも言われます。現在ではシェルター? 寺が離婚調停までやった。私は、「アジール」(自由領域)と日本歴史との関係から考えてみたい。ちょっとハードルが高いなぁ(koki)

「ジェンダー」のブログ記事一覧-住みたい習志野

 

 

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