西郷寅太郎(習志野ドイツ人俘虜収容所長)の生涯をテレビ番組で紹介
1月8日「ハヤシソン!」という番組で西郷隆盛の息子で習志野ドイツ人俘虜収容所長だった西郷寅太郎の生涯を紹介しました。
テレビ朝日|ハヤシソン! (tv-asahi.co.jp)
以下、放送内容の一部をご紹介します。
西郷寅太郎は、西郷隆盛の第1シソン(子孫)
寅太郎さん、実は日本にソーセージを広めた人
寅太郎さんの経歴は次の通り
そして1915年習志野俘虜収容所の所長になる
寅太郎は戦争の敵であるドイツ兵に対して自由な生活を許した
➀オーケストラ合唱団
➁ビールやワインを作って飲むこと
➂ソーセージ作り
当時、政府の役人で、ソーセージを広めたいと考えていたのが飯田吉英(よしふさ)さん。ソーセージ職人のカールさんに作り方を聞いたが「秘伝のレシピだから教えられない」と断られてしまう
寅太郎所長が頭を下げて、ようやくレシピを教えてもらった。これがきっかけになって日本にソーセージが広まっていった。
今でも習志野市はソーセージが名物!
1918年にドイツが降伏し、第一次世界大戦終結。捕虜をドイツに帰すことになる。
しかしここで予想外のできごとが起きてしまう。それが「スペイン風邪(新型インフルエンザ)の流行」
そして寅太郎も感染してしまう
しかし寅太郎は、敗戦に打ちひしがれるドイツ兵を励ますため、肺炎をおして収容所に向かう
そして彼らにこう言う。「今年のクリスマスイブまでには必ず帰国させる!」
林先生「こういう広い視野でものごとをとらえる人がもうこの時代にいたんですね」
ただ残念なことに寅太郎の病状は悪化し、亡くなってしまう。
ドイツ兵の帰国はどうなったか、というと12月25日に無事帰国
トラウデン直美さん「なぜ寅太郎さんはドイツ兵に優しかったんでしょう?」
幼い時戦争で父を亡くし、その後ドイツに留学。この経験が捕虜に対する温情につながったのではないか。
父親西郷隆盛と寅太郎さんの共通点は?
林先生「戊辰戦争の時、降伏した敵、例えば庄内藩(今の山形県)に寛大な処置をとった。降伏した相手に対しては責めない。対等に扱う、という精神は父親ゆずりかも知れません。」
その証拠が山形県にある。
それが「南洲神社」、南洲=西郷隆盛をまつった神社
戊辰戦争で庄内藩は激しく抵抗していたため厳しい処分を覚悟していた。しかし隆盛は部下に「庄内藩には寛大な処置をするように!」と指示した。
過酷な処罰をまぬがれた庄内藩士たちは以降隆盛と交流を深め、その思想を世に広めるべく「南洲翁遺訓」という書物を出版。さらに隆盛を祀(まつ)った「南洲神社」を創建。今もその功績を伝えている。
敵に対しても深い情けをかける西郷隆盛の心意気。それは敵であるドイツ人捕虜を励ました息子寅太郎に受け継がれていたのです。
(以上、「ハヤシソン」の放送内容から)
ドイツ兵をホロリとさせた「西郷寅太郎所長とドイツ兵の靴下」の話
「住みたい習志野」にも、このソーセージ誕生物語の詳しい記事があります。
習志野ソーセージの恩人、西郷寅太郎と飯田技師 - 住みたい習志野
その中にこんなエピソードが紹介されています。
困り果てた飯田技師と西郷所長が構内を歩いていると、あるドイツ兵がベンチに座って、はるばる故郷から届いた小包を開けて涙ぐんでいるところに出くわしたそうです。「あの兵隊は、何を泣いているのだろう」と飯田技師が首を傾げると、西郷所長はその兵隊の持っている靴下を取り上げて、こう言ったそうです。「飯田さん、この靴下をご覧なさい。ちょっと見ると新品のようだが、こうして一針一針きれいに直したものです。ヨーロッパ中を相手に戦っているドイツでは、物資も底をつき、新品など手に入らないのに、息子を案じたお母さんがこうして届けて来た。だからこの兵隊は泣いているのです。我々も、それをわかってやらなくては…」。
日頃から、ドイツ捕虜に温情を忘れなかった西郷所長のこんな言葉が、ドイツ側にも伝わったのでしょう。西郷の頼みならば仕方がないか、ということで、とうとうソーセージの実演をやってくれることとなりました。大正7年の2月のことだったと言います。
会津攻めの惨劇は長州の戦のやり方。薩摩のやり方ではない?
庄内藩(山形県)と西郷さんのつながり、興味深いですね。
習志野ソーセージを作っている会社も山形県にあります。何だか西郷さんとの縁を感じます。
以前、「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者Hさんが、以下のような話をしてくれました。
西郷吉太郎さんと話をさせてもらった折、薩摩は本来、公武合体派として会津と薩会同盟を結んでいたのに、会津を捨てて長州と手を組んだ。会津が恨むとしたら長州よりむしろ薩摩なんじゃないか、とうかがいましたら、「会津攻めの惨劇は長州の戦のやり方です」と、ちょっと吐き捨てるように言われて、びっくりしたことがあります。少なくとも西郷家の中では、代々そう言われてきたようでした。
西郷隆盛は江戸総攻撃と言っても、本当に江戸を焼くようなことは考えていなかった。江戸落城となれば、大阪夏の陣のように一般市民に大きな犠牲が出ることは当然わかっていました。
江戸を火の海にするぞ、するぞ、と刀を振り上げながら、実は勝海舟と腹の探り合いをしていた。落とし所を探っていたわけですね。ところが、無血開城となったはずなのに、長州(大村益次郎)の策略で、西郷さんは蛇足のように上野の彰義隊討伐をやらされます。そして、会津からは、城下の無辜(むこ)の民を巻き込んだたいへんな惨劇が伝えられてくる。
西郷隆盛は、これでは話が違う、と思ったわけですね。そして、新選組の会津と並んで憎まれていた庄内攻め(庄内藩は新選組の江戸版、新徴組(しんちょうぐみ)を預っていた)に当っては、俺が陣頭指揮しないとまた会津のようなことになると言って、わざわざ庄内まで出陣するわけですね。大村益次郎は「庄内なぞ、すぐ落ちる。わざわざ西郷都督が出向くまでもない」と冷笑するのですが、長州流の戦のやり方に疑問を感じていた西郷隆盛は庄内へ出ていくわけです。
そして、続く函館の戦いには西郷さん自ら出陣はしなかったが、腹心の黒田清隆を函館攻撃に据えました。五稜郭落城前夜、黒田は城内に酒樽を贈り、城内からは榎本武揚秘蔵の国際法の本が届けられた、などという話は、長州勢ではあり得ない話だったのです。
後に西南の役が起ると、新政府は旧会津藩士を警視庁に採用します。西郷討伐に、旧会津藩士の恨みを利用しようとしたのですね。しかし、賊軍を天皇の軍隊に入れるわけにはいかない。そこで、警官ならばよかろうと、警視庁に採用します。戊辰の恨みを晴らすのは今だと、会津藩士は続々応募します。そして、警視庁新選組などという旗を持って田原坂に向う。「敵の敵は味方だ」という長州流の計算づくの中で行われた田原坂の抜刀隊というのは、実はラストサムライどうしの悲しい斬り合いだったわけです。
こういう経過があるから、会津の人も、長州はいまだに憎いが薩摩には恨みはないという。本来、内戦などやっている場合ではない。イギリスもフランスも日本を植民地化できないか、虎視眈々と狙っている。だからひとたび新政府に降参した以上は寛大に扱い、新日本のために働いてもらえ。昨日の敵は今日の友、敵こそ愛せよ、それが武士の情けだぞ、というのが西郷精神だったわけです。ところが実際に新日本の方向を決めたのは、大久保利通から山県有朋へと引き継がれた、冷徹な官僚主義、軍国主義だった。
(以上、Hさんから伺ったお話しです)
習志野市民は寅太郎さんのことを知らない?
テレビをご覧になって「習志野市の偉人なのに、こんな西郷寅太郎さんの話、初めて聞いた」という市民の方がほとんどではないでしょうか?
習志野市の学校でも教えられていないし、習志野市民にもほとんど知らされていないのは残念な話です。「歴史が消される町、習志野」から「郷土の歴史を大事にする町、習志野」に変えていきたいですね。
でもようやく寅太郎さんのことがテレビでも紹介されるようになったことは、市民としても、とても嬉しいことです。
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