雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

酒と言葉と音楽の渾然7

2009-03-19 09:58:47 | 音楽
数日前、Cerebral と題する文章を書くきっかけになったドラマーと呑んだ。

デビュー作のCDも発売間近で、ラジオ出演やライブなど忙しそうだった。

なんでこんなミュージシャンが僕と知り合ったかといえば、僕がある講座で担当する米南部文化を受講してくれたためだ。

彼がまだNYにいたころ、アメリカではそれなりに知名度のあるドラマーの個人レッスンを受けた。

そこで、日本人である彼には全くアフリカ系アメリカ人が背負っているものを感じない、となかば罵倒されたらしい。

日本に帰り、十数年やってきたドラムをあきらめかけていたとき、僕の講座が目にとまり受講した結果、そのアフリカ系アメリカ人ドラマーに知らないと指摘された背景はこれだったか、と開眼したらしい。

その後数年彼は実学としてドラムを更に勉強し、今回デビューにいたったわけだが、その間もいろいろ会う機会があり、これまで親交が続いてきたわけだ。

なんでも僕の魅力は、どうしてそこまでこだわるかと思えるくらいの直球勝負にあるらしい(笑)。

僕は僕で、折角プロのミュージシャンに会うのだから、音楽について話をしたいとその約束をしたときからずっと考えていた。

そこでかねてから疑問だったことを考えることになった。

なぜブラームスとブルックナーが数奇か、ということだ。

以前も書いたが、人間の表現手段として普遍的な感じなのは、言葉、数、音、絵である(日本人としては味覚もいれたいが)。

そしてそれぞれが共有および固有の表現範囲を持っている。

音の場合、なんというのだろう、自分のなかに沸き返る力や感情そのもの、思想などを動的に表現する独特な力があると思う。

そうだとすると、僕はなぜ彼らにほれ込んだのだったか。

特にブラームスの場合、細かなところまでが心と感応し官能的な結びつきさえ感じさせるのはなぜか。

何を構築していたのか。

音楽のアマチュアである以上、彼らが何を描いていたのかを知る手段がないから、フルヴェンに頼ろう。

フルヴェンいわく、ブラームスは時代と対決し時代から自分を守らなければならなかった作曲家である。

はじめてこれを読んだとき「へぇ」と感心した程度でよくわからなかった。

しかし幸か不幸かわかる気がしてきた。

時代との価値観がズレている。

ということを痛烈に感じるようになったのは、以前からあったような気がする。

政治や社会を改変するような(大きなことをいうようだが)、そうした関わりさえバカバカしく思えてくるような根本的な違いがある、と。

もしそうであれば、どのようにして時代と付き合うか。

時代に通用する表現形態を用いてそうした自分を表現するしかない。

もしブラームスがフルヴェンのいう通りなら、今こそ理解できる気がした。

フルヴェンいわくそうしたブラームスの行為は「即物的」とかなんとかだったかと思うが、今僕がそれをして日々過ごしているからだ。

結局ミュージシャンに質問するのではなく自問自答して終わる形になったが、そんな思索の経緯は説明した。

お店は、以前乙女といった日本料理店で、今回も酒、肴ともに充実していた。

アナゴの稚魚とか、ニシンの握りとか、なかなか喰えぬものが並んだ。

ライブは音楽だけの特権ではなく、料理もそうだということをわかってもらえてうれしかった。


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