住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動 声を上げた一軒の魚屋

2024-02-12 16:24:09 | オスプレイ、安保、平和

(東京新聞の記事より)

杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」

杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」:東京新聞 TOKYO Web

杉並から世界に拡散した「原水爆禁止」運動 声を上げた一軒の魚屋、公民館を拠点にした「市民の戦い」:東京新聞 TOKYO Web

太平洋のビキニ環礁で米国が水爆実験を行ってからまもなく70年を迎える。付近で操業していた日本のマグロ漁船が「死の灰」を浴び、放射能に汚...

東京新聞 TOKYO Web

 

◆飲食店主、市場の仲間 みんな危機感があった

 「ある日を境にぱたっと魚が売れなくなった。付近の住民が遠巻きに怖い物を見るように店を避けていったのを覚えている」
 杉並区の竹内ひで子さん(81)が70年前の記憶をこう語る。当時は11歳。両親の菅原健一さんとトミ子さん(ともに故人)が営む鮮魚商「魚健」の店番や配達を手伝っていた。

 1954年3月1日、ビキニ環礁での水爆実験に静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が遭遇し、乗員23人全員が被ばくした。当時、周辺で多くのマグロ漁船が操業中で、850隻以上から放射能に汚染されたマグロが水揚げされた。ニュースで報道されると「日本の台所を預かる市場が大パニックに陥った」と竹内さんは振り返る。

(注:当時のニュース映像です)

第五福竜丸 ビキニで被ばく|ニュース|NHKアーカイブス

第五福竜丸 ビキニで被ばく|ニュース|NHKアーカイブス

静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が3月1日、ビキニ環礁付近で核実験による死の灰を浴び、乗組員23人が原子病(放射線障害)になった。ビキニ付近では、米国人2...

第五福竜丸 ビキニで被ばく|ニュース|NHKアーカイブス

 
 父健一さんの元には、すし店や干物店などの店主らが次々と相談に訪れた。同月中には、原水爆禁止を求める署名運動を行うことを地元の魚商組合が決定。健一さんは、築地市場に買い出しに訪れる東京中の魚商仲間にも声を掛けた。

◆店先の署名簿が1カ月で爆発的に広がった

 4月2日、築地市場であった大会は500人以上が集まり、米国の負担による損害補償や実験中止のための大国間の会議などを求める決議を採択した。杉並区にも地元魚商組合が陳情書を提出。文面考案の中心となったのは健一さんだ。「第五福竜丸の一報から1カ月もたたないうちに、米国や日本政府、区に意思を示したのは驚くべきこと」。竹内さんはそう思い返す。
 当初は魚商の店先に置かれていた署名簿。一気に署名運動が広がったのは、母トミ子さんの言動がきっかけだった。

 

 4月16日に杉並区立公民館で開かれた地元婦人団体協議会主催の婦人参政権行使記念講演会。講演が終わり、トミ子さんが手を挙げて発言した。「ビキニ水爆実験による放射能汚染で魚が全く売れず、困っています」。署名運動への協力を呼びかけた。後に講演会の参加者から伝え聞いた様子を竹内さんはこう話す。「母は震えながら手を挙げ、意を決して訴えたようだ」

◆日本政府は批准していない「核兵器禁止条約」

 戦時中から労働運動などを行っていた菅原夫妻。「子どものころから、戦争は絶対にしてはいけないと両親から繰り返し言われてきた。米国とソ連(当時)の核開発競争に日本が巻き込まれたことで再び戦争への道が開かれることを懸念した」。竹内さんは積極的に署名運動に関わった両親の原動力をそう語る。

杉並公民館の館長室で署名簿を整理する女性たち=1954年撮影(杉並区立郷土博物館提供)

 講演会翌日、杉並区議会は全会一致で水爆実験禁止を求める決議文を採択。5月に入ると「水爆禁止署名運動杉並協議会」ができ、区役所にも署名簿が置かれた。官民の垣根なく区民の運動として盛り上がり、当時39万人が住んでいた同区で2カ月余りのうちに27万以上の署名が集まった。
 水爆実験からまもなく70年。2021年には核兵器禁止条約が発効した一方、日本政府が今も批准していない状況を竹内さんは残念がる。「かつての杉並から広まった核兵器反対のうねりが再び起こってほしい」

◆「魚屋さんだけの問題だけではない」

 署名運動の中心には、杉並区立公民館の存在があった。講演会で署名への協力を呼びかけたトミ子さんに対し、安井郁(かおる)館長(故人)は「これは魚屋さんだけの問題ではない。全人類の問題である」と会場の参加者に呼びかけたという。
 安井さんは1954年5月にできた水爆禁止署名運動杉並協議会の議長に。署名簿に掲げられたスローガンと声明文は「杉並アピール」と呼ばれ、統一的な署名運動が全国に広がった。

三つのスローガンが掲げられた署名簿の表紙=杉並区立郷土博物館提供

 8月に原水爆禁止署名運動全国協議会が発足すると、事務局が区立公民館に置かれた。安井さんが事務局長を務め、全国から寄せられた署名の集計を協議会の女性たちが行った。「当初から世界に訴えるという目標がスローガンにも表れている」と長男の妻の節子さん(79)は語る。
 大学教授でもあった安井さん。「専門は国際法。公民館は民主主義社会と平和主義のための基地であるという思いがあった」と節子さん。当時、公開講座や女性向けの読書会を企画。社会教育の場として区立公民館で多くの女性が学んだ。

◆女性たちのエネルギーが局面を動かした

 区内の署名運動で大きな役割を担ったのは、公民館でつながった女性たちだ。「署名は、女性の水爆禁止への意思表示の手段だった」。地域で平和活動や社会教育活動に関わってきた杉並ユネスコ協会顧問の林美紀子さん(84)はこう話す。「あの時代に何万という署名を集めるエネルギーには驚く」
 全国的な署名運動は、55年8月6日に広島で開かれた「第1回原水爆禁止世界大会」に結実する。大会までに全国で集められた署名は約3200万筆以上。当時の人口の3分の1以上が署名したことになる。

署名を呼びかけるポスター=杉並区立郷土博物館提供

 こうした動きは、広島・長崎の被爆者の団結にもつながった。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中熙巳代表委員(91)は「70年前の事件がなければ全国の原爆被害者は救われなかったかもしれない」と明かす。広島での世界大会後、各地で被爆者団体が結成され、56年に長崎で開かれた第2回大会で被団協が誕生。被爆者への補償や実相普及につながった。
 原水爆禁止の署名運動の中心となり、その後の運動に大きな影響を与えた杉並だが、当時を知る人が少ないのが現状だ。拠点となった区立公民館は89年に廃館となり、跡地に建てられた記念碑には経緯が短く記されているだけだ。

◆多くの人が「連帯」できるノウハウ 継承できるように

 昨年3月には、区内の市民団体が平和資料館(室)を求めて署名活動を開始した。被爆者や戦争体験者、署名運動の関係者が所有してきた資料や証言記録を整理、保存、展示する施設の整備を訴えている。
 署名の呼びかけ人の一人で区内在住の武蔵大の永田浩三教授(メディア社会学)は当時の動きを「行政も地域の住民も頑張る中で、政党色がなく多くの人を巻き込んだ」と指摘する。

 「当時の資料からは、関係者が知恵を出し合い、工夫してきたことがうかがえる。連帯のためのノウハウが詰まっている」と検証する場の必要性を強調する。

 安井さんが自宅で保管していた資料は2005年以降、有志らがデータベース化を行ってきた。一昨年、区立郷土博物館に資料を寄贈した節子さんは「今後、資料を研究者に役立ててもらうなどして、杉並区から世界に広がったこの運動の姿勢や精神を次世代へ語り継いでほしい」と願う。
杉並区議選の波乱を起こした「2万票」…女性が当選者の半数、自民が大量落選:東京新聞 TOKYO Web

杉並区議選の波乱を起こした「2万票」…女性が当選者の半数、自民が大量落選:東京新聞 TOKYO Web

統一地方選で、議会の勢力図が激変したのが東京都杉並区だ。女性の当選者が男性を上回り、現職や最大勢力の自民党の候補が大量落選。新陳代謝を...

東京新聞 TOKYO Web

 

 

 

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「あなたは祖国のために戦えますか」櫻井よしこ氏の炎上発言に思い出す「元海軍主計少佐」が語った「大東亜戦争の大教訓」

2024-02-05 08:38:04 | オスプレイ、安保、平和

(現代ビジネスの記事より)

「あなたは祖国のために戦えますか」櫻井よしこ氏の炎上発言に思い出す「元海軍主計少佐」が語った「大東亜戦争の大教訓」

「あなたは祖国のために戦えますか」櫻井よしこ氏の炎上発言に思い出す「元海軍主計少佐」が語った「大東亜戦争の大教訓」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

「あなたは祖国のために戦えますか」櫻井よしこ氏の炎上発言に思い出す「元海軍主計少佐」が語った「大東亜戦争の大教訓」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族を...

Yahoo!ニュース

 

「あなたは祖国のために戦えますか」

 桜井氏のポストを見て、私は、かつてインタビューした旧軍人、遺族のなかで、特に印象に残っている故門司親徳・元海軍主計少佐(1917-2008)の言葉を思い出した。

 「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」  というものである。

レイテ沖で日本海軍は艦隊の大部分を失って、その後はずっと特攻こそが唯一の戦法であるというふうになってしまった。込み入った作戦を考える必要がないから、自分が出撃する立場にない軍令部作戦部の部長や参謀にとっては楽だったのではないか。ただ、そうなれば参謀など必要ありません。

 新聞やラジオも特攻隊員を『軍神』と褒めそやし、しまいには『一億特攻』などというスローガンが掲げられるようになった。『一億特攻』と言いますが、仮に日本人が最後の1人まで特攻で死ねば、いったい誰が日本を守り、天皇陛下をお守りするのか。米軍の庇護のもとに存続するのか、あるいは日本という国は亡びるのか、そんな当たり前のことを考える余裕もない集団ヒステリー状態に導いてしまっていたわけです」

特攻作戦を推進した中島正中佐

実戦部隊で特攻推進の急先鋒だった中島正中佐(写真は平成7年に出演したBBC番組「KAMIKAZE」より)

『安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争(太平洋戦争)の大教訓』

 太平洋戦争で、230万名にものぼる将兵や軍属、準軍属が戦死、あるいは戦病死し、30万の一般邦人が命を落としたとされているが、その多くはいまなお遺骨すら還っていない。遺族への扶助料も、敗戦とともに空証文と化し、昭和27(1952)年の第十三通常国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が可決、成立するまでは1円の援助もなかった。しかも、50万人もの死者を出した民間人の空襲被害者に対しては米一粒、柱一本の補償もしてこなかったのが先の大戦における「祖国」である。

 海の向こうのアメリカでは、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』などで知られる映画監督・俳優のクリント・イーストウッドが、
戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだからと言っている。
これは歴史を踏まえた上での至言だと思う。同様に、「祖国」を持ち出して若者に「戦う覚悟」を問う者にも惑わされてはならない。彼ら、彼女らは決まって戦場に行かない者たちなのだから。

櫻井よしこ氏「あなたは祖国のために戦えますか」Xでの書き込みに賛否「いつでも老人が若者に」 - 住みたい習志野

 

 

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櫻井よしこ氏「あなたは祖国のために戦えますか」Xでの書き込みに賛否「いつでも老人が若者に」

2024-01-23 01:00:08 | オスプレイ、安保、平和

(デイリーの記事より)

櫻井よしこ氏「あなたは祖国のために戦えますか」Xでの書き込みに賛否「どうせ温室で煽るだけでしょ?」「いつでも老人が若者に」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

櫻井よしこ氏「あなたは祖国のために戦えますか」Xでの書き込みに賛否「どうせ温室で煽るだけでしょ?」「いつでも老人が若者に」

 キャスターでジャーナリストの櫻井よしこ氏が19日にX(旧ツイッター)で「あなたは祖国のために戦えますか」と記し、賛否が起きている。

 インターネットテレビ「櫻井よしこの言論テレビ」で20日に元航空自衛官の織田邦男氏が麗澤大で安全保障の講義を行っていることを特集。Xで紹介する際に、「『あなたは祖国のために戦えますか』。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました」と記した。

 しかし、「自国を自国民で守るというのは理解できるがしかし、いつの時代も老人が若者に戦場に行くように勧めるのはどうにかならんのか」「どうせアンタは戦が始まっても『頑張れ~頑張れ~www』と温室で煽るだけでしょ?」「自ら血を流す、または他者を殺傷できますか?」「俺は戦います」などの声が寄せられた。

 

 

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陸自幹部が「部隊での靖国参拝を禁じる」事務次官通達に反して、「公用車」で参拝

2024-01-21 00:08:28 | オスプレイ、安保、平和

(日テレNEWSより)

【靖国参拝】陸自幕僚副長らが数十人 木原防衛相「厳正に対処」

(東京新聞の記事より)

自衛隊員が集団で神社参拝、宮古島でも「通達違反」の疑い 20人が公用車のマイクロバスなど使用

自衛隊員が集団で神社参拝、宮古島でも「通達違反」の疑い 20人が公用車のマイクロバスなど使用:東京新聞 TOKYO Web

 陸上自衛隊宮古島駐屯地(沖縄県宮古島市)の宮古警備隊長ら隊員約20人が1月10日、公用車などで地元の宮古神社を参拝していたことが、関係者への取材で分かった。隊長らは休暇を取っていたが、制服姿で陸自のマイクロバスなどを使ったという。宗教の礼拝所を部隊で参拝することを禁じた防衛省事務次官通達に反する疑いがある。

◆担当者は「20日以降に回答する」

 宮古島駐屯地の広報担当者は本紙の取材に「20日以降に回答する」と説明を避けた。今月9日には、陸上幕僚副長ら数十人が集団で靖国神社を参拝したことが明らかになっており、防衛省が経緯を調べている。
 関係者によると、宮古警備隊長の比嘉隼人(ひが・はやと)1等陸佐ら約20人は10日午前10時半ごろ、陸自のマイクロバスなどで神社に到着。参拝や寄付奉納などを行い、正午ごろ帰途に就いたという。

◆事務次官通達では「厳に慎むべき」

 宮古島で基地反対運動をしている清水早子さん(75)は「今回の陸自の行動は、憲法の政教分離の原則にも防衛省の事務次官通達にも違反する」と批判。陸幕副長らの靖国神社参拝も念頭に「各地の部隊でも参拝が行われているのでは」と疑念を示した。20日午後2時から、島内で抗議の記者会見を開くという。
 防衛省は1974年の事務次官通達で「神祠(しんし)、仏堂、その他宗教上の礼拝所に対して部隊参拝すること」などを「厳に慎むべきである」と示している。木原稔防衛相は12日の記者会見で、陸幕副長らの靖国参拝について「誤解を招く行動は避けなければならない。判明した事実関係に基づき厳正に対処する」と述べていた。
 
 
 

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沖縄:ジャズシンガーの妹と牧師、親米、反米ですれ違った2人の人生を再び結び付けた歌「ダニー・ボーイ」

2024-01-15 11:14:55 | オスプレイ、安保、平和

(RBCの記事より)

伝説のジャズシンガーの妹を「米軍に媚びている」と拒絶した牧師の兄 親米、反米ですれ違った2人の人生

【前編】伝説のジャズシンガーの妹を「米軍に媚びている」と拒絶した牧師の兄 親米、反米ですれ違った2人の人生 | 沖縄のニュース|RBC 琉球放送 (1ページ)

【前編】伝説のジャズシンガーの妹を「米軍に媚びている」と拒絶した牧師の兄 親米、反米ですれ違った2人の人生 | 沖縄のニュース|RBC 琉球放送 (1ページ)

沖縄がアメリカの統治下にあった時代、米軍基地の中で10年にわたってステージに立ち続けて、アメリカ軍人に向けて歌声を届けてきた、ジャズシンガー齋藤悌子さん。一方でそ...

RBC 琉球放送

 

沖縄がアメリカの統治下にあった時代、米軍基地の中で10年にわたってステージに立ち続けて、アメリカ軍人に向けて歌声を届けてきた、ジャズシンガー齋藤悌子さん。
一方でその兄、牧師の平良修さんは、本土復帰前の沖縄で「沖縄の帝王」と呼ばれたアメリカの高等弁務官の就任式で、挑戦状を叩きつけるような行動に出て世間を騒然とさせた。

輝いて見えたアメリカの文化や生活 歌に夢中だった

戦後、平良家は、父の故郷・那覇へ引っ越した。
高校に進学した悌子さん。歌の才能を教師に見いだされ、米軍基地で演奏するバンドのオーディションを受けてはと勧められた。

1953年、悌子さんはオーディションに合格。高校卒業と同時に、ジャズシンガーの道を歩むことになった。所属したのは、のちの夫となるギタリスト齋藤勝さん率いるバンドである。

「米軍に媚びている感じがして歓迎できない」

兄・修さんは、軍人相手に歌う妹を、冷ややかな目で見ていたという。

平良修さん
「米軍に媚びているような感じがして、気持ちの上では歓迎できない。私の生活の領域と彼女の生活の領域が、同じ沖縄で同じ平良を名乗っているが、どこか違うなという違和感はありました」

基地の外で、牧師としての道を歩んでいた修さん。戦後、修さんはどうしても割り切れないことがあった。軍国主義の化身に見えた教師たちが、平和主義者に変心していたのである。

国、教師と、安心して信じられるものを失い悶々とする中で、ハンセン病患者への差別と闘った牧師と出会い、キリスト教にひかれるようになる。

米軍チャペルの奨学金で、パスポートをもって東京神学大学校に留学。1959年、コザ市(現沖縄市)の沖縄キリスト教団上地教会牧師に就任した。

米軍チャペルとも交流のあった修さんが、明確に基地反対の姿勢を示すようになったのは、1965年のアメリカ留学がきっかけ。当時のアメリカで、黒人は激しい差別に晒されていた。

テネシー州の教育大学で学んでいた修さんは、友人に誘われ、当時、キング牧師らを中心に黒人教会で開かれていた公民権運動の集会に出席。そこで、集会の参加者が、白人による人種差別に怒りを爆発させ、黒人霊歌(ゴスペル)を激しく絶唱している姿に衝撃を受けた。

修さんは妻の悦美さんに手紙を送り、動揺する胸のうちを明かした。

(修さんから妻への手紙)
「沖縄でもこういう叫びがあるはずなのに、僕は聞いていなかったというショックで、後の礼拝がどうだったか、もう分からなかった」

基本的人権を求める黒人たちの叫びや歌声に、アメリカ占領下の沖縄の人々の苦しみが重なった。それ以来、修さんは、牧師として沖縄で泣いている人と一緒に生きることを誓った。

そして1966年、修さんに運命の時が訪れる

ともに沖縄戦を生き延びた兄妹、平良修さんと齋藤悌子さん。米軍人に向けてジャズ歌ってきた妹に対し、兄は本土復帰前の沖縄で「沖縄の帝王」と呼ばれたアメリカの高等弁務官の就任式で「これが最後の高等弁務官になりますように」と述べ、世間を騒然とさせた。

米軍基地をめぐり、数十年にわたり顔も合わせないほどすれ違ったきょうだい。その2人をつないだのは、90歳になった兄が初めて訪れたライブで妹が歌った『ある歌』だった。

(下のサイトの動画で、この時の経過がご覧になれます)

復帰50の物語 第49話 兄妹がたどった2つのオキナワ

復帰50の物語 第49話 兄妹がたどった2つのオキナワ

今年1月から、本土復帰について様々な角度からみつめてきたシリーズ「復帰50の物語」。ニュースでの放送は、きょうの第49話で最後となります。今回は、アメリカ統治下...

QAB NEWS Headline

 

 

「これが最後の高等弁務官になりますように」就任式で驚きの祈り

修さんのもとに、アメリカから任命された第5代琉球列島高等弁務官の就任式で、牧師として祝福の祈祷をするよう依頼がきた。高等弁務官は、米軍統治下だった沖縄の全てを牛耳る最高権力者だ。

就任式当日。修さんは母に電話し「何があっても心配しないで」とだけ告げた。新しい高等弁務官を前にして「これが最後の高等弁務官になりますように」と述べ、一日も早くアメリカの支配が終わるようにと、神に祈りを捧げた。

沖縄県内外のマスコミは、就任式での発言を大々的に報道した。修さんは、米軍に身柄を拘束されることも覚悟していたが、予想に反して、何のお咎めもなかった。修さんは「私への弾圧の結果、沖縄民衆がさらに反米的になることを恐れて黙殺した」と解釈する。

「大変なことになった」

悌子さんが兄・修さんの発言を知ったとき、そう思った。しかし、すでに沖縄を離れていたこともあって、どこか遠い話であった。

夫との早すぎる別れ 失意から救ってくれたのはやはり歌だった

25歳でバンドマスターの齋藤勝さんと結婚した悌子さんは、30歳を前に沖縄を離れ、鹿児島まで船で渡りオープンカーで1か月かけて夫の故郷・千葉へ。そのころには生活の拠点ができていた。2人の子どもに恵まれ、ライブ活動をつづけながら忙しい毎日を送っていた。

悌子さんの幸せな生活が大きく変わったのは50代のとき。夫の好きな石垣島に移住してわずか2年…勝さんが病気のため亡くなったのだ。

齋藤悌子さん
「本当に優しい主人でしたからね。あっという間に逝っちゃったでしょ。それで私はもうどうしていいかわかんなくなって、しばらく音楽が聞けなかったんですね。音楽が流れるとすぐ涙が出ちゃうから、思い出して」

歌を封印する日々は10年以上続いた。しかし、そんな悌子さんを救ってくれたのはやはり歌だった。ある日、喫茶店から流れてきたジャズを聴いて、もう一度歌いたいという気持ちが湧いてきたのだ。

2022年夏、86歳にして初のアルバム「A Life with Jazz」をリリースする。

兄妹のすれ違いが続く中で、悌子さんのCDデビューの話題は、報道によって修さんのもとにも届く。

この頃までの修さんは、牧師として基地の反対運動に徹し、多忙な生活を送っていた。悌子さんと会うことはほとんどなく、悌子さんの夫・勝さんの葬儀にも参列しなかった。

修さんは、妹が再び歌いだしたことを知って、ジャズがどれほど妹にとって大切なものだったかを理解した。

長いすれ違いを乗り越えたもの

2022年11月、CD発売を記念してライブが開かれた。会場は満員だった。悌子さんは20代の頃のステージ衣装に身を包み、「サマータイム」や「テネシーワルツ」など、基地の中でもよく歌った曲を、丁寧に味わうように歌っていく。

最前列に座る修さんは、悌子さんとは目も合わせず、うつむいて聴いていた。

ライブの中盤、修さんの心を動かした歌があった。それは「ダニー・ボーイ」
アイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」の旋律に歌詞をつけたこの曲は、大切な人との別れを想起させる。

♪ ダニー・ボーイ 
 いとしき我が子よ いずこに今日は眠る
 戦に疲れた体を休めるすべはあるか 
 おまえに心を痛めて 眠れぬ夜を過ごす
 老いたる母のこの胸に 
 帰れよ ダニー・ボーイ 帰れよ

悌子さんは会場で、この曲にまつわる米兵との思い出を語った。

齋藤悌子さん
若い軍人さんと素敵な女性が踊っていらして、よく見ると軍人さんが泣いているの。どうしたんだろうと思って、あとでスタッフに聞いたら、あすベトナムに行くんだと。ショックでした。あの人は生きて帰ったかわからない

1960年から75年まで、およそ14年半にわたって続いたベトナム戦争。沖縄は最大の後方基地としてアメリカ軍の支えとなっていた。

齋藤悌子さん
「あの頃は、ダニー・ボーイをきれいないい曲だなって歌っていた。でも、内容を聞いたり、歳を重ねるごとに、胸を打たれちゃう。ましてや今でも戦争している所があるじゃないですか。戦争は絶対いけないと思うの」

死を覚悟した兵士の涙や戦争の悲しさを自分なりの言葉にまとめ、歌で伝えようとしている悌子さんの姿を見て、修さんは感激した。そして妹の歌が兵士たちの心を癒していたのだという思いに至る。

平良修さん
「兵士たちは気持ちをほぐされて、休息を与えられて、優しい気持ちを養われて、その場にいたと思う」

ライブ会場が大きな歓声で包まれる中、修さんは無意識のうちに、妹を抱きしめていた。

平和への思い胸に 兄妹で肩を寄せ合い歌う讃美歌

悌子さんの暮らす石垣島は、自衛隊配備で揺れている。

石垣の港の近くにある自宅からは、自衛隊の車両が大量に運び込まれる様子や、迎撃ミサイルPACー3が配備されている様子がよく見える。

物々しい雰囲気に「再び戦争を起こしてはならない」という気持ちが、悌子さんはさらに強くなる。

修さんが悌子さんの歌を聴いた日から半年。今度は、悌子さんが修さんの活動の場を訪ねた。修さんは週1回、普天間基地のゲート前で讃美歌で平和を訴える抗議行動を、2012年から続けている。

米軍にむけて、悌子さんはダニー・ボーイを歌う。騒音に抗うように、声に力が入った。そして兄と肩を寄せ合い讃美歌を合唱。悌子さんは「兄と一緒に夢中になって歌ったのは初めて。今日は最高の日」と話す。

兄妹が、やっと同じ歌を歌えた。修さんはその重みを強く感じていた。

基地をめぐり立場が分かれた兄妹。ふたりは今、平和を願ってともに歌い、失われた時間を取り戻している。

アーカイブ 「イエスと歩む沖縄」 - こころの時代〜宗教・人生〜

アーカイブ 「イエスと歩む沖縄」 - こころの時代〜宗教・人生〜

沖縄返還から50年となる今年5月、過去に沖縄に取材した2本を「アーカイブ」のシリーズとして放送。沖縄からの問いかけを再考する。牧師・平良修さんは人間の尊厳を大...

アーカイブ 「イエスと歩む沖縄」

 

 

 

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