岸田政権による戦後最大規模の暴力的農地とり上げと闘う農民、市東孝雄さん
統一教会、国葬、不祥事続出、マイナ保険証、軍事費2倍化、と悪政つづきで民衆の怒りを買い、崩壊寸前の「悪代官」岸田政権。今度は「親子三代100年耕してきた成田農民の農地を50年ぶりに機動隊の暴力で奪い取る、戦後最大の農地とり上げ」を年内にも行おうとしていることが、大問題になっています。
えっ?50年もたって、また成田空港敷地内農民から土地を力ずくでとりあげる? - 住みたい習志野
「社会新報」に載った「成田農民の土地とり上げ問題」 - 住みたい習志野
また「社会新報」に載った成田農民、市東さん「3代100年を超えて耕してきた農地は、私にとって命そのもの」
(11月30日付け「社会新報」)
以下、上記「社会新報(社民党の機関紙)」に載った記事の抜粋です。
11月13日、成田国際空港株式会社(NAA)がたくらむ、三里塚農民・市東孝雄さんの農地と作業場・ビニールハウスなど営農施設の強奪(建物等工作物に対する「収去命令」の強制執行)に反対する緊急現地闘争が展開された。
三里塚芝山連合空港反対同盟の萩原富夫さんが、緊迫した状況を報告した。
「NAA(成田国際空港株式会社)は『空港建設のために強制的手段は用いない』と公約したが、取りたい時には暴力を使うということだ。」
続いて攻撃の矢面に立つ市東さんが発言。
「3代100年を超えて耕してきた農地は、私にとって命そのもの。その命を取るというなら黙ってはいない。皆さんと一緒にはね返す。私の願いは、身体の許すかぎり、この地で農業を続けることだ。もう一度、日本の未来を明るく照らす三里塚の闘いを巻き起こそう」
NAAが強奪を狙う農地は、戦後農地解放からもれた「残存小作地」。そこをNAAは元の地主からひそかに買収し、その事実を18年間にわたり隠し通した末に(その間、市東家は小作料を旧地主に払い続けた)、2006年、千葉県の小作権解約許可を取り付け、農地明け渡しを要求する裁判を起こした。
小作人の同意のない小作地売買も、小作権の一方的解約も、農地法は認めていない。
市東さんは年間60品目もの作物を完全無農薬で栽培し、旬の野菜を「三里塚産直の会」の消費者に届け続ける専業農家だ。営農に欠かせない農地を失うということは、産直・共同購入を通じて育んできた食の安心・安全にとって取り返しのつかない打撃である。
不要の「機能強化」
NAAは、成田空港の「さらなる機能強化」のために農地強奪が必要だと主張する。だが、新型コロナ感染まん延で成田空港の利用は激減。NAAが公表する20年度から22年度の累積赤字は1500億円を超える。(22年度は見込み)。
しかも、欧州中心に広がる「飛び恥運動」など、地球温暖化対策として航空機利用の抑制を求める世論が国際的に高まりを見せる。成田の「機能強化」は社会的に不要であるばかりか、有害なのだ。そんなことのために貴重な自給農業の一端を担う市東さんの営農を破壊させるわけにはいかない。食料自給率わずか38%の日本にあって、守るべき公共性は成田空港ではなく、市東さんの農地・農業の側にある。(以上、「社会新報」の記事より)
(11月27日の集会で発言する成田農民・市東孝雄さん)
これが「戦後最大の暴力的土地取り上げ」の対象とされる、豊かな農地
A 南台農地 と B 天神峰農地
の大部分(赤く囲んだ部分)を市東さんから奪い取ろうとしている。
開拓から三代、100年にわたる市東家の歴史(市東孝雄さん談)
「成田空港の『公共性』を問う」(社会評論社)の記事からの抜粋です。
祖父 市太郎と天神峰開拓部落
家は最初から農家だったわけではありません。
祖父の市太郎は、明治11年に千葉県山武郡蓮沼村に生まれました。14,5歳のころ、茨城県稲敷郡長竿村の雑貨や酒を売っている店に丁稚に入り番頭になりました。
祖父は長竿村で20年近く働いて明治末の33歳の時に千葉にもどり自分で店を出しました。
(祖父 市太郎さん)
祖父が店を天神峰で始めて3年目の大正3年秋に父 東市が長男として生まれています。
祖父が始めた小作地の耕作
親父が小学校にあがる大正10年頃に祖父は店を閉め、農業を始めています。
祖父は、取香(とっこう)部落の藤﨑さんから南台の土地を借り、取香の岩澤さんから天神峰の土地を借りていました。当時は、二人とも宮内省から土地を借りていたので、祖父は転借人だったと思います。
大正15年に祖父は長谷川さんから、自宅の土地(天神峰)の借地権を買い取りました。その後昭和2年12月に、宮内省から御料地を金22円で宅地として払下げる許可を受け、昭和9年8月に4回目の分納を終え、払下げ料を完納しています。しかし、登記名義は昭和60年まで「宮内大臣」のままでした。
取り残された小作地
父東市の戦争体験
親父は2回も兵隊にとられています。20歳からの2年間と26歳からの6年間の計8年間に及びます。
(東市さんの軍隊時代)
2回目の臨時招集のときは、母ときと結婚してまだ半年余り経ったばかりで、しかも家ではすでに63歳になった祖父と母だけだったので大変でした。親父の妹のこうさんに農作業を手伝ってもらい、ようやく小作地を守ってきたと聞いています。
最後はインパール作戦に投入されてビルマで敗戦を迎えました。敗戦と同時にイギリス軍の捕虜となりマンダレーの収容所に送られました。そのため復員は随分遅く、戻ってきたのは1947年(昭和22年)8月、32歳になっていました。ビルマの戦地は「白骨街道」と言われた激戦地だったので、家では戦後もずっと親父が生きているのか死んでいるのかさえわからなかったといいます。
農地改革と家の小作地
私の家の田畑は、戦前はすべて小作地でした。敗戦直後の農地改革によって自作地になるはずでした。
ところが親父の復員が遅れ、農地改革の真っ最中に不在だったため、いろいろと不利な扱いをされるようなことが重なって、天神峰と南台の小作地は地主の保留小作地として扱われ、解放されないままになってしまったのです。
成田空港と闘う
反対運動の中で
空港問題が起こった当初、天神峰部落には約30戸が住んでいました。最初は全戸が空港反対同盟に参加していました。しかし空港公団のやり方は、杭打ち、測量、立ち退きと、何をやるにも警察機動隊の暴力です。最初の大きな出来事は1971年(昭和46年)の強制代執行で、数年後には天神峰部落で残っている家は7,8戸に減っていました。
49歳、父の死と帰農
私は、昭和25年(1950年)5月に、長男として生まれました。
中学を卒業して就職
1966年(昭和41年)3月に遠山中学校を卒業しました。親父から百姓では食べていけないので、手に職を付けるように言われました。
船橋の洋食レストランで働き始め12年間勤めました。
私が中学校を卒業した年の6月に空港問題が起こりました。でも農家はことごとく反対すぃていたので、農業が出来なくなるとは思いませんでした。
二つ下の弟芳雄が学校を出た後、親父の農業を助けました。叔母さんの家で家族会議を開き、私の方はレストランの仕事に慣れてきたこともあって、弟に跡を継がせることになりました。
しかし、その弟が家族会議から10日後くらいの昭和47年12月に交通事故で亡くなりました。親父の落胆ぶりは、ちょっとみていられないほどでした。
弟が亡くなったことで農業や闘争で働きづめの親父のことや病気の母の心配があり、また長男でしたから墓守をするためにも、50歳になったら天神峰の実家に帰ろう、帰らなければならない、と思い定めました。
昭和53年ころ、本八幡の焼き鳥屋に移りました。
遺言
親父は1999年(平成11年)1月になくなりました。
親父は「この世を去ったときは長男孝雄に相続させる」「土地建物、小作耕作権を新東京国際空港公団、千葉県、その他空港賛成派に絶対に売り渡してはならない」という遺言を残し私に跡を託しました。
49歳の1999年(平成11年)12月に天神峰の実家に戻りました。
農業が生き甲斐
農作業は苦になりません。毎日14時間働いていたくらいだから働くことが好きだし、飲食業と同じで、作る仕事が性に合っているんでしょうね。農業の仕事に馴染むのは早かったかもしれません。有機野菜を自分の手で育て出荷するようになって、農業に生き甲斐を感じるようになりました。農業日誌をつけ、連作障害に気をつけながら、前の年のやり方を参考にして年間計画を考えるのは楽しいことです。
小作権侵害は許されない
◎ 秘密裏の小作地売買
新聞で知った売り渡し
空港公団が小作地の底地を買収していたことは、2003年(平成15年)12月25日の朝日新聞の記事で初めて知りました。
90年来小作料を払い続けてきた市東家の人間に地主の岩澤さんと藤﨑さんが底地売買のことを何もいわないなんて、考えられないことでした。登記を調べてみると、空港公団が岩澤さんと藤﨑さんから買収したのは15年前の1988年(昭和63年)になっていました。
知らずに続けた小作料支払い
小作料は、親父が欠かさず暮れに払いに行きました。領収書も残っています。
1999年に(平成11年)に親父が亡くなり、その年末に私が戻ってきて農業を継ぐということで、地主に挨拶に行き地代を支払いました。二人とも快諾し、「市東孝雄」宛の小作料の領収書を発行してくれています。
同意のない小作地売買は無効
農地法では、小作地はまず小作人に買い受ける権利があるとされています。小作人が買わない場合には、小作人の同意の下で第三者が買うことができるわけです。小作人の同意のない、ましてや小作人に秘密の農地売買なんて、あり得ません。
◎ 小作権を奪う農地転用
成田市農業委員会
(成田市農業委員会が)現地調査といったって畑を眺めていたのは1分足らず。その場にいた私の説明を聞くどころか挨拶ひとつないのです。農家の立場に立つという農業委員会の責任、役割とは、まったく無縁なやり口というほかはありません。
「合意解約すべき」の付帯意見
それでも、さすがにこれではマズイとブレーキをかける動きもあったようです。成田市農業委員会は、千葉県に意見を上げる際に、合意解約を求める異例の意見を付けました。「本来は地主・小作人が双方の合意を得て合意解約、離作補償、用地買収の後に所有権移転することが望ましいことは自明であり、この観点からも(中略)引き続き誠意を持って賃借人と合意解約により、賃貸借を解約するための努力をすることを求めることとして意見の一致を見た」というものです。
なんでも旧大栄町選出の農業委員などが、小作権者の同意もなく公団が農地を買収したことは問題だから申請は却下すべきだと強く主張したようです。
千葉県農業会議
千葉県は、私に何の意見も聞くことなく、また現地の状況を調べることもなく、9月14日に千葉県農業会議の定例常任会議を開催し、あっさりと許可を決定しました。
農業会議の審議が終わった後、傍聴に来ていた12名が傍聴席から説明を求めました。私も、「本人が来ているんだから、転用に当たるとか言っているが、その理由を説明しろ」と求めました。でも農業会議員らは20分近く全員下を向いたまま沈黙するだけでした。
(編集部より)
三代100年にわたって耕してきた農地で作られた有機野菜がみんなに喜ばれています。何としても農地を守らなければいけませんね。
孝雄さんのお父さんの東市さん、戦争に二度も駆り出され、せっかく生きて帰り、農地が自分のものになるはずだったのに復員が遅れ、不本意ながら「小作人」のままにされ、どんなに悔しかったでしょうか。「暴力で農地を取り上げたことは謝罪する。二度としない」という国の約束を信じて農業を継いだ孝雄さんに、またも力ずくで農地を取り上げ、農業を続けられなくしようとする非道。この国の政府はどこまで腐っているんでしょうか。
支持率が下がる一方の「死に体」岸田内閣に、こんな農地とり上げの暴挙を許してはなりませんね。
コメントをお寄せください。
<パソコンの場合>
このブログの右下「コメント」をクリック⇒「コメントを投稿する」をクリック⇒名前(ニックネームでも可)、タイトル、コメントを入力し、下に表示された4桁の数字を下の枠に入力⇒「コメントを投稿する」をクリック
<スマホの場合>
このブログの下の方「コメントする」を押す⇒名前(ニックネームでも可)、コメントを入力⇒「私はロボットではありません」の左の四角を押す⇒表示された項目に該当する画像を選択し、右下の「確認」を押す⇒「投稿する」を押す