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岸田政権の安保大転換 沖縄が「アメリカのための」戦争の最前線に。沖縄戦、戦後基地化に続き、またも「捨て石」にされる沖縄

2022-12-21 23:47:16 | オスプレイ、安保、平和

(沖縄テレビ)

歴史の大転換 沖縄が戦場想定の軍拡路線に疑問

(琉球新報の記事より)

安保大転換 沖縄最前線 反撃力保有 米軍一体化 3文書閣議決定

安保大転換 沖縄最前線 反撃力保有 米軍一体化 3文書閣議決定

 政府は16日、防衛力強化に向けた新たな「国家安全保障戦略」など安保関連3文書を閣議決定した。反撃能力(敵基地攻撃能力)保有を明記し、長射程の米国製巡航ミサイル「トマホーク」の2026年度配備を目指す。集団的自衛権行使容認に続く安保政策の歴史的転換となり、軍拡競争への懸念は否めない。県内に駐屯する陸上自衛隊第15旅団を今後5年以内に師団化する計画など、軍事拡大する中国に対抗する形で南西諸島の一層の防衛強化も明確に打ち出した。演習や基地負担の増加とともに、沖縄が軍事対立の最前線に立たされる危険性が高まる。 

 反撃能力保有で自衛隊の役割は拡大し、米軍との一体化が加速。憲法9条に基づく専守防衛の理念をさらに形骸化させることになる。岸田文雄首相は記者会見で「反撃能力は今後不可欠となる」と強調。3文書を受けた日米協力を巡り、抑止力強化に向けて「あらゆるレベルで緊密に協議する」と説明した。

 23年度から5年間の防衛費総額は約43兆円で、19~23年度の1・5倍を超える異例の増額。27年度に防衛費と、それを補完する取り組みを合わせた予算水準を国内総生産(GDP)比2%とすると記載した。

 反撃能力は自衛目的で他国領域のミサイル基地などを破壊する能力。歴代内閣は自衛権の範囲と解釈しつつも政策判断で持たないとの立場を堅持してきた。変更の背景には北朝鮮や中国のミサイル技術の高度化がある。

 日本への武力攻撃が発生した際、武力行使の3要件に基づき、必要最小限度の措置として行使。先制攻撃は許されないと明示した。発動の際は米国と連携する。政府は、集団的自衛権行使が可能となる存立危機事態でも行使できるとの認識だ。

(デモクラシー・タイムスより)

米国が台湾防衛にこだわる理由

(アメリカ産業にとって死活的に重要な台湾の半導体)

 

 

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安倍晋三氏、父方の祖父(安倍寛)は母方の祖父(岸信介)と違い、軍国主義に反対していた

2022-12-21 23:29:09 | 雑学

(幻冬舎plusの新書紹介記事より)

安倍晋三元総理の祖父、岸信介は何者なのか

安倍晋三元総理の祖父、岸信介は何者なのか|世襲 政治・企業・歌舞伎|中川右介

岸信介きしのぶすけ)は一八九六年(明治二十九)に現在の山口県山口市に生まれた。総理大臣になったのは六十一歳になる年だ。生家は佐藤家で、二男に生まれ、岸家の養子になった。実弟が佐藤栄作で、兄弟で総理大臣になったのはこの二人しかいない。さらに岸の孫(娘の子)・安倍晋三も総理大臣になる。

この一族の近代史の始まりは、信介・栄作の曽祖父にあたる佐藤信寛(のぶひろ) (一八一六~一九〇〇)からで、このひとは長州藩の藩士で藩校である明倫館で学び、江戸に出て長沼流兵学も学んだ。吉田松陰の師としても知られる。

佐藤家の家督は、長男の松介が継いだ。だが長女・茂世は他家へ嫁がせるのではなく、岸家の秀助を婿養子に迎えて、佐藤・分家(ぶんけ)とした。この夫婦の間に生まれたのが、市郎、信介、栄作の三兄弟である。彼らは分家の子だった。

佐藤・分家には三人の男子が生まれたが、二男・三男は家督を継げないので、他家へ出さなければならない。

二男・信介(一八九六~一九八七)は、中学三年の年に父・秀助の実兄で岸家を継いでいた信政の養子となった。信政に男子がいなかったためで、娘・良子との結婚を前提とした養子縁組だった。信介は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、一九一七年(大正六)に東京帝国大学法学部に入学し、二〇年(大正九)に卒業した。二十三歳になる一九年に在学中だったが良子と結婚した。卒業すると官僚になる道を選び、農商務省に入り、二五年に同省が農林省と商工省に分割されると商工省(後、通商産業省を経て、経済産業省)に配属された。

三男・栄作は一九〇一年(明治三十四)に生まれた。信介の五歳下になる。山口中学、旧制第五高等学校(熊本大学の前身のひとつ)を出て、信介と同じ東京帝国大学法学部に入学した。五高時代は池田勇人と同期になった。二四年(大正十三)に東大を卒業すると、兄の信介から農商務省に誘われたが、親戚の松岡洋右の紹介で日本郵船へ就職することにした。ところが会社側の事情で採用取り消しとなり、松岡が次に紹介してくれた鉄道省に入った。二六年に、佐藤本家の娘・寛子と結婚し同家の養子になった。分家に生まれたが、本家の家督を継いだわけだ。信介・栄作兄弟は二人とも従妹と結婚し、養子になり、それぞれの家を継いだのである。

岸信介は四十歳になる一九三六年十月、商工省を辞めて満州国国務院に転じ満州へ渡り、実業部総務司長に就任した。満州国国務院では産業部次長、総務庁次長と出世していく。満州では計画経済・統制経済という社会主義的政策を実行した。

満鉄総裁・松岡洋右は岸の親戚である。岸は関東軍参謀長の東條英機、日産コンツェルン総帥・鮎川義介らとも親しくなり、岸、松岡、東條、鮎川、そして星野直樹の実力者五人は名前の末尾をとって「二キ三スケ」と呼ばれた。岸は四十代で満州という国家を自由自在に操縦したのである。

一九四一年十月、岸は東條内閣で商工大臣に就任し、十二月の米英との開戦詔書に大臣として署名した。四二年四月には衆議院議員選挙に山口県第二区から立候補して当選した。この選挙で隣の第一区で当選したのが安倍寛(かん)(一八九四~一九四六)──安倍晋三の父方の祖父である。

安倍家と岸家

安倍家は山口県のいまの長門(ながと)市で大庄屋をしていた大地主で、酒と醬油の醸造も営んでいた。

一八九四年(明治二十七)に生まれたのが寛だった。岸信介の二歳上になる。だが寛が幼い頃に両親とも亡くなってしまい、伯母に育てられた。

寛は一九二一年(大正十)に東京帝国大学法学部を卒業すると、自転車製造会社を東京で経営した。だが二三年九月の関東大震災で工場が焼失し、会社は倒産した。長男・晋太郎が生まれたのは震災翌年の二四年三月だった。しかし八十日後に妻・静子と離婚してしまう。寛は晋太郎を連れて山口県に戻った。

安倍寛は一九二八年の衆院選に山口一区から立候補したが落選した。日置へき村長、山口県会議員などを務め、三七年の衆院選で初当選、四二年の衆院選でも当選した。この四二年の衆院選はいわゆる「翼賛選挙」だったが、安部寛は軍閥主義に反対し、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補して当選した。すでに大臣となり国家の中枢にいた岸信介とは政治的には対極の立場にいる人だった。

開戦時に閣僚だったので岸は敗戦直後の四五年九月に、A級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに入れられたが、「反東條」だったことが認められたのか、不起訴となり、四八年十二月に出所した。

安倍寛は戦後は日本進歩党に入り、一九四六年四月の衆院選の準備をしているさなかの一月三十日に、心臓麻痺で急死した。五十一歳だった。長男・晋太郎(一九二四~九一)はまだ二十一歳だった。岡山の第六高等学校から四四年に東京帝国大学法学部に進学したが、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊した。もし戦争が続いていたら特攻隊で散っていたはずだ。敗戦後、大学に復学したとたん、父が亡くなったのである。

晋太郎は四九年に卒業すると毎日新聞社に入り、五一年に岸信介の長女・洋子と結婚し、その二男・晋三が内閣総理大臣になる。

 

 

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