(ブログ読者の投稿です)
なぜ校長だけ特別扱い?
校長だけが88歳の「米寿のお祝い」で(?)叙勲されるのっておかしくない?
毎月、月初めになると、新聞には地方面の片隅に、高齢者叙勲というベタ記事が載ります。よく見ると元校長ばかり。
未来を担う子供らを育ててくれた功績は多としますが、なぜ元教頭やヒラ教諭はいないのか。なぜ校長だけが、一定の年齢(88歳)に達すると自動的に日本国天皇から勲章をもらえるのか。どうも謎ですね。「米寿の祝い」だとしても、なぜ校長に限るのかは説明がありません。ヒラの先生でも実に献身的に子供らに尽くして、勲章に値するという人はいるでしょうに…。なお、元高等学校長には瑞宝小綬章、元小・中学校長には瑞宝双光章と決っているのだそうです。
校長室の金庫に大事に保管されているのは、叙勲申請のための歴代校長の履歴書類
校長室にはどこも黒く重々しい金庫があります。歴代の卒業生の記録が入っているのだろうと思うと意外にそうではなく、歴代の校長の履歴書類が入っており、それをチェックして、タイミングを逸せず叙勲の申請を市教育委員会に上げることが当代の教頭の重大責務になっているのだ、という話も聞きます。
日本社会は「世襲」だらけ、コネと肩書ばかりで社会の活力が失われている。だから「国葬」なんて戦前みたいなことをやろうとする。明治か!
このように、日本国憲法の下にすっかり民主化されたはずなのに、いつの間にか新しいカーストが生れている。代議士でも財界人でも、芸能界までどこの世界も世襲ばかり。コネと肩書ばかり幅をきかせて、社会の活力は失われています。岸田首相が「国葬」を復活させようなどと古めかしいことを言いだしたのも、その延長線上にあることなのでしょう。
敗戦から77年。そろそろ「常識」や「慣例」を疑ってみるべき
江戸幕府が倒れてから太平洋戦争の敗戦まで77年でした。敗戦から現代までも77年です。そろそろ「常識」とか「慣例」を疑ってみるべき時期なのかも知れません。
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戦後はこうしたことが忘れられ、何のための叙勲だかわからないまま今に至っている。そこに、国葬復活に至る今回の流れを見出された本稿は実に慧眼だ。1967年に吉田茂の国葬が行われ、この年に「建国記念の日」(旧紀元節)が復活しているのは決して偶然ではない。
「大げさだ」「考えすぎだ」という人もいることだろうが、こうしてヒタヒタと気が付かない間に「戦前」が復活していく。「アリの一穴理論」ということだ。
警察一家とか国鉄一家とか、社会は家制度で成り立っている。活力なんてなくなって当然だ。